第3話 授業

 HRに続いて英語の一時間目が終了し、二時間目は理科。あらかじめ視聴覚室で行うというお達しがあったため、筆記用具と教科書を抱えた黒の詰襟と紺のセーラー服が大移動を始める。もちろん、キヨミもその列に加わっていた。だが、いくらも行かないうちに、

「忘れ物したみたい。先行ってて!」

 前を歩くヨッチとミカの返答も待たずに、くすんだリノリウムの廊下を駆け出した。


 列を乱した机、引きっぱなしの椅子、筆記体が貼り付けられたままの黒板。誰もいない教室は、それでもまだ生徒たちの体温が残っていて、だからこそ寂しげに見えた。光の中、舞い上げられたほこりがきらきらと沈んでゆく。

 その光景にほんのわずかな間見惚れて、頭を一つ振ると、キヨミは故意に置いてきたノートを机から取り出した。

 少しわざとらしかったと思わないでもない。

 だけど、あのまま皆とぞろぞろ列をなして歩くわけにはいかなかった。どちらかといえば小柄なキヨミは見下ろされてしまう可能性があるし、まだ太陽が低いこの時間帯、廊下には燦々と陽が射し込んでいる。そんな危険区域に、うかつに足を踏み入れるべきではなかった。

 視聴覚室への道すがら、一人、物思いにふける。いつ治るともしれない小さなハゲ。その間、何度教室を移動するのやら。牛乳をガロン単位で飲んだとしても、一朝一夕に背は伸びまい。だったらシークレットブーツでも履く? 上履きの裏に消しゴムでも張り付けるか。いやそんなことしたら学年主任の鬼教師、鬼頭きとうに睨まれる。ならば……


「志田さん、なんで、つま先立ちして歩いているの?」

「はへ?」


 集中していたところに話しかけられ、『はい?』と『へ?』が混ざったなんとも間抜けな声が漏れる。

 振り返れば、そこにはクラスメイトの宗谷サキが不思議そうな面持ちで立っていた。

 すらりとしたスタイル、さらりとしたロングヘア、つるりとした肌。いわゆる『イケてる女子』だ。だけど休み時間ごとに女子トイレの鏡を占領して、眉毛を書き足したり、前髪の凝固具合を確かめたりはしてない。自然体でありながら、それが美しい、キヨミがひそかに学年一綺麗だと思っている人物。

「あ、えっと」

 そんな相手にまさか、『ハゲを見られないよう、少しでも頭の位置を高くする練習をしている』とは言えない。絶対言えない。口が裂けても。

「こうして歩くと、背が高くなるって、聞いたから」

 苦し紛れに、適当な話をでっち上げる。

「そうなんだ、テレビか何かでやってたの?」

 宗谷はトイレに行っていたのか、ハンカチで手を拭き拭き、キヨミの隣に並んだ。彼女とは小学校も去年のクラスも部活も違い、今までほとんど接点は無かった。予期せぬ成り行きに緊張する。

「え、あ、うーん、お母さん?」

「なんで疑問系なの」

 馬鹿にするのではなく、純粋におかしいから笑う、そんなごく普通の笑顔を宗谷はやってのける。その拍子に黒髪が揺れ、キヨミの心までドキリと揺らした。

「ね、あたしもやっていい? 将来モデルになるのが夢なんだけど、このままだと身長足りそうになくって」

 キヨミは呆気にとられた。

 真っ直ぐな眼差し。中学生で、本気でなりたいものがあって、それをてらいなく言えるだなんて。

 異星人か、この人。キヨミは疑った。

 キヨミにも将来なりたいものがないわけではない。でもそれを口に出すのは禁じていた。自信が無いから? 笑われるから? 恥ずかしいから? それもあるけど、それだけじゃないような気がする。そういった自分でも捉えようのない心持ちをひょいと飛び越え、人懐っこく他人にすり寄れるなんて。同じ人種とは到底思えない。

「そ、そりゃあ、構わないけど」

「やった。志田さん、ありがとう」

 どもるキヨミに、宗谷が花開くような微笑みを浮かべ、礼を述べた時。二人は視聴覚室に着いていた。



 理科の溝口がとつとつとした口調で、今から観るビデオ――『天気とその変化』――を説明している。薄い頭髪、ひょろりとした体型、やぼったい丸眼鏡。星野が『イケてる教師』だとしたら、溝口はいわゆる『イケてない教師』だった。当然というべきか、生徒たちからは軽んじられており、授業中は私語が絶えない。暗幕を引き琥珀色になずんだ部屋には、ひそやかな笑い声がそちこちで咲き、斜め前の男子にいたっては机に突っ伏して眠っていた。

