(8)

 海は穏やかな水面に陽射しをきらめかせていて、沖合いに先ほどまでいたサーファー達もすでに引き上げようとしていた。もう少し早く来てたら一本くらいは乗れたか、そんなことを思うと一成は昨晩の自分を少し後悔し頬杖を突いたまま小さく吐息を漏らした。そんな物憂げな一成を視界の端に捉えながら、良太は手なれた様子でカップにコーヒーを注ぎ込んだ。


「今日から春休みだったか?」


 良太の声に一成は物思いからわれに返ると、少しばつが悪そうに姿勢を正した。


「え…ええ、やっと毎日波乗りできる」

「はは、いいな学生は」

「今のうちですから」

「そうだな、なんでも楽しむといい、一番楽しい時期だしな」


 そんな風に楽しげに笑う良太に入れたての香ばしい香りのコーヒーを差し出されると、一成は少し気恥ずかしそうにカップを傾けた。


「ほら、みつき、いつまで顔洗ってるんだ、はやく挨拶しないか」

「ん…ちょと…ちょとまって…」


 舌足らずな口調、髪を拭きながらかけ戻る姿のそそっかしさ、うちつけた額と両膝の赤み、あらゆる要素の一つ一つが彼女の幼さを際立たせたけれど、やはり一成はいつものように多大な警戒心を持って少女を待ち構えずにはおれなかった。しかしカウンターの向こうに立ち戻った少女はそんな一成の思惑などお構い無しに、いぶかしみ警戒しつづける瞳の前へ丸みを帯びた小さなその手を差し出した。


「ど~もよろしくっ、みつきだよ」


 一成は開いた口がふさがらなかった。差し出された手には絆創膏が3箇所貼られていたからではなく、その子の屈託の無い笑顔に暫く瞠目したからだった。LIvRAでも学校でも向けられたことの無い無邪気な笑顔、そこにみつきという少女のまっすぐな心根が見えるようだった。しかし、その一成の瞬きをどう捉えたのか、良太は大きな厚みのある手のひらをみつきの小さな頭に軽く乗せると溜め息交じりに口を開いた。


「みつき、カズがあきれてるだろ。あのなカズはお前の学校の先輩なんだ、もうちょっとちゃんと挨拶しろ」

「あ、そなの?カズも黎明?」

「カズ…?」


 一成はみつきの言うカズが自分のことだとわかるまでほんの少し時間を要した。こんなふうに親しげに呼びかけられたことなど洋平たち以外では初めてのことだった。けれどそれを不思議と嫌だと感じない、一成はそんな不慣れな戸惑いを浮かべながら目の前で小首をかしげるみつきを見つめていた。


「え、だってカズでしょ?」


 間違ってる?そんな風にみつきは大きな瞳を見開いて、きょとんとした表情で一成を見つめ返していた。そうしてみつきの無垢な瞳にまっすぐに見つめ返されると、一成の方こそきょとんと目を見開かざるをえなかった。


 本人の意図とは別に畏怖されることが多い一成の冷たい瞳をまっすぐに見つめ返すその瞳には、一成への恐れもましてや媚びるような気持ちの欠片も感じなかった。むしろその大きな瞳のきらめきが妹の沙紀と酷似していること、その事に気づいてしまうと一成の意図とは別に出会ったばかりのみつきに自然と親近感が湧いていた。一成がまたそこに新たに戸惑いながらまじまじとみつきを見つめていると、良太が思い出したように口を開いた。


「悪いなカズ、こいつはほんとに礼儀ってもんをしらなくてな。みつき、こいつは森一成、黎明の2年…になるんだったよな?」


 良太にそう伺うようにされて、一成はようやく我に返った。


「ええ…そうですけど…」


 一成はそんな風に言葉を昇らせながら、すぐに少し申し訳なさそうに良太を振り仰いだ。


「でも…あの…良太さん、俺…高等部です…よ?」


 同じ学園といっても中等部と高等部では敷地が違う、一成はそれを意図して良太を見ると、意外なことに良太は心から楽しそうに吹き出した。


「はは、こりゃあいい。だから言っただろ、みつき。おまえももうちょっと女子高生らしくしろ」

「え…まさか…」

「そ。そのまさか、こいつ春から高校生なんだ」


 一成の勘違いに良太はその笑いを必死にこらえながら、それでもその体がおかしさに震えるのをこらえ切れないようだった。


「嘘だろ…」


 一成は頭の先から爪の先までみつきを眺め渡しながら息を呑んだ。どこからどう見ても中学生にしか見えない。


「嘘じゃないよっ、叔父さんも笑いすぎっ」


 みつきは一成の視線の意味にぷっと頬を膨らませると腕を組んでふてくされてしまった。


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