第三章 頭の中に兎が二羽
あっという間に鳥羽美兎が死亡してから一ヶ月が経過する。
その間、僕は人間でいうところのリハビリ、この体に関しては慣らし運転をしていた。徹底的に、平凡に過ごすための訓練を。
「いいかな、ダット。君の体は高い性能を持っている。けれど鳥羽美兎にすれば有り得ない力だ。一般的な高校生の身体能力というデータを用意したからこれを覚え込んで。間違っても日常的な体育の授業で世界新記録! とか出さないように。それは此方としてもよろしくないし、目立ちたくないのは君の性格からもわかっているし」
無意識を制御する無意識。覚え込むとはそういうことらしい。それはインプットできないものなのかと訊ねたら、いつきさんは何故かむっつりと不機嫌になった。
「あのね、これから必要になることを全て入力していくつもりなの? 君は人間なんだ。自らの頭と体を動かしなさい」
どうもそういう思考に走るのはまだ人工知能としての無自覚な自覚が強いのかもしれないな。いつきさんはぶつくさと呟きながら基本的に僕しか使わないトレーニングルームから出ていった。
施設内という場所の制限をされつつも単独での自由行動が許されるようになってから知ったことだが、ここは僕が生まれ育った彩崎市にある県立彩崎大学――その地下施設だそうだ。こんな田舎の大学に地下研究施設とかまるでフィクションである。やっていることはその頭へ「ノン」をつけるための試行錯誤だけど。
一人残された僕はルームランナーの前に立つ。高性能なもので、時速何キロとか事細かに情報を出してくれる型式のやつだ。市販されているものを大学に在籍している人々がいじっているので頑丈だよといつきさんは語っていたけれど、それ本当はあんまりよろしくないんじゃないかな、と僕の常識観念は訴えている。でもまあいっかと〝小さな悪事の許容〟をするのも人間のいいところだそうだが――これもいつきさんの受け売りだ。
僕は脳が人工知能に置き換えられているわけだけど、脳という部分は人間が種族として特に〝ブレイク〟してきた部分だから、現存する技術では実際の脳味噌サイズで「人間スペック」を叩き出す人工知能は難しい――とされてきた。
小難しい理論は「鳥羽美兎」にとって必要ないから省いてくれたけれど、いつきさん曰く僕の人工知能の本体は外部にあって、とんでもなく巨大だとか。幾つもの高性能コンピューターがそれぞれ役割分担してやっとこさなんちゃって人間を成立させている、らしい。
そのデータベースにアクセスすると、鳥羽美兎がどれほどの身体能力だったか、という数字が出てくる。通常の通信とは違う方法をとっているから滅多な事じゃ〝圏外〟にはならないそうだ。もしそうなったとしても、人間らしく振る舞えるようにするのがこの〝僕〟という端末の使命なわけである。
ダットは成長する人工知能を積んでいる。つまりより人間らしさを突き詰めようとしているプロトタイプだ。他にはどんなものがあるのか興味本位で訊ねたら渋い顔で軍事用とか、と返されたのでいつきさんにとっては面白くない事案なのだろう。技術の濫用。いつきさんはそう表現していた。
さて、と思考を切り替える。試しに百メートル走のタイムを引き出してみたが、高校二年生の全国平均タイムより少し下かな、といった具合。この体は「めちゃくちゃおせえ」と文句を弾き出しているが当たり前だ。ただの人間と高性能アンドロイドじゃスペックを並べる事自体が間違いだろう。
この体を使いながら全力でこのタイムを出す。それが理想なのだが、本体の人工知能は「本気ってそういうものじゃない」とブーイングを出してくる。多重人格にでもなった気分だ。いつきさんによればそういうことがあるかもしれない、とは聞いていた。
ややこしいが、本体の巨大な人工知能もいまここにいる端末――ダットも〝同じ〟なんだけれど柔軟性が違うとか。思考の方向性というか、本体はちょっと頑固な部分が押し出されたダットだと思えばいいそうだ。
