58 翼(じゆう)を下さい


 なんとか持ち直してきた足腰で、楽しそうに言い争いをしているゼタさんとシュシュルカさんから距離をとる。これ以上何かに巻き込まれるのはごめんだ。


 とりあえず、なぜかは知らないけれど二人に挟まれているラック君もご機嫌みたいだし、ワタシが独りでゆっくりしても問題ないだろうし、これはボッチとかじゃないからうまく輪に溶け込めないとかそういうことじゃないから寂しくなんてないし。


 ――濡れた頬と耳に風が気持ちいいじゃねぇか……。


「ごめーん! イディちゃん、そっちいったー!」


 澄んだ青空に風の行方とワタシの行末を訪ねていると、視界の端の向こうからリィルの声が届いてきた。


 振り向くと、手を振りながら何やら上空を指差している姿に視線を持ちあげられて、仰いだ先には遥か頭上を飛んでくるフリスビーがあった。


 でも何か様子というか存在そのものが可笑しいように思えて、目を凝らした。


「……いや、そうはならんやろ」


 これは風に上手いこと乗っているのか、それともこの世界の住人特有の凄まじいハイパワーによって投げ飛ばされたのかでいうと、ワタシは後者を支持したい。


 本当にどうやったらそんな、風どころか木の枝まで断ち切っていきそうな超回転を生みだすことができるのか。


 そのシュイーンって音は本来なら電鋸でんのことかのものだから、そもそもフリスビーから音が出るってどういうことなの、可哀想だからその音は電鋸さんに返してあげて。


 ――ホント、常識まで投げ飛ばさなくたっていいじゃない。


 しかし声をかけて指を差して追ってこないで手を振っているってことは、これをワタシに取れということだから、遊ぶならもう少し一般人を装ってほしい。


 本当にどうすればいいんでしょうか、全く落ちてくる気配がないんですけど。


 しかも意外でもなんでもなくて速い、むしろあれはフリスビーに擬態した武器だと言われたらなんの疑いもなく信じるどころか、実はやっぱり武器なんでワタシが受け止めるべきではないってことがワンチャンある。いや、ないよね知ってる。


 しかしどうしようか、こうしている間にもフリスビーという名の武器が迫ってきている。


 幸いこのスーパー獣っ娘ボディの超感覚があるおかげで余裕はある、いやむしろこの身体能力を制御しきる自信がなくて二の足を踏む。


 リィルとの追いかけっこの時は無我夢中で、自分で身体を動かしているというより本能にまかせていたからできた訳で、自分の意思でどうにかできるなんてつけ上がっては、この世界での初めの一歩よろしくオーグル上空に撃ちだされそうで、むしろ上がっているのはワタシの身体でそのツケは天井知らずって話だ。


(ほら、我ながら上手いこと言って落ちもついたんだからさ。フリスビーさんもついでに落ちてきてもいいじゃない。……疲れたよね。もう……、頑張らなくて、いいんだよ?)


 しかし、どうやらあのフリスビーは相当な頑張り屋らしい。一向に落ちてくる気配がないどころか、スピードも回転量も増しているよ間違いない。


 なんかもうジェットエンジンみたいに周りの空気すら巻き込んでいるような気さえする。


(……なんで。なんでそんな! そんなに頑張れるんだよッ!?)


 いつの間にか、固く握りしめた拳の中を汗がしたたっていた。


 いつか落ちるなんてこと、彼 (?) が一番知っている。それでも、その滑らかな円形の身体の縁が柔らかな大地に触れ、地面を削りながら身体を土に汚し、やがて静かに横たわるその時まで。飛び続けることだけが、生き様なんだ。


 そんな、飛ぶことに全部をぎ込んでいる姿を見せられたらさ。


 ――目が離せないじゃんか……。


 せめてワタシだけは最後まで見ていよう。その生き様を、目に焼きつけていよう。彼の後ろ姿が雲間に消える、その瞬間まで。それが、手向たむけになる……そんな気がするから。


