第6話 清掃・後半戦

 全ての机を廊下に出し、見事な正方形となった教室に、キヨミはもくもくとワックスを塗っていた。職員室での怒りが収まったわけではない。押さえ込むために、ただひたすら床を磨いていた。ハゲた日にワックス掛け。一体どういう皮肉だといっそ笑い出したくなるが、笑えるはずがない。キヨミはさらにモップに力を込めた。

 掃除当番は男女合わせて六人。真面目に作業しているのはそのうち半分、女子だけだった。一方の男子は、雑巾キャッチボール、モップチャンバラ、ワックス追いかけっこと、二度とない〝中二〟という時を謳歌していた。

「っはん、ガキが。かかって来いよ、お前の技なんか俺の邪眼で楽勝見切ってやるゼ」

「喰らえ、最終奥義トリプルアクセルインファナルトランスキッィィィクー」

「ずり、お前ルール守れよ、ってか死ねよ、かかと着いてるし、ワンペナなー」

 スケートリンクならぬワックスリンクをつま先立ちで無駄に華麗に縦横無尽に舞う彼ら。出来立てのリンクは、乾き切っておらず、足跡がべったり残る。最初こそは注意していた他の女子も、もうその気力が失せたのか、キヨミ同様もくもくと重ね塗りに励んでいた。

 いっそ、彼らを羨ましいと思わないでもない。自ら編み出した必殺技を繰り広げる男子を横目で追いながら思いを馳せる。彼らに悩みはあるのだろうか。あるかもしれない。右手に宇宙生物を宿しているとか、前世は選ばれし勇者だとか、放課後は異世界で魔王とか、そんな類だろう。誰も自分の切実な悩みには追いつけまい。

 彼らは戦い、衝突し、団子状にくんずほぐれつ絡み合い――お約束というべきか、ワックスがたっぷり残っている缶を倒した。どろりとした粘性のある液体がぶちまけられ、一人が転倒し、べちゃり、とうつ伏せに倒れ、ツー、と人間モップとなって一メートルほど滑る。

 一瞬の静寂の後。

「何やっとるか!」

 怒髪天を衝く、とはこのことか。一体どこで耳をそばだてていたのか、間髪置かずに学年主任の鬼頭が怒鳴り込んできた。四角い顔をして、四角い眼鏡を掛けた、四角四面の初老の教師。

 さしもの三馬鹿も、条件反射のように背筋を正す。一人はジャージからワックスを滴らせて。

「この馬鹿もんが、何をしておる!」

「つ、つま先立ちで歩いていたら滑っちゃって……」

「どうしてつま先立ちなんかをしとるんだ!」

「これやれば、背ぇ伸びるって聞いて……」

「伸びるわけなかろう! 誰がやり始めた!?」

「授業中に回ってきた話で……」

「なら誰が言い始めたんだ!」

 きょとん、と。一喝されて、彼らは顔を見合わせた。

 ――そういや誰だ、オレお前から聞いたぞ、俺はお前から聞いたし、いやいやおれはお前から聞いたんじゃなかったか――

 他の女子二人も知ってる? と、小声で話し出す。

「二年A組はたるんどる、下らん妄言に騙されおって。しかし、騙されるほうも悪いが、騙すほうはもっと悪い。星野先生からも厳重に注意してもらわんとな!」

 キヨミは事の成り行きに唖然とした。まだつま先立ちブームが続いていたのかと。そしてそのブームが引き起こしたこの事態に。

 誰が言い始めたか。もちろんキヨミは犯人を知っている。他でもないキヨミ自身なのだから。だけど、それは小さな小さな秘密を隠すためのフェイクだったはず。誰かを騙したり、傷つけたり、陥れたりしようなんて、一切考えていない。ましてやワックスをぶちまけてしまうなんて。だが、いつの間にか言葉は一人歩きし、罪科の十字架を背負い、キヨミの前に舞い戻ってきた。

「本当に誰が言い出したか知らんのか!?」

 気炎を吐く鬼頭に、一瞬、夢を視る。

 ――HRから一転して始まる教室裁判、被告人席に座っているのはキヨミ。なぜ嘘をついたのか、いいえ騙すつもりはなかったんです信じてください、ならばこのワックスまみれのジャージはどう申し開きする? 突然、身体が動かなくなる。気付けば味方であるはずの弁護士がキヨミの腕を締め上げていた。暴れるキヨミに弁護士は叫ぶ。物証を出された今、勝つためには切り札を出すしかないのです。そして白日の下にさらされる、純白のハゲ―― 

 あまりの恐怖に、人は悲鳴も上げられないことをキヨミは知った。

 そんなことになるぐらいなら、いっそ。

 クラス全員の前で吊るし上げにされるより、今ここで告白した方が傷は浅く済む。鬼頭も鬼ではないのだ、きっと同情して箝口令を敷いてくれるだろう。だが、中学生の口の堅さなんて当てにできるものではない。

 どうする、どうする、どうする……?

