(11)
「なあ、カズ…悪いがあいつのこと、頼めないか?」
「え…?」
「いや、ほら、みつきは知ってのとおりのドジだし、かなりおっちょこちょいだし、あんまり賢い方でもないだろ?」
良太は一成の戸惑いに少し言い過ぎたかと、そこからは見えないだろう2階のみつきを思うように、天井を見上げてから気まずそうに軽く咳払いした。
「それに…今日みたいなこともあるかもしれない…」
取ってつけたような良太の言葉、それがほんとは言いたかったのだろう。今度は良太を見つめていた一成の視線が宙を彷徨う番だった。この数日の間しか知らないけれど、毎日毎日何かしらドジをやらかすみつきの指や足に生傷は耐えない。こうして頼まれなくても、きっとみつきに手を差し伸べずにはいられないだろう、一成はそんな自分の姿を想像すると少し情けないような思いに捕らわれ始めていた。
「いや、いつも見ててくれってわけじゃないんだ。カズも学校でいろいろあるだろうしな。ただ、その、少しばかり気にかけてやってくれたら、俺も安心だから…な?」
一成の逡巡を拒絶と受け取ったのか、良太が慌てて付加した言葉を一成が断れるはずもない。
「いい…ですよ。出来る範囲で気をつけておきます」
「そうか。いや、ほんと悪いな。カズ、変なこと押し付けて」
良太は一成の了承に大げさなほどの安堵を浮かべて、満腹の一成にカレーのお代わりを進め続ける。困惑しきりで辞退する一成は春香の救いの手が伸びるまでしばらく良太の上機嫌にそんな押し問答を繰り返していた。
「もう、あなた。そんなにカズ君に無理強いしちゃダメよ。ごめんなさいね、カズ君」
春香は二階から降りてきてすぐにそう口を開いたから、きっとこの会話は筒抜けだったのだろう。良太は春香のとりなしに眉根を寄せると困ったようにその場で佇んで、しゅんと肩を落としてしまった。
「でもなあ、なんの関係もないカズにあんなに手のかかるみつきを頼んじまった手前、何もしないって訳にはいかんだろ?」
「みつきちゃんはそんなに手のかかる子じゃありませんよ。きちんと自分のことは出来る子です」
「そうか?いまだって家事のほとんどはお前がやってるようなもんだろ?やっぱり一人暮らしなんかあいつには無理だと思うんだが…」
「でも、あの歳で初めての一人暮らしですもの、最初は出来ない事だらけでも仕方ないわよ」
「一人…暮らし…?」
一成の驚愕を載せた声音が二人の耳に届くと、良太と春香は同時にはっと口をつぐみそして一成を伺うようにゆっくりと振り向いた。
良太も春香も一成を振り向いたままその表情を強張らせ、一成の問いかけにすぐに答えることができないでいた。けれどそれが逆に肯定となって一成の頭をさまざまな思いが駆け巡っていた。
「まさか…嘘ですよね?あんなどじなのに、一人暮らしって…いや、でも…あのマンションワンルームじゃないだろうし…そもそもなんで一人暮らしなんか…?できんのか?いや、できるわけねぇよ…」
一成が一人憶測をめぐらせながら考え込んでいると、観念したように良太が勢いよく頭を下げた。
「カズっ、黙っててすまん」
一成が良太の挙動に驚いたように瞬いていると、良太は下げた頭の向こうからそんな一成を伺うように口を開いた。
「世間体とか防犯とかそういうこともあっておおっぴらにはしないようにしてたんだ…一応契約上はみつきの兄貴との二人暮らしにしてあるんだ」
あれほどめまぐるしく動いていた一成の思考が良太の謝罪にその動きを止めていた。一成はだいぶ罰が悪そうに佇む良太と春香を前に、どう返したらよいか言葉が出ない。別に騙されたとかそういう感情ではなく、一成の内側はただ純粋な驚きに満ちていた。
「はぁ…あのそれはいいんですけど…ほんとにみつきの話なんですよね?」
「ああ、そうなんだ。少し事情があってな…」
「そうですか…」