うむ、わかりません。基本思考は「鳥羽美兎」だから一から百まで理解出来ないこともある。というかその方がいいらしいんだけど。
取り敢えずルームランナーを百メートルに設定。頭の中で〝どれほどの力をどう扱えばこの鈍臭いタイムが出せるか〟と計算が始まる。本当にこれが多重人格ではないのか、少し不安だ。
まあ一ヶ月戸惑いながら付き合ってきたのだ。全力のフリをして鈍臭いタイムにする、という遊びに本体の頑固さんも楽しみを見出してきたらしい。全力で走ったので息を乱し、記録を見ればへっぽこタイムになっていた。一瞬後には何事もなかったように息が整う。そもそも肉体的疲労がないのだ、この体。触るとなんら人間と変わらない柔らかさを伝えてくる人工筋肉と皮膚は疲労を蓄えない。
一般的に学生が行う体力テストの項目に従い、黙々とそれをこなしていく。全力で、普通の範囲に。目覚めてからずっと毎日のように一人きりでそんなことしかしてない。データはそれこそ本体が幾らでも記録していつきさんが判断しているから、疲労もないので苦でもない。
単純作業の繰り返しに苦を感じない方ではあったけど、人工知能として〝飽き〟が実感から更に遠いものとなっている。機械的な性質はよくないと断じるか、これも個性の内と割り切るか、いつきさんはしばしば悩んでいた。結局経過観察といった方向性で落ち着くことが多い。なにもかも手探り状態で、ダットは起動したばかりだしと他の研究者さん達とも意見は合っているそうだ。
ブレイクプロジェクトは他にも数体プロトタイプがいて、僕は先述したように人間らしさを求めているけど、その方向性によって研究者の顔触れも違うらしい。因みに四体目である僕のダットという愛称はチーム内で定着したそうだ。喜ぶところなのか。
極論、軍事兵器に使うような知能には恐怖という感情は不要だろうから、僕とは違うタイプの人工知能が積んであるとか、なんとか。この話をするといつきさんがご機嫌斜めになるので深く踏み込まないようにしている。触らぬ神に祟り無し、だ。
「励んでいるね」
ふと、トレーニングルームに入室者があった。いつきさんではない。同じ系統の白衣に身を包んでいるが金髪碧眼の男性だ。ざっくり言うとイケメンである。すぐ傍にはシェパードを連れていて、まるでモデルだ。
犬を連れ込んでもいいのか、と首を傾げていたら頭の中で警鐘が鳴った。いつきさんからの説明によると〝ないけどあると仮定する感覚〟――いわゆる第六感とか、虫の報せとか、超能力と呼称されるものだ。実際にはファンタジー要素はほぼなく、その場の様々な情報を統合して危機を予知する機能、とか言っていた。
それが犬を危険だと告げている。確かに警察犬にも雇用される犬種ではあるけど敵意は感じられないようだが。
飼い主であろう男性に視線を向けると、面白そうに目を細めていた。
「イツキの言っていた疑似危機回避機能だね? よくできている」
改めて声として認識すれば、男性が話しているのは英語である。それほど成績が飛び抜けて良かったわけでもないのだが、本体が自動翻訳してくれていたらしい。
困惑しつつ、一応僕も本体を通して英語で返すことにした。
「いつきさんをご存じなんですか」
「ガールフレンドだった。フラれたけどね」
肩を竦めた男性は、女性との付き合い云々以前に自己紹介がまだだったと軽く笑う。
「ランドール・ブロックだ。イツキと同じくプロジェクトでは人工知能を担当している」
「ミト・トバです。あー……四体目の」
「ダットだろう?」
すっかり知れ渡っているらしい。別にいいんだけれど、と思いつつ手が差し出されたので握手をしようとしたら犬が低く唸った。ランドールさんが咄嗟に手を引っ込める。
飼い主に忠実、というか嫉妬深いのか?
