第7話 居残り


 くぐもったチャイムが、空に響き渡る。

 それは川を挟んで向かい合う小学校から流れてくる、最終下校時刻――午後四時半――を報せる鐘の音だった。

 ワックス掛けはすでに終了し、キヨミは一人、後片付けをしていた。他のメンツはすでに散会している。別段、片付けを押し付けられたわけではない。自ら買って出たのだ。 

 ワックス掛けに使用した雑巾は、洗って風通しの良い中央館四階の空き教室に干すことになっている。キヨミが訪れた時、既に窓辺は雑巾の満艦飾となっており、しようがないので適当につめて重ねて干しておいた。

 あとは雑巾を挟んでいたモップを用具室にしまって、ワックスの空き缶をゴミ捨て場に持って行けばおしまいだ。おしまい、なのだが……

 四階、中央館と北館を繋ぐ渡り廊下の真ん中で、キヨミはモップと空き缶を抱えたまま足を止めた。屋根の無い開けっ広げの廊下なので、風がまともに吹き付ける。立春を過ぎたとはいえ、まだまだ染みるほどに寒い。それでもキヨミはその場に佇んでいた。

 さよならを告げるチャイムはどこか物悲しく、誘われるように空を見上げる。重たげな色をした雲の透間から照射される白金の光。三学期に入ってから、日一日と陽は長くなっている。辺りが夕闇に染まるのはまだ少し先だろう。

 人気のない校舎にこだまする、笛の音、かけ声、ボールを打つ金属音。南館、中央館に遮られてグラウンドの様子は見えないが、その向こうで多くの生徒が駆け回っている雑然とした気配が感じられた。

 この時期の部活動終了時間は五時十五分。あと小一時間はある。

 キヨミは、はふっ、と吐息を押し出した。要するに、部活に出たくなくて愚図っているのだった。

 色々あった。あり過ぎた。モップと空き缶を脇に置き、コンクリートの欄干に肘を付いて、もう一つ嘆息を落とす。風が後れ毛をなぶるのを押さえながら、ぼんやり、今日という日を思い出す。

 そもそもハゲについて悩んでいたはずだった。朝、鏡を覗いてそれを発見して、ハゲのお陰でうわの空になって、ハゲを隠すためにつま先立ちをして、ハゲの治療方法を調べるために図書室へ行った。図書室へ行ったためにヨッチに誤解され、職員室へ行ったら星野に誤解され、男子がすっころび、鬼頭が怒鳴り、宗谷が謝って、踊り場で見つめ合った……

 だが、それがなんだというのだろう。結局、なんにもだった。なあんにも。悩んで、妄想して、取り乱して、何一つ解決できていない。なるほど『つま先立ちブーム』は収束したかもしれない。だがそれは宗谷の力によるものだ。キヨミ自身は何もしていない。

 テストなら勉強。ダイエットなら運動。欲しいものがあれば貯金。だけど、こうした問題はどうすれば良いのだろう。どうすれば良かったのだろう。何が正解だったのだろう。

 誰にも相談できない。誰も教えてくれない。教科書にも載っていない。それじゃあ、やりようがないではないか。

 教科書にも載っていない……? ふと既視感を覚え、キヨミは記憶を辿る。今日、どこかで同じことを思ったような。なんだっけ。首をひねり、もう一度空を見上げて――すとん、と答えが胸に落ちる。

 理科のビデオ、十種類の雲の名前だ。教科書には載っていない豆知識。なんだか随分と昔のようだが、ほんの半日前だ。キヨミの頭上には、ビデオで観たそれと同じ空模様が広がっていた。思わずノートの端っこに落書きしたその雲。

 西の空いっぱいに緩やかな弧を描き、横たわる灰色の雲の波。対照的に、沈みゆく太陽に彩られた縁は黄金色に輝き、隙間から光の帯が伸びる。深い陰影があって、柔らかそうで、でも重々しい。手が届きそうで届かない。見上げていると、何か起こりそうな、胸がどきどきするような、いてもたってもいられない気持ちにさせられる……

 授業中、何かに似ているなと考えながら、思い付かなかった。その正解が、今、鮮やかに浮かび上がる。

「……翼だ」 

 キヨミは呟いた。今にも太陽の沈む彼方へ飛び立とうとする、鳥。人間の視界に映る空一枚には収まりきらない、とてつもなく巨大な片翼。きっと少し羽ばたくだけで、人も家も学校も吹き飛ばされてしまうに違いない……

