第4話 昼休み

 午前の授業が終わり、給食もそこそこに済ませると、ヨッチとミカの『トイレ行こー』の誘いを断ってキヨミは一人で教室を出た。

 廊下は走ってはいけない。だから競歩の勢いで進む。まだつま先立ちでふらふらと廊下を漂っている男子を数人追い越して。

 昼休みは十二時三十分から十三時十五分まで。すでに十三時に近い。この中学の校舎は、北館、中央館、南館の三棟から成っている。二年A組は北館二階の西端。そして目的地は南館四階の東端――つまり、ほぼ端から端の移動だった。どんなに急いでも往復で五分以上はかかってしまう。階段を上り、渡り廊下をダッシュして、残り十五分弱。着いた頃には息切れし、脇のあたりが汗ばんでいた。

 大人たちは読書を奨励しているのに、どうしてこんな空中楼閣のような場所に設えるのだろう。キヨミは毒づきながら、目的地――図書室の扉を開けた。

 粉っぽいような独特の古い本の香りが鼻をつく。昼休みだというのに、室内はカウンターに貸し出し係の図書委員が座っているだけで閑散としていた。もっともこちらにとっては好都合。閲覧テーブルの間を抜けて、真っ直ぐに書架が林立する突き当たりまで進む。 

 辞書、事典の類が並んでいるのは、薄暗い本の林の奥深く。きっと求めるものもそこにある。キヨミはスチール製の棚にざっと視線を巡らせた。しばらく探した後に目を止める。角で頭を殴れば、人も殺せてしまいそうな分厚いそれ。抜き取る時、あまりの重さに二、三歩よろめく。誰もいないのを良いことに、そのまま床に座り込んで、その本――『家庭の医学』を開いた。

 目次を辿る。心臓の病気、胃の病気、腎臓の病気、肛門の病気、目の病気……皮膚の病気。キヨミは逸る気持ちを抑えつつページをめくった。


《円形脱毛症》

 ◎症状と原因

 はげた部分は、一個のことも何個でもできることもあります。まれには頭髪が全部抜けてしまったり、まゆ毛やひげなどにおこることがあります。子どもにもおこります。

 かゆみや痛みはなく、全身に異常をみることもありません。

 原因は、自己免疫説、神経障害説などがありますが不明です。


 ――原因は、不明。

 紗がかかったように視界が暗くなる。なんと絶望的なことを書いてくれるのか。ハゲができてしまった女子中学生の気持ちを全然慮っていない。不治の病です、とかこれ以上衝撃なことが書いてあったらもう立ち直れない。キヨミは怖々しながらも堪えてページをめくる。

 ◎治療方法――ああここ、が肝心! 飛び込んできた文字に、心中、歓声を上げたその時。

「もう閉めますけど、何か借りていきますか?」

 唐突に声を掛けられ、キヨミは跳ね上がらんばかりに驚いた。

 背後に佇んでいたのは、貸し出しカウンターに座っていた男子生徒だった。小脇に教科書、ノート、筆記用具を挟み、手には鍵をぶら下げている。

 夢中になって読んでいるうちに、結構な時間が経過していたらしい。閉める? そういえばと、思い出す。図書室で授業をサボっていた生徒がいて、休み時間と放課後以外は施錠することになっていたんだっけ。キヨミは前頭部に手をやりつつ、立ち上がった。

「あの、これ、借りていきます」

 こんなにかさばる本を借りるつもりはなかったが、時間切れだ、しようがない。と、『家庭の医学』を差し出そうとした瞬間。

 その鈍器並みの重さにか、朝からろくに食事が喉を通らなかったせいか――、すぅっと絞り取られるように血が下がり、ああ、倒れる、とどこか客観的に思う。薄暗い中、駆け寄る男子生徒の上履きに入った赤ラインがやたら鮮やかだった。一瞬遅れて彼が持っていた教科書、ノート、ペンケースがばらばらと降りそそぐ。

 差し伸ばされる学生服の腕。それはあまりにありふれたシークエンス、ボーイ・ミーツ・ガール……

 しかしてキヨミを受け止めたのは、冷たく固いリノリウムだった。一方、学生服の胸に抱きとめられたのは他でもない『家庭の医学』。その事実は、同年代に比べれば比較的リアリストだが、それでも思春期の少女であるキヨミの自尊心を傷つけた。ああそうだよね、図書委員なら本を守るのは当たり前だよね――そうやって自身を慰めながら身を起こすキヨミに、だが男子生徒は追い討ちをかける。

「辞書、事典の類は〝禁帯出〟なんで、貸し出しできませんよ」

 気をつけてください、と事務的に言いながら棚に『家庭の医学』を戻し、さっさと床に散ばった品々を拾い上げてゆく。

 彼はキヨミのハゲには気付いていまい。だけれども「何勘違いしてんだ、ハゲ」とその背に罵られているようで、キヨミは身動きできなくなった。それは気のせい。思い込み。被害妄想。そんなことはわかっている。わかって、いる、のだけれど……


 人は傷ついている時、取るに足らないほんの些細なことにでも過敏に反応してしまう。傷口に塩を塗る――普段なら塩なんてさらさらこぼれ落ちてしまうはずなのに、ぐじゅぐじゅした傷口に引っ掛かって、痛くて、辛くて泣きたくなるのだ。キヨミは今、まさしく傷に塩が振りかけられた精神状態だった。

 へたり込んだままのキヨミを、男子生徒は不可解そうに一瞥してカウンターへと戻る。彼が無言で放つ「早く出てってくんない?」オーラに、キヨミはようよう立ち上がり、よろよろと図書室を後にした。

 身も心もぼろぼろだった。むしろぼろだった。

 だから、誰かがこの無様なやりとりを覗いていただなんて、キヨミは夢にも思わなかった。

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