90 犬だからね、なんの問題もないね!
「しょ、しょうがないじゃない! 急だったし、向こうも急ぎみたいだったんだから!」
急ぎなら人を死地に送り込んでもいいとか、人としてどうなのさ。その発言は人間としてやり直せるうちに撤回した方が身のためですよ。
じゃないと、
そこら辺ちゃんと考えました? たとえ人じゃなくても命なんだぜ……。
「ああもう、うるさいッ! 送る時はこっちで保護式かけてあげるんだから、頂上に着いてからはアイツの管轄よ! そっから先まで面倒見てらんないっての!」
(人はそれを開き直るって言うんですよ?)
うがーッ! と吠えながら見事なまでに開き直ったクイーンには舌を巻くのと一緒に尻尾も巻かずにはいられない。
目の色と同じくらい赤くなった頬は、事情を知らない人から見れば微笑ましさのあまりニヨニヨしそうになるんだろうけど、ワタシの本能がクイーンさんから捕食者としての気配を受信しまくって、恐ろしさのあまりガタガタなんで、そこんとこ気がついてくれてもいいんですよ?
まぁ……、世界には変わらないものってのも、あるんだけどさ……。
(たとえば、ワタシの立場とかな)
「いいことッ!? アンタはつべこべ言わず、私の言うとおりに送られとけばいいのよ! 分かったら返事!」
「は、はい!」
「返事は『ワン』でしょッ!?」
「ワワワワンッ!」
ふふ、ワタシの本能は止まるところを知らないみたいですね。クイーンさんの手元からワタシの首元に伸びる存在しない筈のリードがはっきりと見えるぜ!
元気に震えてくれる鳴き声には、クイーンさんも満足げに頷いてくれているし、満点でしょ!
「よしッ!」
「よしッ、じゃあなぁい!」
(おおっとぉ!? ここで今の今までワタシを見捨て、もとい静観を決め込んでいたリィルのエントリーだぁ! はたして彼女はこの切迫した状況を打破する術を持っているのでしょうか? 次の一手が注目されます!
ゆけリィル! クイーンさんの横柄な態度を打ち砕き、見事、ワタシを救いだしてくれッ! さぁ、運命の瞬間です!)
リィルが立ち上がり、クイーンさんに向かって挑むようにずいっと身を乗りだす。
至近距離で睨み合うように視線を絡ませる二人の間で、見えざる青と赤の光線がぶつかり合って火花を散らしている。
数泊の間をメンチで語り合い、視線を切らないまま、リィルの宣誓が響きわたった。
「――イディちゃんの飼い主は私だからッ!」
――その声には、驕りも虚飾もなく、ただ澄み切った覚悟があった。
(なんて綺麗な目をしてやがる……)
胸に手を当て、我が心には砂一粒ほどの迷いすらないと胸を張るその姿は、涙なくして直視することができない尊さと傲慢さが入り混じって、ワタシの心までぐちゃぐちゃにかき混ぜてくれた。
でもいいんだ……、誰の元にいようと自分の立場が変わらないのは知ってるからさ。
「いや、今そこツッコんでくる!? 今はそんなことにかまってられるような状況じゃないって話したでしょッ!」
「そんなことってなにさッ! 撤回してッ! いくら中層の管理者だからって言っていいことと悪いことがあるよ!
私は、イディちゃんの一番の友人で保護者で、飼い主なんだから!」
(最後がなけりゃ完璧だったぜ、オマエの口上……)
それはそれとして、ワタシの所有権を話し合っている場合ってのが存在するのかはさて置いて、今がどんな状況なのか確認しておいた方がいいような雰囲気ですね。
「あ、あのぅ……」
睨み合う二人をそこはかとなく刺激しないように恐る恐る小さく手を上げた。
「なによ、今忙しいんだけど!」
「ちょっと待ってて、イディちゃん。この蜘蛛に謝らせたら聞いてあげるから」
こちらには一瞥もくれずに睨み合う二人に、さすがのワタシも尻尾を巻いて逃げる前に腹を見せる準備を始めようとするが、それをなんとか押し止めつつ、もう一度声をかけようとするも、犬としてあまりに優秀なワタシは飼い主に反抗することを身体が拒否しそうだった。
しかも二人だからな、それもただの飼い主じゃない。人間やめてる系の飼い主が二人だからな! 一足す一は二じゃないんだよ。彼女たちは一足す一で二百だ。十倍だぞ十倍!
しかし、ここで引いては、特に理由の思い当たらない暴力がワタシを襲う気がする!
そうなったら収拾がつかないのは目に見えてる。頑張れワタシ! いまこそ十倍の力を見せるのだ!
「はい黙ってます」
……ふぅー、さすがの従順力十倍だ。姿勢が違うぜ。なにせ正座だからな!
こんなピンッとまっすぐに伸びた背筋は、そうそうお目にかかれるものじゃないだろう。水揚げしたばっかりの旬の秋刀魚でも、今のワタシには及ばない。
この状況、まさに水を得た魚、いや、おやつを得た飼い犬の如し!
だから大人しく待っとくんで、終わり次第ご
「いいこと? 繰りかえすけどね、マジでこんなことやってる暇ないの!
そもそも何が起こってるのかさえ分かってないってのに、緊急事態ってことだけが広まってちゃってるんだから!
この混乱を鎮めるためにも、逸早くこの子を頂上に送る必要があるんだってば!」
クイーンさんの凄まじい剣幕に、そのまんまの意味で蜘蛛の子が散らすように逃げていく。
しかし、そんな人間とは思えない、というか人間のものじゃない形相を向けられてもなお、リィルは正面から相対してみせた。
でもその顔は、どこか義務とか罪悪感みたいなのに縛られてるみたいで、苦しそうにあえいでいるようだった。
「……そんなことは分かってるよ! それでも今の言葉は取り消してもらわなきゃ困るの!
この子を頂上へ送り出すのは、……死ぬかもしれない場所に送り出すのは私じゃなきゃ駄目なんだよ!
だからッ! 飼い主は私! 責任があるのも私!
それが、こんなことに巻き込んじゃったことに対する、せめてもの責任だから……」
「リィル……」
……いや、なんか想像以上に深刻そうな空気を醸し出しているところ大変に申し訳ないんですが、そんな深刻にならなくてもいいのでは?
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