 その空想にキヨミは自然と微笑んだ。微笑んで、また少し悲しくなって、溜息が止まらない。自分の背にも翼が生えて、どこか遠くへ飛んでいってしまいたい、だなんて。

「これはまた見事な積層雲ですね」

 センチメンタルジャーニーな気分に、いきなり声をかけられてぎょっとした。

 振り返れば、いつの間にか、背後に誰かが佇んでいる。光に溶けてその顔がわからない。眩しさに目を細めると、ふわり風になびく薄い頭髪が見て取れた。

「溝口先生?」

 まごうことなき『イケてない教師』ランキング三位以内確実の理科教師だった。

 彼はキヨミから一メートルぐらい距離を置いたところで、西日を浴び、彫像のように佇んで空を仰ぎ見ていた。それはどう好意的に見ても奇怪な立姿で、キヨミはもう一つぎょっとする。

 たちまち二時間目にしでかした無礼――落書きに夢中で教師を払いのけた――を思い出し、どうにも居心地の悪い心持ちにさせられた。だが、溝口は忘れてしまったのか、はなからこだわっていなかったのか、特に気にしていないようだ。すっと西の空を指差し、

「積層雲は地表から二千メートル以下の低い場所に発生します。山で雲海を見下ろしたことがありませんか? あれも層積雲なんですよ」

 唐突に言われて、面食らう。しかし、溝口はやはり一向に気にせず、

「ほら、あすこを御覧なさい。波模様を描いていますね。これが空一面、うねのように規則正しく並んでいたら『畝雲』。雲の隙間から光が漏れているものは、『八重棚雲』とも呼ばれます。一口に積層雲と言っても、様々な形があるんですよ」

「あの、」

「先ほど言ったように層積雲は高度が低く、地上を照らす陽光を遮ります。雲の切れ間から漏れた放射状の光は――あの光の帯ですね――『天使の梯子』となんともロマンチックな名称が付けられているんです。今日のような冬型の気圧配置の時によく見られますね。オランダの画家、レンブラントが好んで描いたことから『レンブラント光線』との別称もあります」

「その、」

「積層雲の原名は『Stratocumulusストラトキュムラス』。これはラテン語で、層雲を意味する『Stratusストラトス』と積雲を意味する『Cumulusキュムラス』を組み合わせています。そもそも積層雲は、層雲の上部が冷やされて――」

「先生っ!」

 流暢に続く講義をキヨミは遮った。ようやく溝口が振り返る――丸眼鏡に光が反射して、表情が掻き消された顔。ゾッとした感触が背筋を這い登る。

「なんでしょう?」

「もう、部活に行かないと」

 目を逸らし、言う。一刻も早くこの場から去りかった。無礼をしでかした居たたまれなさとは別の不快感が生まれていた。

 溝口とは特に親しいわけではない。理科の成績はそう悪くはないが、中の上あたりで、特筆するほど良くもない。普段なら会釈してすれ違うだけなのに、どうして今日に限って話しかけてくる? いきなり背後に現れて、一方的に講義を始める。わけがわからなかった。

 それになにより……キヨミは溝口の夕日に照り映える頭を上目遣いに見る。二人して渡り廊下で仲良くお喋り。そんな構図に耐えられなかった。今も誰かに見られているのではないかと気が気じゃない。

 もちろん溝口はキヨミの秘密を知るまい。だけども、図書室でのタカシナ先輩の反応同じく、全ての人が『志田キヨミはハゲている』フィルターを通してキヨミと接しているような気がしてならない。まさか同士である自分に、親愛の情を示そうとしているのでは……

 恐怖の波が押し寄せ、嫌悪の砂に足が埋もれ、キヨミは硬直した。

 嫌だ、はやく逃げないと。近寄りたくない。――こんな、気持ちの悪い。

「ああ、申し訳ありません」

 少しぼんやりした後、存外、普通に溝口は言った。それが素なのか演技なのか判断つきかねるが、いえ、と一応の返事をする。

「志田さんも、好きなんじゃないかと思って。つい」

「…………?」

 意味がわからず、キヨミは眉根を寄せた。

 対照的に溝口は微笑み、柔らかな口調で尋ねてきた。

「今日のビデオ、とても真剣に観ていたでしょう?」

 姿勢が良かったのはハゲが見られないよう配慮していたからだ。だけど実際、雲は嫌いじゃない。一面の青空よりも好ましい。想像力が掻き立てられる。普段のキヨミならば言葉通りに受け取り、頷いていただろう。だが。

『やっぱあれだろ、恋の悩みか?』

 期待を裏切り、その上、恥辱を与えた担任教師の笑顔がオーバーラップする。志田さんも? 冗談じゃない、一緒にするな、勝手に決め付けるな、私は違う!