一成は良太の口調に詮索を望まない響きが込められていることを敏感に察知すると、それ以上は口をつぐんで冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した。
「すまんな、カズ。いずれきちんと話せる時がくると思うから…」
良太は言いにくそうに言葉を紡ぎ、一成に新しいコーヒーを差し出した。一成は立ち昇る湯気を見つめながら小さく吐息を付くと、良太と春香に肩をすくめて口を開いた。
「事情ならどの家にもありますよ。俺は別に気にしませんし、誰かに言うつもりもないですから、安心してください」
良太と春香はこの一成の言葉にほっと息をつくと、互いの顔を見つめる瞳に安堵を浮かべて微笑んだ。
「びっくりしたよぉ、カズごめんねぇ」
ようやく顔色の戻ったみつきがカウンターに立ち戻ると、驚いたように瞬きながら胸に手を当てていた。びっくりしたのはこちらの方だ、一成はみつきのおかしな日本語に呆れながら、溜め息をついた。しかしその溜め息は通常を取り戻したように見えるみつきの立ち居振る舞いに安堵の吐息に取って代わる。一成は肩をすくめてから傍らに立ち小首をかしげて照れ笑いを浮かべるみつきの頭へ軽く手をのせた。
「もういいのか?」
「うん、もうだいじょぶだよ。カズ、ありがと」
みつきの屈託ない微笑みと同時にまっすぐな気持ちを載せた感謝の言葉、それに一成は少し照れたようにみつきから視線をはずして呟いた。
「気にすんな」
一成はぶっきらぼうに顔を背けると、みつきはそれにまた微笑んで一成の隣の椅子にちょこんと腰掛けた。
「えへ…カズの手ってやっぱおっきいよね」
一成の手に重ねられたみつきの手は、沙紀の小さな手と比べてもほとんど大きさに変わりない。けれどその指先の丸さやふっくらとした感触が沙紀とは少しばかり異なっていた。もちろん沙紀と違ってみつきの小さな手の先には何箇所か絆創膏が貼られている点も、大きな違いではあるけれど沙紀と変わらぬその手の無垢なあたたかさに一成の胸の鼓動が大きく脈打った。
「べ、別に…普通だろ?お前が小さすぎんだろ」
一成の脈打つ鼓動がみつきに聞こえてしまうのではないかと思うほどに高まると、一成は知らず知らずその手を引っ込めてしまいたくなった。けれどみつきの手は一成の手をしっかりと包み込んでいて、そっと頬ずりさえしそうなほど引き寄せられている。
「あたしの手がちっさいのもあるかもだけど、カズの手のおっきいとことあったかいとこがお父さんみたいなんだもん。あたしもカズみたいにおっきい手だったらよかったのにな」
みつきは一成の手をあらゆる方向から眺めながら、その指先の長さを計ったり手のひらの感触を確かめたりしてから微笑んだ。一成はそのみつきの微笑みとつながれたままの手の感触に知らずとその声がつまっていた。
「お、お前の手が俺と同じだったら気持ち悪いだろ」
一成がみつきからようやく取り戻した自分の手を後ろに回すと、みつきは頬を膨らませてその手を追いかけていく。
「だってカズの手になったらすっごい器用になるかもしんないじゃん。やっぱ欲しい、この手ほしいぃ」
「やらねぇよ」
みつきに駄々をこねられてもあげるわけにはいかない、一成が口を尖らせるみつきに今度は少し冷たい口調で言い放つと、良太の呆れた声音がカウンターからかけられた。
「みつき、カズのコーヒー入ったぞ」
「あ~い」
みつきは欲しい欲しいと駄々をこねた一成の腕を放すと、良太の待ち構えているカウンターに軽やかに立ち戻り白いカップに手をかけた。
「はい、カズどぞ」
相変わらずの危なっかしい手つきで白いカップを差し出すと、みつきは自分のカップを手に一成の隣に腰掛けた。
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