 一方、キヨミは背中に定規を突き立てられたみたいにピンっと背筋を伸ばして画面を見つめていた。内容はどうでも良い。その姿勢が重要なのだ、二重の意味で。

 気圧、湿度、風力、飽和水蒸気量、露点、ヘクトパスカル、シベリア気団、オホーツク海気団、揚子江気団、小笠原気団……無機質な声音、映像、グラフにのほほんとしたバックミュージックが合っていない。垂れ流されるビデオに欠伸と眠気を噛み殺し、必死に意識を保とうとして――


『――気象学上、雲は形や高さやできる原因から、世界共通の十種類の名前が次のように決められています。巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、乱層雲、層積雲、層雲、積雲、積乱雲――』


 ……きれい。そこで初めて、キヨミは真面目にブラウン管と向き合った。

 青空、夕焼け、鉛色。様々な色合いを背景に、ナレーションとともに次々と映し出される雲。教科書には載っていなかった事柄だから、豆知識的な扱いで入れてあるのだろう。どれもよく見かける雲だが、名前を意識すると新鮮に感じられた。

 あ、これ……。キヨミが一番好きな空模様が映し出される。この季節、気付けば天を覆っているもったりと分厚い雲。見上げていると、何か起こりそうな、胸がどきどきするような、いてもたってもいられない気持ちにさせられるそれ。

 無意識のうちにノートの端っこにシャープペンシルを躍らせていた。それはキヨミの小さな特技だった。紙にほとんど目を落とさず、対象物だけを見つめてスケッチする――たとえば、こんな薄暗い中でもざっくりとなら描けるのだ。なんだろう、これ。何かに似ている。深い陰影があって、柔らかそうで、でも重々しい……指を微妙な角度に上げ下げしながら考える。

 不意に、ただでさえ暗い視界が陰った。なにと確認する前に、降り掛かった影を押し止めるように左手を上げる。右手は動かしたまま。今、大事なところなのだ、鬱陶しい、邪魔しないでほしい。キヨミの意を察したのか影はすまなそうに縮こまって足早に通り過ぎる。憤慨と満足が入り混じった心持ちでちらり影を見送って――キヨミは固まった。

 溝口先生!

 考えてみれば、授業中にふらふらと歩き回れるのは彼しかいない。ラクガキに夢中で教師を払いのけようとした? キヨミはあまりに大胆な己の所業に愕然とする。

 ビデオが終わり、部屋が明るくなっても、キヨミはまともに溝口の方を見られなかった。授業終了の礼をすると同時に、気まずさに耐えかねて、いち早く視聴覚室を飛び出す。

 すぐにでも逃げ出したい気分であったが、帰りぐらいはヨッチとミカと連れ立たねば。じりじりと逸る気持ちを抑え、キヨミは教科書に顔を隠すようにして、出入り口付近で親友たちを待つ。と。

「…………?」

 ドラマの行方、先輩の悪口、給食の献立等々、おなじみの話題を引き連れながらぞろぞろと出てくるクラスメイト。教科書の隙間から彼らを覗き見しながら、その様子に、キヨミは眉をひそめた。

「先に出てたんだ」

「おまたせー、キヨ」

 二人の言葉に、しかしキヨミは眉間を緩められない。彼女らの頭一つ分高い目線を見上げ、そして辿るように視線を足元まで下ろして尋ねる。さり気なく、教科書で前頭部を隠しながら。

「……なに、それ?」

 空いている手で足元を指差す。二人は――いや、先ほどから出てくるクラスメイトのほとんどが――、なぜかつま先立ちで歩いていた。

「さっきの授業中に回ってきた話なんだけど、こうしてると背が高くなるんだってさ」

「キヨもやってみー。あんたちっさいからー」

 思う。やっぱり宗谷サキは異星人だ。キヨミは断定した。

 さきの授業中、宗谷サキは何の気なしに周囲の誰かに仕入れたばかりのガッテンネタを披露したのだろう(一見、姿勢正しく真面目にビデオを観ているふうなキヨミはスルーされたのだと思う、多分)。目立たないタイプのキヨミが誰かに話したところでふーん、で終わるネタだったろうに、彼女はあっという間にクラス中に広めてみせた。

 驚くべき情報網、浸透力、カリスマ性。彼女はきっとそのうち二年A組を侵略してしまうに違いない。

「いっちに、いっちに、いっちに」

「キヨ、遅れてるよー」

「う、うん」

 そこはかとない無常観を噛み締めつつ、ヨッチの号令に従がって足を動かす。

 それはさながらサバンナの河を渡るヌーの大群。二年A組のつま先き立ち行進は、教室まで延々と続いたのだった。

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