 火種に風を吹き込まれ、炎が膨れ上がる。炎は触れるもの全てを焼き焦がす。対象がなんであれ、誰であれ、関係ない――

「私はぜんぜん、好きなんかじゃっ、ない!」 

 全ての憤懣を、足元に叩きつけるように、吐き出す。

 同時に、プブォーと、吹奏楽部の調子っぱずれの金管楽器が響いた。

「…………」

 興奮していて、でも自分が興奮していることがわかるほどには冷静で、キヨミは顔を上げられなかった。

 早春の夕方。空気は澄んで冷たい。だが首から上が異常に熱く、ぐらぐら沸騰している。立っているのもやっとのぐらい。

 不意に、うつむいたキヨミの上に影が落ちた。瞬間、殴られるのではないかと咄嗟にぎゅっと目をつむり、身をすくめる。

「そうでしたか。すみません、長々と付き合わせてしまって」

 予想に反して、降ってきた声は、先程と同様穏やかなものだった。続けて溝口は何がしか呟く。ひとりごちるように小さく、ほのかに。しかしキヨミはそれには答えず、ただ胸のあたりで腕を交差させ、縮こまっていた。

 と。カタンと小さな物音がして、ふっと影が離れてゆく気配を感じる。

「ワックス掛け、お疲れ様でした。部活、頑張ってください」

 控えめな足音は次第に小さくなってゆく。それでもキヨミは視界を閉ざし、固まっていた。


 数秒、数十秒……数分? 一体どれほど経ったのか。キヨミは恐る恐る目を開いた。渡り廊下に人影はなく、ただ黄昏の幕が降りつつあった。

 閑散とした景色を認識すると、今度は急に冷え込んでくる。だぼついたジャージの袖口で鼻の下をこすり、キヨミは大きく息を吐いた。安堵にしては、やや重く湿っているそれ。

 混乱しかけた頭で、行かなくちゃ、と思う。どこへ? ああ、そうだ、自分で言ったんじゃないか、部活に行かないとって。

 キヨミは脇に置いたモップと空き缶を掴もうとして……

 無い。慌てて周囲を見渡す。空き缶は足元にあるが、立て掛けておいたモップが消えていた。下に落ちてしまったのかと、欄干から身を乗り出して中庭を覗き込むが、影も形も見当たらない。キヨミは確実にモップを持ってきていた。どこかに忘れてきたなんてありえない。渡り廊下の前の短い階段を上る時、つっかけて、げふりとボディブローを喰らわされたぐらいなのだから。では、一体どこへ?

 あれは各クラスの掃除道具入れに備えてあるモップではない。数が足りなかったので用具室から拝借してきたのだ。クラスに置いてあるそれとは違い、真新しいので、すぐ見分けがつく。ちなみに、用具室は職員室と同じ南館一階にある……

「溝口、先生?」

 呻きとも、感嘆ともつかぬ声が漏れた。

 先生が、持っていって、くれた?

 キヨミは思い出す。カタンと小さな物音、離れた影。ワックス掛け、お疲れ様でした。部活、頑張ってくださいね――

 束ねた髪が頬を打つほどに素早く振り返り、薄闇が停滞している渡り廊下の先を見やる。次いでもう一度、欄干の下を覗き込む。だが何もない。誰もいない。いるわけがない。

 ……私は、何をした? 何を言った? 何を思った?

 ……彼は、何をした? 何と言った? 何と思った?

 キヨミは、かくりとその場にくずおれた。立っていられなかった。

 冬の黄昏は赤というよりも黄金色。雲間から差し込む光――『天使の梯子』あるいは『レンブラント光線』――にさらされながら、顔を覆う。

 自分なんか消えてしまえ、と思った。

 朝、自殺しようと決意した時よりもずっと強く。

 ハゲの有無が問題ではない。死ねばいい。こんな自分、死んでしまえ。

 十四年間生きてきて、初めて、本気で思った。

 

 彼は、去り際にこう呟いた。

 ――私には、あの雲が今にも飛び立ちそうに見えたものですから。


 

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