 これが投飛とうひではあっても、逃避ではないことだけが、この場の真実なんだ。


(行けばいいよ、気が済むまで。……ホント、男って馬鹿だよね)


 それをこんなに真剣に見つめちゃってるワタシも、同類みたいなもんだけどさ。


 だからかな、今まさにワタシの頭上を通り過ぎていこうとする君を、こんなにも近くに感じているのは。君は飛んでいて、ワタシは地面に立っている。


 その筈なのに、まるで目の前で君がいて見つめ合っているような。心の距離がゼロになって重なり合っているような、そんな幻想まで浮かんでくるんだ。


 距離という概念を追い越して、ワタシたちは、一つに。


 ――あぁ……。今は、空がこんなにも、近いや。……近い?


 はて、これはどういうことだろう。目の前には、いっぱいに広がる蒼穹。少し首を巡らせてみれば、に茂るは壮大な樹冠。


 何よりも身体を背中側に向かって引っ張ってくる、強大な力。ワタシはコイツをよく知っている。


 月曜の朝。布団の呪縛を全霊で以てはね除けようとするワタシを、鬼のごとき万力で地面に縛りつけてくる、この優しい悪魔の名前を、ワタシは知っているッ!


 ――オマエは、


(重力さん!)


 元の世界からの長いつき合いではあるのに、なんだかこっちの世界にきてから空に向けて射出してみたり本能に任せて縦横無尽に跳ね回ったりで、ひどく久しぶりな気がするけど、この力強さを見るに元気そうで何よりです。


 それはそれとしてワタシは何故、に向かって引っ張られているんでしょう。貴方は通常なら下に向かって働いているべきで、それが上に向かっているとか働き方の改革の方向性が行方不明になっているし、ブラック労働とかそういう次元ではなくて世界が闇に覆われることになるので一端落ち着こうか。


 でもね、ワタシは知っているんだ。世界っていうものが、そう簡単に変わったりしないって。飢餓も貧困も、戦争も。色んなものが絡み合って繋がり合って、拗れている世界が、簡単な分けないから。


 だからこれも重力が可笑しくなっている訳じゃない筈だ。じゃあ何が可笑しくなっているかって考えるまでもなくワタシな訳で、それはもうこっちの世界に来る前からも来た瞬間からも可笑しくないことがないから、過剰なまでの説得力の嵐。


 これらから導き出される答えは、――ワタシ、落ちてね?


 いや、人間としても社会人としても大人として落ちるまでもなく既に堕ちきっているけど、それはこの身体になった瞬間から決められていたことだから、今じゃない。


 そうだ、そういうことじゃなくて今この瞬間のワタシは地から足を離しており、先程の宙に漂った僅かな間は過ぎ去って、今再び後頭部から大地に還ろうとしているのではないだろうか?


 これなら重力さんが頭上に向かって働いている理由も納得いくし、足下にアーセムの樹冠が見えるのも当然だ。


 ふふっ、なんという名推理。こっちの世界に来てから一番の働きぶりじゃないか、我が頭脳よ。だから明晰になったついでに打開策も弾きだしてお願いしますよ時間がないんだっ!


 なんでか言うことを聞かない身体の背後から、刻一刻と迫ってくる大地に気配を感じる。


 でもワタシは信じているんだ、これだけ明るく冴え渡って真っ白になった思考ならできるって。


 ――オマエがこのまま終わる訳ない、そうだろ? だからさ。早いとここんな奴、片づけちまおうぜ!




 ……誰か助けて下さい。


 まさか何も浮かんでこないとは、自分のことを信じたのが敗因ですね、分かってた。


 でもさ、きっと大丈夫なんだ。心が傷ついたって身体は傷つかないからさ、なんの問題もないんだよ。

 ほら、今だっていつまで経っても背中からの衝撃なんてこないどころか、足裏と掌から土の感触がしているくらいで、周りを彩る世界が今まで以上に鮮やかに大きく見えているんだからさ……。




 それで、――ワタシはなんでフリスビーを咥えてリィルを見上げているんだろう?

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