 キヨミは葛藤した。その間にも、鬼頭は説教を、三馬鹿は言い訳を、女子はひそひそ話を続けている。このまま放置しておけば話はむくむく大きく育ってしまう。この場を収めるには、何らかの打開策が必要だった。肉を切らせて骨を断つ。そんな勇ましい慣用句が浮かぶが、肉を切ったところで出血多量で死んでしまったら話にならない。だがしかし――

 この時のキヨミにはハゲを隠しつつ、適当に誤魔化すという考えがまったく浮かばなかった。中学二年生らしい純粋さと幼さと愚直さでもって思考して……そして腹をくくる。

 ワックスが乾き、美しく照り映える床を一歩、二歩、踏み出す。心を落ち着かせ、すうっと深呼吸して。

「私が言い出したんです、すみませんでした!」

 と、頭を下げたのは、しかしキヨミではなかった。

 疾風のごとく廊下に出現し、窓から身を乗り出したのは――宗谷サキ、その人だった。あまりの唐突さに、誰もがポカンとする。しかし宗谷はその機を逃さなかった。出入り口に回って教室に入り込むと、軽やかな身のこなしで鬼頭に詰め寄り、

「私、将来モデルになりたくて、背を伸ばすのに必死で、それでこの間テレビで観たあるあるネタを試していたら、クラス中に広まっちゃって、別に嘘をついたわけじゃないんです、ごめんなさい!」

 ぺこん、ともう一度頭を下げる。だが今度はすぐには顔を上げない。待っているのだ。何を? キヨミにはそれが理解できた――タイミングを。

「わ、わかった」

 間を取るためか、ずれてもいない眼鏡を直す仕草をして、厳つい学年主任は頷く。

「君は影響力のある生徒だから、自分の言動に気をつけなさい。いいね?」

 気を取り直した鬼頭からお許しが出て……一、二、三秒後。宗谷は四十五度曲げていた腰を伸ばし、にっこりと笑ったのだった。


 宗谷はルックスだけでなく、成績も優秀であり、教師受けも良い。彼女が謝れば、ほとんどの教師が怒りを鎮め、罪は無実化される。だからといって、このまま知らん顔できるほど、キヨミは能天気ではなかった。

「宗谷さん!」

 三階と四階の間の踊り場に差し掛かった宗谷を階段途中から呼び止める。見下ろされる形になるが、構っていられなかった。彼女はたしか吹奏楽部、四階の音楽室に戻るつもりなのだろう。宗谷の手には、さっきまでは無かったハンドタオルが握られていた。ロッカーに置いてあったタオルを取りに来たところに、鬼頭が喚いている場面に出くわしたに違いない。

 宗谷は振り返る。踊り場は窓から注がれた陽光が溜まり、淡いクリーム色に輝いていた。彼女の上に降り積もった光は、黒髪に天使の輪を浮かべる。

「…………」

 追いかけてきたは良いが、『ありがとう』『ごめんなさい』のどちらを口にすべきかわからず、彼女を見上げたまま固まってしまった。伝えたいことがあるはずなのに、気ばかり焦って喉が塞がれる。その一方で、ああやっぱり宗谷さんは絵になるなあ、などと場違いな考えも浮かび、キヨミはまったくもって混乱してしまった。

「あ、と、その」

「ごめんね?」

 先に意味ある言葉を口にしたのは、相手の方だった。彼女はくすりと笑い、

「なんだかややこしいことになって。私がやることなすこと、いっつも大きく広がっちゃうんだよね」

 迷惑だったでしょ? と、小首を傾げる。

「そんな、別に……」

 話を広めるきっかけを作ったのは宗谷かもしれない。しかし言い出しっぺはキヨミだし、そもそもでっち上げだ。悪意が無かったとはいえ、彼女は騙された被害者なのだ。

「嘘なの」

 しかし、そう呟いたのは、またしても宗谷だった。

「モデルになりたいっていうのは、嘘。本当になりたいものは別にあるんだ」

 キヨミは瞳を瞬かす。モデルという職業は宗谷にぴったりで、微塵も疑わなかった。というか、わざわざ嘘をつく意味がわからない。

 キヨミの疑問を表情から読み取ったのか、

「……本当のこと言うのって、なんだか怖くない?」

 宗谷は肩をすくめてみせた。それはどこか寒そうな仕草で、先ほどの大立ち回りとはうってかわった弱々しい印象を受ける。

 本当のことを言うのが怖い。そういう気持ちはわからないでもない。キヨミにとって、とても身近な感覚だ。馬鹿にされたくないから。汚されたくないから。何よりきっと……本当に本当か、自分自身よくわからないから。

