第5話 清掃・前半戦

 午後三時過ぎに授業が終了すれば、あとは清掃、部活動という流れになる。清掃は当番制になっており、今週はキヨミの班の割り当てだった。

 朝、担任の星野が話していたように、今日は半年に一度のワックス掛けがある。学期最後の大掃除に行なうのが慣例だが、来週、教育委員会が視察に来るため、前倒しにしたのだろう。

 ワックス掛けにしろ、部活動にしろ、ジャージに着替えねばならない。憂鬱な気分を引きずりながらも、更衣室へ行こうと、ヨッチとミカを誘おうとして――

「ヨッチ!」

 よく通るその声は、しかしキヨミが発したものではなかった。

 声と共にツカツカと教室に入り込んできたのは、隣のクラスの女子だった。確か、橋本といったか。下の名前は知らない。キヨミはそれほど他人興味を持たず、名前を覚えるのも苦手だった。

 自分の教室テリトリー外だというのに、橋本にはまったく遠慮がなかった。ぐしゅぐしゅと裾を引き摺ってしまいそうなソックスに脱色した髪と派手なタイプの女子で、キヨミはほとんど関わったことがないが、同じ小学校出身のヨッチは親しいようだった。実際、橋本はヨッチに用があるらしく迷わず足を進める。途中、ちらり、引っ掻くような視線をキヨミに寄こして。

 橋本はヨッチの耳に唇を寄せ、ごにょごにょと内緒話を始めた。人前でする耳打ちにどれだけ意味があるのかと疑問に思うが、二人は気にしていないようだ。

 というか、キヨミ自身が気になる。あからさまに秘密の話をされるのは、良い気がしない。キヨミは机に寄り掛かって、なんとはなしに教室の後ろに貼り出されている美術の課題に注意を向けた。

 空想上の『幻の花』というお題で、一クラス三十六名が思い思いの花を描いたそれ。キヨミの作品は隅っこの目立たない場所に掲示されてあった。どことなしにどんより暗い色調の絵なので、意図的に追いやられたのかもしれない――そんなふうに考えてしまい、どうも被害妄想が抜け切らないなと嘆息する。

 気持ちを切り替えようとミカを捜すが、トイレにでも行ったのか、姿が見えなかった。

「キヨ」

 話が終わったのかと振り向けば、そこにはひどく強張ったヨッチの顔があった。シャギーの入ったショートヘアが頬に張り付いてしまっている。一方、寄り添った橋本の面には、非難するような、でもどこか面白がるような色が浮かんでいた。それは通学路にあるゴミ置き場近くの電線の上、高みで人を見下ろすカラスを連想させた。――ヨッチが口を開く。

「あんた、昼休み何してた?」

「何って、一緒に給食、食べてたよね」

 もう忘れちゃったの、と笑いかけようとした。だが、ヨッチは固い表情のまま、

「その後、ひとりでどっかに消えたじゃん」

「それは、」

 ハゲの治療法を調べに図書室へ行っていました。

 とは言えず、言葉に詰まる。適当に言い繕えば良かったのかもしれない。しかしキヨミはそれほど器用ではないし、何よりヨッチが嘘を許さない凄味を発していた。代わりにというべきか、橋本が口を開く。手品の種明かしを披露するかのように得意げに。

「高科先輩と逢引してたんでしょ?」

 逢引。ドラマや漫画でも最近はあまり聞かない、明るい教室で耳にするには尚更似つかわしくない音に、「はぁ、何ゆってんの?」そう言い返そうとしたその時。

 赤いラインが入った三年生、、、の上履きが脳裏を過ぎる。

 あの図書委員、まさか……

 キヨミは、ヨッチが憧れるタカシナ先輩なる者の顔を知らない。教室の窓から校庭を指差して、ほらほら先輩いるカッコイイっしょ! と以前教えてくれたものの、サッカーの試合中の男子生徒を見分けられるはずもない。それに恋に恋する発情期、季節ごとに変わる女子中学生の想い人なぞ、本音を言えば覚える気になれなかった。

 薄暗い図書室で男女が向き合っていたなら、意味深に見えたかもしれない。

 親友が、行き先も告げずに、一人急いでどこかに出掛けたら、怪しく思うかもしれない。

 だけど。

「…………」

「…………」

 黙り込んで否定しないキヨミを、ヨッチは悲しく、同時に責めるように見る。

 橋本さんなんかの言うことを信じるヨッチを、キヨミは悲しく、同時に腹立たしく思う。

 見えない壁で遮断されてしまったように、キヨミは教室の喧騒を遠く感じた。こめかみの辺りがじぃんと熱い。身動きすらできない。胸のすぐ上まで嘔吐感がせり上がる。

「キヨ、掃除当番呼ばれてるよー?」

 我に返ると、ミカが戻ってきていた。教卓の前で星野が、役割分担するぞ掃除当番集合!と叫んでいる。

「……どうしたの?」

 不穏な空気を敏感に感じ取ったのか、ミカが問うてくる。

「志田さんが、」

 にやりとした橋本を、キヨミはうつむき加減に睨みつけた。彼女は素知らぬふうな顔をする。

 ……でも、今はそれが精一杯。

 キヨミはヨッチとミカの間をすり抜けて、教卓の前へ向かった。


 何が、どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 人気の無い廊下を一人歩きながら、キヨミは溜息をついた。

