(9)

 課題の少ない春休みはあっという間に過ぎ去り、一成は思う存分愉しんだ春の海を名残惜しげに見つめてからきびすを返した。サーフボードを片手にウェットを脱ぎ上半身を春風にさらしながらいつもの通りにマイスナに引き返した一成は、その駐車場で水撒きをしているみつきの姿を目にとめた。


「お、感心感心、ちゃんと働いてるな、今日は」


 一成はみつきの小さな頭に軽く手を乗せるとぐりぐりと動かした。そうするとみつきの頭はぐらぐらと揺れ動いて、その子ども扱いな一成のしぐさに必ずむっと顔をしかめる。それが分かっていて一成はみつきをからかうのがいつしか日課のようになっていた。


「いつもちゃんと働いてるよぉ」

「そうか?昨日はほとんどゲームしてたくせに」

「お店も暇だったんだからいいんだもん」


 みつきはそう言うと口を尖らせて駐車場に向き直った。いつもの通りのみつきのふくれっ面が一成の予想に反しないことが少し嬉しい、そんな事を感じると同時にこんなたわいのない会話を楽しめる自分がいたことに驚いていた。

 自分が変ったのかそれとも相手がなんの警戒心も抱かせないみつきだからなのか、一成にはそれがはっきりと分からなかったけれど、理由はどうあれみつきといると自分がただの高校生なのだと感じることが出来た。


(―ほんとに不器用だな…)


 一成は長いホースに四苦八苦する相変わらずの間抜けなみつきの姿に小さな溜め息をついて、マイスナの奥へ足を向けた。と、その一成の背中を切羽詰ったみつきの声が追いかけた。


「カズっ、カズっ、ちょと、ちょと来てっ」

「どうしたっ」

「いいから早くっ、早くきてっ」


 みつきの声音にただならぬものを感じた一成は、思わずサーフボードを放り投げてみつきに駆け寄っていた。いつもなら後生大事に扱われる一成のサーフボードは、ぞんざいな扱いに抗議するように大きな音を立てたけれど、一成はそんなことには目もくれずみつきの無事を確かめるように声を荒げた。


「なんだ、どうしたみつきっ、大丈夫かっ」


 一成の声音が少し緊迫しているにもかかわらず、みつきは瞳を輝かせて一成を振り仰いだ。


「見て見て、虹だよ、虹っ」

「虹ぃ?」


 みつきの屈託の無い声に一成は顔をしかめて思わず空を見上げた。空は遠くまで雲ひとつなく晴れ渡っていて虹などどこにも見えない、みつきは見当違いな方向を見ている一成の腕を引っ張ると、自分の見つけた虹を指し示した。


「ほら、こっち、こっち」


 みつきに指し示されるままに一成が視線をさまよわせているとみつきの小さな指の先に、小さな虹が見て取れた。何のことは無い、ただみつきの手にしたホースの水しぶきが太陽に当たって小さな虹が薄く出来ていただけだった。騒いだ割にはたいしたことのない事実に一成は深い落胆を隠せなかった。


「急に大声出すから何かと思ったら、こんなことかよ」

「え~」

「え~じゃない、くだらないことで大騒ぎするんじゃない」


 一成はみつきの小さな頭に軽くゲンコツを落とすと、放り投げてしまったサーフボードを拾い上げた。


 アスファルトに転がるサーフボードには小さなキズが無数についていた。それはもともとキズだらけだったけれど、一成は邪険に扱ってしまったことを詫びるように小さな小石を丁寧に払いのけた。そうして小さくため息をついた一成の背後から、みつきの不満げな声がかけられた。


「むう…カズのばぁか」

「なんだと」

「ばかだからばぁかって言ったんだよぉ」


 みつきは一成を振り向くと口を尖らせたまま目を怒らせていた。その瞳はすでに赤みを帯びていて、みつきは頬を膨らませたままぐいっとそれをぬぐいあげた。


「カズに見せたかったんだよ…すごいと思ったんだもん」


 みつきは一成を責めながら小さく鼻をすすり上げた。本当にたいしたことではない、けれどみつきはまるで全てを否定されたかのように悔しそうに一成を睨んでいた。


「…みつき…?」


 みつきがまた鼻をすすりながら片手で涙を拭うしぐさに、一成は眉根をしかめた。何でこんなことで涙が出るのか、一成には理解できなかったけれど何だかとんでもないことをしたような罪悪感に苛まれた。


「カズのばかぁ…」

「なんだよ…こんなことで泣かなくていいだろ…おい、みつき…」


 ひっくひっくとしゃくり上げるみつきは本当に涙を流していた。ほんの一瞬、みつきの涙が嘘泣きかと思った自分の胸がひどく痛み、ほんの少し心の片隅にあったみつきを疑う気持ちがやけに悔やまれた。


「ごめん…みつき」


 一成は申し訳なさそうに眉尻を下げ、すこし照れくさそうにみつきを覗き込んだ。するとみつきは泣き顔の合間に一成をちらりと睨み上げ、そして次の瞬間にはぽすっとその胸元へ飛び込んだ。


「み…みつき…?」


 予想だにしなかったみつきの行動に虚を突かれた一成は一瞬驚きに目を見張った。けれどその胸板に額をこすりつけながら盛大に鼻をすすり上げるみつきを、一成は観念したように軽く抱き寄せた。


「俺が悪かった…頼むから泣き止んでくれ」


 一成は溜め息まじりに少し天を仰ぎ見て、沙紀をなだめる時と同じようにその背中をぽんぽんと軽くたたいた。


「もう…いぢわる言わない…?」

「ああ、言わない約束する」


 一成が大きくうなずいてみつきの涙を受け止めると、みつきは涙の残る瞳で一成を見上げて口元をほころばせた。


「…じゃあいいよ、許したげる」

「あ…あぁ…」


 みつきの涙目の笑顔につられて一成が戸惑いがちに微笑むと、みつきはその潤んだ瞳を今度は少し懐かしそうにほころばせた。


「えへへ…ね、カズってお父さんみたいだね」

「お…父さん…?」


 これまで一度も言われたことのない表現に一成は拍子抜けしたようにみつきのくりっとした瞳を覗き込んだ。するとみつきはかなり懐かしそうに一成のその手をとり微笑んだ。


「うん、お父さんね、小さい時に事故で死んじゃったんだ…カズみたいにおっきい手でね、あたしが泣いてると、カズみたいにぽんぽんってしてくれたんだよ…」


 会いたいな…、みつきは遠い日の父にかなわぬ思いを呟きながら、カズの手に自分の小さな手を重ね合わせた。その子供のような丸みを帯びた手は本当に小さくて、一成の手の中に不思議な温かさを運び込んだ。沙紀のようにあたたかく沙紀のように見返りを求めない純粋さ、一成はみつきに沙紀を重ねながらふと小さく微笑んだ。


「虹…今度見つけたら、俺もお前に見せてやる…だから泣くな」


 いいか、そんな風に小さな子供に言い聞かせる口調の一成に、みつきは満面の笑みでうなずいた。


「カズはやっぱりお父さんだ、嬉しいな」


 今度は喜びをあらわに一成にきゅっと抱きつくみつきは、父親に甘える子供のように無邪気で、そして同時に誇らしげに一成を見上げていた。少し前まで赤の他人だったはずの自分に無条件に信頼を寄せる小さなみつきを、一成は満足感にも似た不思議な思いで見つめ返した。


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