59 手が届かないから尊いんだよなぁ……
そもそも、ワタシはいつから四足歩行に生き方をシフトチェンジしたんだろうか。
腰も頭も低くしながら社会の荒波の下を掻い潜っていくっていう信条は生まれながらだけど、手足を地面につけるのは土下座の時だけって心に決めていた筈なのに。
それがどうだ。
膝をハの字に開いて、その間でピンと腕を伸ばした状態で地面に手をつき、自然と突き出す形になった尻の上で尻尾が快活に振られ、なぜか得意げに笑みを浮かべた口にはフリスビーが挟まっている。
こんな、こんな――、
「なぁああぁあああッ!!」
口から零れ落ちたフリスビーが地面で小さく跳ねた。
全身が爆発したみたいに熱が噴きでる。もう確認するまでもなく顔が真っ赤なってる、全身から汗がダラダラと流れ続けてる、一緒に人間の矜持とかも流れだしているんじゃないかって心配になったけど既に亡くなっているから問題なかった。
全身を焦がす羞恥の熱に涙が沸きだしてきて、溺れているみたいに滲んだ視界の向こうで、リィルの口元がニチュッと弧を描くのを見えた気がした。
「イディ、まだ飛びつき癖が治ってないんじゃん! おっ子様だ~」
「おあぁああぁー!」
ガル君がワタシを指差しながらからかってくるのに、声を上げてく頽れた。
握りしめた小さな拳と膝小僧を地面に擦りつけながら四つん這いになると、垂れ落ちた涙と涎が地面に染みを残して消えていった。
そもそもワタシは何をしたんだ、頭上を通り過ぎる寸前のフリスビーを熱烈に見つめていたことまでしか思い出せない。
それから、それから……どうなったんだ?
記憶が曖昧だ。脳裏に残るのは、フリスビーを見上げていた筈なのに次の瞬間には青空を見下ろしていたということだけ、その間の光景が全く浮かんでこない。
ただ、これだけは分かった。……分かってしまった。
這い蹲ったワタシの手の間で、静かに横たわるフリスビーについた真新しい歯型とその上をヌラリと照らす涎の跡に、理解させられてしまった。
ワタシは、
――負けたんだ……。
「あ゛あぁああぁ……」
欲望に、本能に、膝を屈して、しまったんだ。
――一度も勝ったことねーけどさッ!
思い返してみれば空飛ぶフリスビーを視界に捉えた瞬間からおかししかった、いや捉われたのはワタシだったんだ。
アレに跳びつきたい、空中でキャッチする姿を見せつけたい、リィルの元に駆け寄って、褒めさせてあげたっていいんだよ、って下からのくせに傲慢な笑みで見上げたい……。そんな獣欲にワタシの小さな理性は飲まれてしまったんだ。
小っちぇなぁ、ワタシ。……見たまんまだけどな。
「なっ、なんだよ。そんな泣くことねーじゃん。これじゃ、オレが苛めてるみたいじゃんかよ」
「大丈夫だよ~、イディちゃん。ガルだって一昨年くらいまではボールがあるとすぐに跳びついてたも~ん。だから、ね~? 泣かないで~」
「なっ!? それは今はかんけーねーじゃ」
「ガル~?」
「んんだけど。まぁ確かに、獣の、特に犬系の本能からの癖は治るのが遅いヤツもいるっていうし、だから……。だぁー! もう悪かったよ! 泣き止めって!」
心優しい子どもたちの気遣いが、余計にワタシの心をハチの巣にする。穴だらけになった精神から溢れでてくる羞恥とか焦りやらが、汗や涙や涎となって止まることなく流れでてきた。
「……イディちゃん」
優しさを煮詰めたような声音に、ビクッと全身が
下を向いた視界の中で、ワタシの影に覆い被さるようにリィルの影が重なる。
分かってる。彼女がどんな意図を持っていたとしても、それがワタシの救いになるなんてことはあり得ないんだ。でも、それでも、縋らずにはいられないのが人間なんだよね。
「リ、リィル……」
恐る恐れるあまり、震える声と身体に合わせて揺れる視界を渾身の力で持ち上げた。
太陽を背に、濃く深い影の底から笑みが覗いてる。弧を描くブルーの瞳が
