(7)

 一成の家から10分ほど南に下るといつもサーフィンを楽しむ海岸線が広がっている。夏ともなればこのあたりも海水浴客で賑わうけれど、今はまだ春先の気候のため、犬の散歩に訪れる人影と、沖合いで波待ちをしているサーファーの黒い影がぽつりぽつりと波間に浮いているだけだった。一成は少し寝不足気味の目をこすりながら、白波一つ立たない穏やかな海に小さくため息をつき、海岸線から程近い「マイスナ」と小さな看板の出ている喫茶店の扉を押し開けた。

 一成が扉を開くと同時にカランとドアベルがすこし低い音を立て、その音にカウンターの内側から、大きな体に不釣合いなエプロンをつけた早瀬良太が、人の良さそうな笑顔を浮かべて一成を迎え入れた。


「よお、カズ。そろそろ来る頃だと待ってたんだ」


 良太は一成にそう声をかけながら、曇り一つ無く磨き上げたグラスの代わりに、白いコーヒーカップに手を伸ばした。


「待ってたって…俺を…?」

「まあお前をってわけじゃあないんだが…おなじみさんには紹介してるんだ」


 一成はいつものようにカウンターの端を陣取ると良太の少し思わせぶりな口調に首をかしげた。


「紹介?」


 ああ、と良太は一成に返事を返しながら、カウンターの内側で彼の右隣へ腕を伸ばした。


「みつき、起きろお客さんだ、みつき」


 良太は大きな体を揺すりながら、カウンターの内側で居眠りでもしているのだろう相手に向かって何度かそう呼びかけていた。けれど、返事ともつかない寝ぼけた声が一成の耳に届いたのはしばらく経ってからだった。


「んー…もうおなかいっぱいだよぉ…むにゃ…むにゃ…」


 カウンターの内側で揺り起こされたみつきという少女は、あきらかな寝言を呟くと、とぎれることのない睡魔に小さな寝息をたてつづける。良太はそんな少女のあどけないしぐさに困ったように、けれどかなりの愛おしさをもって眉尻を下げ、気持ち良さそうに眠りの中にいる少女の肩に再び手をかけた。


「おい、みつき、そろそろ起きろ。こら」

「ん~……もいっこ……おじひゃん……ん~…なにぃ…?…ん…ありゃぁ…夢かぁ…ふわぁぁぁ…」


 何度も揺り起こされる不快感に眉根を寄せ、欠伸まじりに少女がようやくカウンターの内側で大きく伸び上がる。寝起きの悪さに加えて更に一成を呆れさせたのは、少女の髪の右側が盛大に跳ねていることだった。


「ほらみつき、しゃきっとしろお客さんの前だ。寝癖も直せ…あ、ばか…お前タオルの跡が付いてるぞ。ほら、ちょっと顔洗って来い」

「ん~…わかったよぉ…せっかくおっきいハンバーグ食べる夢見てたのになぁ…」


 言い訳にもならない抗議の声をのぼらせる少女のふっくらとした頬にはタオルの痕跡がはっきりと見て取れ、大きな瞳は欠伸の涙で赤みを帯び、その口調は舌足らずで尖らせた唇からは甘いミルクの香りが漂いそうだった。


「いいからほら、さっさと行け」

「ふわぁい…」


 のそのそとなかなか動かない少女を良太が急きたてると、少女は欠伸を返事の代わりにしながら厨房の奥に向かってようやく歩き出した。


「あぁ、みつき、そこの段差気をつけろよ。また転ぶぞ」


 大口開けて欠伸しながら踏み出した彼女の足元には、もともと小さな段差ができている。良太自身も慣れるまでは何度か足をとられた段差に気をつける様声をかけたつもりだった、けれどその時にはすでに少女の体は蛙のつぶれたような声をあげて、手近な棚の小瓶をいくつか犠牲にしながらカウンターの死角に没していた。


「んぎゃっ…ふぎゅっ…ふぎゃっ…」


 小さな少女の体が床に打ち付けられる音、二つの小瓶の追い討ちにあがるうめき声、頭と肩に直撃した小瓶はどちらも鈍い音をたてていたからその痛みは想像に余りある。さすがの一成も少女を哀れに思っていると、良太に助け起こされた彼女は踏んだり蹴ったりの展開にわっと火がついたように泣き出していた。


「いたぁぁぁぁぁぁい…うぅ…いたいよぉ…えぐえぐ…うわぁぁぁぁぁん…えぐえぐ…」


 少女の泣き声は盛大にマイスナの空気を震わせ、大粒の涙は良太の哀れみを誘い、痛々しい膝や額の赤みが一成に衝撃を与えたのは言うまでもない。寝ぼけていたせいもあるかもしれない、真っ赤な額はその場所で転倒の衝撃を受け止めた証拠に違いない、一成も良太もその点に行き当たると溜め息混じりに目を見合わせた。


「まったく、お前は…目を開けて歩かないからこういうことになるんだ…ほらほら泣くな…なに?頭ぶつけた?そりゃ仕方ないだろ、次はちゃんと手を出して頭をまもれ」


 しゃくりあげ、途切れ途切れの言葉の中から意味をつなげながら良太の不器用な手が小さな体を軽々と持ち上げると、まるで赤子のような扱いで少女は厨房奥の洗面台へと運ばれていった。


「あとで冷やしてやるから、とにかく顔洗って目ぇさましてこい」

「う…ん…」


 少し乱暴な、けれど良太なりの精一杯の細やかさで頭をなでられた少女の体は予想以上に小さかった。一成でさえ見上げるほどの大きな良太の隣だからというだけでない、自分の胸まで頭が届くか届かないか、まだ小学生の沙紀と比べても大して変わらないのではないか、ふとそんなことを思う一成の耳に良太の詫びの言葉が届いた。


「あぁ、悪い悪いカズ。紹介したかったのはあいつだ。俺の姪で、みつきって言うんだ」


 良太は姪の粗相をわびつつも、その瞳に愛おしさを滲ませながら少女の消えた厨房の奥を親指で指し示した。


「この春からこの先のマンションに引っ越してきてな、ここで形ばかりのバイトをさせることにしたんだ。見ての通りどじな奴なんだが、よろしくな」

「はぁ…」


 良太は一成の気乗りしない声音を聞きながら、それには少し困ったように眉尻を下げただけですぐにいつものように話し出した。


「カズ、今日はちょっと遅かったな。もう少し早く来てたら、いい風が出てた」

「そうですか…失敗したな」


 一成は良太とその妻の春香の二人、仲睦まじく切り盛りするこの店の落ち着いた雰囲気と昔なじみの気軽さからよく足を運んでいた。年季の入った一枚板のカウンター、テーブル席は数席のみのこじんまりとした店の裏手には、一成のものも含め見慣れたサーフボードが何枚も立てかけられていた。良太自身の趣味でもあるサーフィン仲間が集うこの店は、一成が自宅以外でくつろげる数少ない場所だった。それを思うと一成はあの新しいバイトのせいでここもあまり来られなくなるのかと、ふと窓の向こうに見える海を遠くに見つめた。

 厨房の奥からは寝癖を直そうと躍起になっているのか盛大に水の流れる音が響き、カウンターから良太の淹れるコーヒーの香りが静かに店内に満ちていった。


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