「すまない。君、まだ調整中のようだから間違って手を握り潰されないかと心配しているようだ」
いつきさんは僕が目覚めてすぐに躊躇いなく握手してきたけどそういう危惧もあって当然かと納得した。いや、あの時は寧ろ自分が機械だと自覚してなかったから安全だったのかな。よくわからない。
さておき、ランドールさんの言葉と犬に対して警鐘が鳴っていることから僕は一つの推測に行き当たった。
「この犬もプロジェクトの……?」
「察しがいいな。君の兄弟機でブレイク・ワン。僕の愛犬でもある。アレックスと呼んでくれ」
世界中の愛犬家達が家族のように接していた犬を喪ってペットロスになったりするとは聞いたことがある。確かに記憶の移し替えが確立したら、その技術を求める愛犬家は少なくないだろう。
知能が高く、感情も豊かで人と絆を結べる動物。成る程、一番最初の被検体になったのも頷ける話だ。言い方が悪くなってしまうけれど、人体実験の前には大体ラットなどの動物が被検対象になっていることがイメージとしてあるし。
ランドールさんが手で指示を出すとアレックスはその場に伏せて、僕の警鐘も鳴り止んだ。それからランドールさんはしげしげと僕を観察するように眺める。
「しかし、対面したのは初めてだけど、本当に人間と変わりないように見えるな。流石はイツキ」
「はあ」
「ああいや、君が人間に成り変わろうと努力しているのを否定しているわけではないから」
成り変わる。思わず頭の中で復唱する。
僕が人間になれるかどうか。それはこれから実証していくことだ、といつきさんは言っていた。つまりいまの僕は人間を模した機械でしかない。わかっている。そんなのずっとわかっていたことだ。
なのに、頭の片隅で「自分は人間だ」と誰かが叫んでいる気がした。
それを表情には出さずぼんやりと観察の眼差しを受けていると、また入室者があった。今度こそいつきさんだ。眉間に皺を寄せて、大股で近寄ってくるなり僕とランドールさんの間に割り込む。
「何の用、ランドール。この部屋はアレックスにもう不要だからいる理由が無い筈だけど」
ハイレベルな研究者としては当然なのか、口を開いたいつきさんも自然と英語を扱っていた。
「共有スペースなんだからそんな風に言わなくたっていいだろう? 案外過保護だな、イツキは」
「貴方とダットに正式な接触許可は出してない」
ひょこり、とランドールさんはまた肩を竦めると気にした風もなくアレックスと共にトレーニングルームを出ていく。フラれた、とは言っていたけどこの様子だとこっぴどくやられたのではないだろうか。そしてあの人、懲りた様子がない。
暫く出入り口のドアを睨みつけていたいつきさんは、険しい雰囲気を消してから僕に振り返った。
「ごめん。あいつのことは気にしなくていいから」
「はあ」
日本語で話し始めたので僕も日本語で気の抜けた声を返す。
対人関係に対して関心が薄いところもあり、気にしなくていいと言うならそうするが――はあ、というのがそれを表す口癖だ――基本的にほんわかぱっぱーないつきさんがあれだけ嫌悪を表に出すなんて、ランドールさん、何をしたんだろう。
咳払いを一つして仕切り直しだとばかりにいつきさんはいつもの笑みを浮かべた。
「いい報告だよ、ダット。君に帰宅許可が出た」
「きたく……」
言われて暫し間を置いてしまう。帰宅。家に帰ること。
そうだ。本来、鳥羽美兎の帰る場所はこの地下施設じゃない。そうではなかった筈だ。
相変わらず僕の考えなどお見通しだと言わんばかりにいつきさんが笑顔で頷く。
「鳥羽美兎にとっては退院が正しいかな。兎に角、両親のいる家に帰れるぞ、美兎君」
いつきさんはわざわざ呼び方を変えた。変な話、僕の第二の人生が始まろうとしているのだ。
でもいまいち実感が薄くて、僕はやっぱり「はあ」と曖昧な声を漏らすしかなかった。
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