その強すぎる輝きがワタシには恐ろしく映って仕方なくて、色々な感情に飲み込まれて笑みになり切らない中途半端な表情のまま、水面に漂う金魚みたいな目で見つめ返した。
影に覆われているリィルが燦然と瞳を輝かせているというのに、陽を燦々と受けているワタシの瞳が濁り切っている。そこに覆しようのない社会の縮図がある気がした。
なら、ワタシはただ待とう。天からの裁きを待つ罪人のようにただ仰ぎ見たまま、彼女の決定が下るのを待ち続けるしかないのだから。
両手を投げだして震える身体をさらけだしていると、リィルが静かに膝を折り、まるで全ての罪を許す聖母のごとき、たおやかな手つきでワタシの頭に手を乗せた。
顔の位置が同じ高さで正対したことで顔の影が晴れ、陽の下に照らしだされた彼女の笑みは澄んだ水のような清らかさが溢れているようだったから、自然とワタシの目からも雫が零れていた。
「リ、リィルぅ……!」
そうか、ワタシに必要だったのは、誰かを信じることだったんだ。今なら、そのことを心の底からの納得と共に受け入れることができそうだよ。
頭から耳の裏をくすぐって頬に添えられた手を縋るように両手で握りしめながら、彼女の笑みを前にワタシの顔も強張った頬の端から
親愛の情が架け橋となって見つめ合うお互いの瞳を結ぶ、ワタシたちの間に友情以上の何かが確固に築き上げられているのは疑いようもなかった。
ああ、こんなにも清らかで、静かで、安らいだ気持ちで満たされたのはいつぶりのことだろう。リィルの喉元を滑るようにくすぐってくる右手も、いつの間にかフリスビーを拾い上げて顔の横で見せつけるように揺れている左手も、穏やかなまま受け入れことが……フリスビー?
それは確かに地面に落ちていた筈のもので、なんでそれが彼女の手に収まっているのか、訳が分からずフリスビーとリィルの顔を交互に見つめた。
「え、えっと? リ、――ッ!?」
――そんな、あり得ない。これは、綺麗過ぎる!
気づいた、気づいてしまった。まるで真水のように、不純なものが存在しないリィルの笑み。まるで、中身がないみたいに澄み切っている。
「リ、リィールゥウウ!」
叫んだ時には、リィルの身体は既に投てきのモーションに入っていた。
しゃがんだ体制のまま、素晴らしい重心移動をもって腰を切り、下半身から生まれた回転エネルギーはいささかのロスもなく背骨を伝い、肩から腕、手へと連動していく。
その全身全霊をかけた無駄に洗練された無駄のない無駄な動きが、目の前をスローモーションで流れていく。
このまま何もしなければフリスビーは再び大空へ解き放たれ、ワタシの本能も解き放たれる。今度こそ人間性と理性が磨り潰されかねない危機。
……だけどね、リィル。貴女は見誤っているよ。
これだけ近づいていればワタシのスーパー獣っ娘ボディの方が、――速い!
どれだけワタシの手が小さくても、腕を伸ばせば届くこの距離なら、掴める。この手に希望の星を掴めるんだ。手を、伸ばせば。
手を、手を――!
(いつの間に糸で雁字搦めにしたんですか?)
リィルの右手を包むように縋っていたワタシの両手を、幾重にも糸がとり巻いていた。ついでに足も針と糸で縫い留められていた。
これでは手を伸ばすことなんて不可能だ。ワタシの手は、また何も掴めずに終わるのか。
「……やめろ」
希望も掴めない、お椀も掴めないんじゃ、いったい何を掴めばいいって言うんだ。
ワタシはこっちの世界に来ても、何も変わらず、何も変えられず。ただ与えられるままに甘受して、飼い馴らされるしかないって言うのかよ。
――それじゃあワタシは、ワタシはぁ!
「ヤメロォオオオ!!!」
揺り籠の中に悲痛な叫びが木霊する。
手も足も出ないワタシの目の前で、無常にも、フリスビーは解き放たれた……。
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