(12)

 みつきのカップにはホットミルクが用意されていて、みつきはおもむろにはちみつをたっぷりと注ぎ込み、スプーンでそれをかき混ぜながら至福の笑みを浮かべていた。一成は投入されたはちみつの量に目を見張りながら、鼻歌まじりにスプーンをまわし四方八方にミルクを飛ばすみつきを見ながら長い吐息をついた。


「お前さ…ほんとに一人暮らしなんかできてんのか?」

「ん…?」


 一成の問いかけにみつきは一瞬きょとんとした表情を浮かべてから、一成を見つめてその視線をもの問いたげに良太にむけると首をかしげた。


「ああ…さっき良太さんから聞いたんだ。お前が一人暮らししてるって」


 一成がみつきの逡巡に良太より先に答えをもたらすと、みつきはそかそかとうなずいて今度はまっすぐに一成を見つめて微笑んだ。


「うん、がんばってるよぉ」

「ほんとかよ…?こんだけ毎日毎日うまいこと怪我したりドジしたりするくせに一人暮らしなんてできないだろ?」


 一成はつい最前こしらえたばかりの足首のやけどや厨房ででもぶつけたのだろうみつきの肘にできたあざなどへ視線を走らせて眉根を寄せてみつきを覗き込んだ。


「料理とか洗濯とか掃除とか、ちゃんとやってんのか?」

「やっ、やってるよ…?」


 一成はあきらかなみつきの動揺を乗せた口調に瞳をすがめると、あらぬ方向へ流れたその視線を追っていく。


「春香さんが、だろ」


 一成に追いかけられてみつきはもうその場に留まることはできず、カウンターからのがれるように立ち上がった。そのみつきの表情はまたふてくされていて、口を尖らせたままその視線が床を這っていく。


「せ…洗濯くらいできるもん」

「洗濯機がな」


 あまりに的を射すぎた一成の指摘にみつきの表情が沈んでいくのを眺めながら、一成は小さく吐息を付いた。ファミリータイプの賃貸マンションで多忙な兄との二人暮らし、女子高生の一人暮らしを懸念し触れ込んだ苦肉の策。そうまでして家を飛び出す必要がどこにあるのか、一成の言葉にうな垂れ始めたみつきに一成は首をかしげるばかりだ。


「お前の家にもいろいろ事情があんだろうけど、良太さんたちにあんま迷惑かけんなよ。とくに春香さんは身重なんだ」

「わかってるよぉ」


 一成は最近少し目立ち始めた春香の腹部に視線を投げて、とうとうふくれたみつきの頬を指先でつついた。ようやく安定期に入ったんだと嬉しそうな良太の報告があったのは3月のはじめだった。みつきはつつかれた頬を一段と膨らませて一成を恨めしげに睨みつけた。


「ふふ、いいのよ、カズ君。みつきちゃんだって朝ごはん作ったりがんばってるものね」


 春香は時々お腹を蹴るようになったわが子を愛おしそうに撫でながら、みつきに微笑んだ。ほっそりと華奢な微笑みは最近とみに穏やかさを湛えるようになった。母親の顔というのだろうか、一成は春香の微笑みにうなずくみつきに肩をすくめた。


「どうせ、トーストだろ?」

「いいんだもん。トーストだって。朝ごはんはちゃんと食べないとダメだもん。それに学校始まったらお昼は学食にするし、夕飯はここで食べて…あ、そだ、カズ、学校始まったら一緒にお昼食べようね」


 ころころと話題を変える自由奔放なみつきの会話に翻弄されながら、一成は溜め息まじりに口を開いた。


「冗談だろ。俺、学食でメシくわねぇから」

「なんでぇ…?せっかくあるんだもん、学食使おうよぅ」


 一成におねだりを一蹴されたみつきは、頬杖を付いた一成の腕にすがりつくように甘えてみせる。一成としてはそんな子供っぽいしぐさがますます沙紀に重なるばかりだ。けれど一成は沙紀にするよりは少し意地悪くみつきを横目で捉えた。


「やだね」

「カズのけちんぼぉ」


 いいじゃん、いいじゃんと駄々をこねるみつきに、一成は頬杖を無理やり崩され、その上半身をぶんぶんと左右に振られ続けた。これでは口を開いたら舌をかむのは必至だ、一成はそうならないように慎重に言葉を紡ぎだした。


「わっ…わかったから…やめろっ…」

「ほんとっ、やった」


 一成がようやく舌をかまずに繰り出した声にみつきは諸手を挙げて微笑んだ。脅迫まがいの揺すりから不意に腕を放された一成は、その反動にカウンターから転げ落ちそうになる。


「ばっかやろ…あぶないだろ」

「えへへ~、だってうれしいんだもん。カズ、約束だからね」


 みつきはカウンターの椅子を前後に揺らすようにしながら、一成の目の前に小指を立ててげんまんしろと無言で微笑んだ。一成は高校生にもなって指きりげんまんでもないだろとあきれながら、強制的に小指をきられてため息をついた。


「おまえほんとに沙紀みたいだな」

「沙紀…?」

「ああ…俺の妹。今年小学3年だ」


 お前の行動はそのレベルなのだと皮肉った一成の言葉は、その嫌味の部分以外がみつきに届いたようだ。みつきは一成に妹がいるという事実だけを取り上げて、へ~と関心するばかりだ。


「沙紀ちゃんかぁ、かわいい名前だね」


 みつきは一成の妹の名前を一生懸命頭に叩き込むように繰り返し呟いていている。


「名前負けしてないぞ。うちの妹はかわいい」

「ええっ、じゃあカズに似てないんだね」


 にこりと微笑んだみつきの屈託なさ、それに一成はどう反応したらよいのか瞠目した。自慢するつもりもおごるつもりもないけれど、自分の容姿が群を抜いている自覚はあった。そのせいで不快な思いばかりしてきたのだから、それだけはわかる。けれど自分を並の男と同じように扱うみつきのそぶりには、特別視されなかった嬉しさよりもバカにされた憤りが勝っていた。


「どういう意味だよ」


 一成の声音が不機嫌を装いながら軽やかな事にみつきは口を尖らせて、一成にむかって眉根を寄せて睨みあげた。


「だってカズっていっつもここにこんな風にしわつけてんだもん」


 ここ、ここ。とみつきが眉間を指差して一成に指し示すと、わかった?としわを伸ばして微笑んだ。


「沙紀ちゃんかわいいならカズみたいにしかめっ面してないんだろうな~っておもったんだよぉ」


(―これは怒るべきか、笑うべきか…)


 一成はみつきが軽く口を尖らせているのを見ながら逡巡し、結局は半々の感情のままみつきの髪をくしゃりと崩す事に留めた。


「うるせぇな」

「あぁっ、せっかく寝癖が落ち着いてたのにっ。カズ、ひどいっ」

「わるいわるい。こうすれば寝癖もわかんなくなるぞ?」


 一成の手によってかき乱された髪を手ぐしで直すみつきの頭を、さらに一成の手が崩していく。


「カズぅ…」

「悪かったっていってんだろ?」


 うらめしそうに一成を睨むみつきをおかしそうに見つめるその視線の意味に一成は自分では気付いていないようだ。春香は穏やかにみつきを見つめる一成の瞳に慈愛を見出すと、囁くように微笑んだ。


「ふふ、仲良くしてあげてね、カズ君」


 この子に免じて、そんな風に春香はおなかをさすって微笑んだ。


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