 役割分担を終えた頃には、ヨッチもミカも橋本もいなかった。キヨミを置いてさっさと部活動へ行ってしまったらしい。

 キヨミは一人で学校指定のジャージに着替え、今はワックス缶が置いてあった倉庫の鍵を返却するために、職員室へ向かう途中だった。ついでに用具室に寄って、足りなかったモップを取ってこなくてはならない。

 窓からのぞくグラウンドでは早くも部活動が始まっていた。掛け声を上げながら野球部のランニング隊が通り過ぎる。テニス部女子が扇のように優雅にラケットを振る。ハンドボール部男子が雄叫びを上げ少年ジャンプさながらにゴールを決める……

 この中学では部活動が盛んだ。それもそのはず強制参加であり、全生徒どこかの部に所属し、放課後は元気溌剌、中学生らしく振舞うことが義務付けられていた。ワックス掛けが終わればキヨミも部活に出なくてはならない。この上なく気が重いが。

 考え事をしていたせいか、気付けば職員室の戸の前を通り過ぎていた。後ろ向きに数歩戻り、失礼しますと呟いて入室する。すぐ右手の壁に設えてある鍵置き場に倉庫の鍵を引っ掛け、キヨミはそのまま退出しようとした。と。

「志田、ちょっと待ってくれ!」

 呼び止めてきたのは星野だった。デスクに座ったまま、おいでおいでをするように何かの冊子を振っている。

「教室戻るよな? ついでに日誌持ってってくれ」

「あ、はい」

 受け取りに行くと、担任教師はまじまじとキヨミを眺めてきた。見られる、という行為に過敏になっているキヨミは反射的に後退る。だが星野が口にしたのは、 

「お前、元気無くないか?」

 という、思いがけない台詞だった。

「朝からちょっと変だよな。体調でも悪いのか?」

「体調は、大丈夫、です」

「悩みでもあるのか?」

 その声音は、意外なほど優しかった。少なからずの驚きを持って星野を見る。彼の眼差しは真剣だった。

 大雑把な人だと思っていた。心の機微に疎い、無神経な大人だと。でも違う、違っていた、ちゃんと生徒に気を配る『先生』だったんだ……

 不覚にもじんわりと目頭が熱くなり、下を向く。傷ついている時の塩が何倍にも染みるのと同様、傷ついている時に掛けられる毛布は何倍にも暖かい。

 誰にも話せない、話したくない。でも苦しくて、重たくて、不安で……こんな時、誰かが手を差し伸べてくれたなら。

「やっぱあれだろ、恋の悩みか?」

 スカっと。差し出されたその手を掴もうとしたその瞬間、嘲笑うようにその手を引っ込められたイメージ。

 愕然とキヨミは顔を上げた。星野は「先生にはなんでもお見通しだよ」と言わんばかりのとっときの笑顔を浮かべ、白い歯をキラリ★と光らせている。

「いや思春期だもんなあ、そうだよなあ」

 何がおかしいのか、HAHAHAHA!と笑い、机をばしばしと叩く。

 悟る。この人、阿呆だ。

 キヨミは一瞬でもこの男に相談しようかと考えた己を激しく恥じた。

「中学の頃、俺も音楽の先生に憧れてさ、年上の異性へのファースト・ラブっての?」

 デスクを叩き続けているせいで、置かれているものが揺れる。ペン立て、マグカップ、本、プリント、写真立て……ん? と、キヨミは目を止める。いつもは生徒に隠すように伏せられていたはずのそれ(隠すぐらいなら飾るなと言いたいが)。今は珍しく顔を上げている。某ネズミの国で、星野と恋人らしき人物が肩を寄せ合う写真。まるでわざわざ見せ付けるように。

俺も音楽の先生に憧れててな、、、、、、、、、、、、、

 ハッとして星野の言葉を繰り返す。

 そういえば、今朝、星野と目が合った。にまにましていたのが恥ずかしくて、頭に血が昇って、もしかしたら赤面していたかもしれない。

 まさか。まさかまさかまさかと思う。

 よくよく見ると、デスクに敷いてあるビニールシートには、ピンクや水色などの淡い色の封筒が挟んであった。丸っこい文字で『星野センセイさま』と書かれた脇にはハートマークが乱舞している。

 ――でも結局、俺は中学生だから、中学生らしく勉強に運動に努力して、いつかその先生に追いつけるようにうんたらかんたらなんたら……

 酔いどれ星野の演説をBGMに、プツン、と何かが切れた音を聞いた気がして――

「私はぜんぜん、悩んでなんかっ、いません!」

 気付けばキヨミは叫んでいた。職員室中の誰もが振り向くほどの大声で。

 授業でも部活でも、学校ではこんな声を出したことはない。キヨミは、大人しい、手のかからない生徒のはずだった。それがこのサファリパークでの処世術だった。だけど。

 口を半開きにして、さらに深みとコクのある阿呆面をさらす星野から日誌をひったくるように受け取り、最短の直線距離で出入り口に向かい、

「失礼しました!」

 一礼して、退出する。

 廊下を踏み抜く勢いで歩く。こぶしをぎゅっと握る。唇を噛み締める。

 ――恋だの、愛だの、逢引だの。馬鹿みたいだ。

 もっと真剣に考えなくてはならないことが世の中にはある。あるはずなのに。

 少なくとも、キヨミはそれを知っていた。知っているのに、それを大声で言ってやれないのが、涙が滲むほどくやしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る