 でも、それはキヨミのような『イケてない中学生』の場合だ。学年一綺麗で、成績優秀で、教師受けが良い宗谷サキが、怖い? ありえない。にわかに彼女の言葉が信じられない。

 ――いやいや待てよ、と気付く。

「ていうか、そもそも、つま先立ちする必要なかったよね?」

 モデルになるのが夢でないなら、背を伸ばす必要もない。すなわち、つま先立ちを実践する理由もなかったはずだ。なら、どうして。

 宗谷はそこに答えが書いてあるかのようにしばらく宙に視線をさまよわせ、

「志田さんと接点が欲しかったのかな」

「え?」

「教室の後ろに貼ってある『幻の花』。志田さんの作品、面白くて好きなんだ」

 キヨミが描いたのは、蜘蛛の巣をモチーフにした、糸のような花弁が揺れるちょっと妖しい風情の食虫花だった。少々、毒っ気が強すぎたのか評価はBプラス。期待したほどかんばしくなかったが、自身としては満足のゆく出来栄えに仕上がったそれ。八つ切り画用紙の中のほんの小さな自己主張。

「だから、ちょっと、話してみたかったのかも」

「…………」

 あまりに嬉しい時も、人は声を出せないのだとキヨミは知る。

 ひっそり埋もれるように飾ってあった絵。それに目を止めてくれる人がいた。褒めてくれる人がいた。よりにもにもよって、宗谷サキ、その人が。

 どこか照れたふうに視線を逸らす宗谷を凝視し、直感する――もしかしたら、この人は〝同じ〟なのかもしれない。

 長い人生の道中、時折、ぴたりと感性が噛み合う人と出会うことがある。年齢、出身、性別が関係することもあれば、全く無いこともある。だが、その出会いはとても稀だ。奇跡と呼んで良いほどに。キヨミは、ずっと後年になってそれを知る。

 宗谷とは同じクラスだが、属する群(グループ)が違った。群が違えば、深入りしない。そんな不文律が女子の間にはある(橋本のような例外はあるけれど)。広くて狭いサファリパーク。そこには校則以外にも、もっと有機的で機能的な掟が存在していた。

 だから、これ以上はルール違反であり、そのルールを遵守している者たちへの裏切り行為に等しい。

「……志田さん。もし良ければ、今度」

 聡明な宗谷がそれに気付いてないはずがない。でもだからこそ、彼女が真剣に語りかけているのだとも理解できた。光の中、儀式にも似た静謐さを湛えて、彼女は紡ぐ。

「今度、一緒に」

 全身が慄(おのの)いた。続く言葉の、期待と恐れに。

 真剣な眼差しの宗谷に、一瞬、夢を視る。

 ――本、CD、ビデオの貸し借りをする二人。これすっごい良かった、そう言うと思って続き持ってきたよ、ありがと嬉しいお返しにコレ、うっそずっとこのCD探してたの。心地よい刺激、共有できる感動、広がる世界――

 宗谷とならば、きっと、豊かで、芳(かぐわ)しく、彩り溢れるスクールライフを送れる。ぼんやりと興味の無いコイバナに相槌を打たなくても良い。女子中学生にとって必要なのは自分を認め、特別視してくれる存在だ。宗谷とは良いパートナーシップを結べるに違いない……

 ――『あんた、昼休み何してた?』

 その時。なのにどうして、ヨッチの恨むような悲しげな顔を思い出したのか。

 一瞬にすぼめられた奇跡の間。キヨミは目の前をかすめていった尾を掴み損ねた。

「サキー! 音合わせ始めるってよ」

 そしてそれは宗谷も同じだったのかもしれない。

 四階の方から吹奏楽部の女子の声が響いた。それを合図に、金縛りが解けたように、憑き物が落ちたように、夢から覚めたように、宗谷がいつもの宗谷に戻る。学年一綺麗で、成績優秀で、教師受けが良い宗谷に。群の違う一女子に。途切れた告白をそのままにして。

「あ……じゃあ」

「うん……じゃあ」

 別れはあっさりしたものだった。二人は百八十度向きを変え、各々、上と下に階段を進んだ。


 

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