(6)

『LIvRA』と小さなプレートがかけられた金属製の扉の向こうは、日付が変わる頃になって本格的な賑わいを見せ、一成たちは喧騒を潜り抜けた奥のボックス席でくつろいでいた。L字型にソファが並べられたそのコーナー付近に座っていた一成に声をかけてきたのは女のほうからだった。


「こんばんは、ここ空いてますか?」


 そんな風に確認するそぶりをしながら返事を待たずに空いたスペースに体をねじ込ませるようにしてきたのは、自称モデルの美帆という女とその友人と思われるグループだった。


「ねぇ、カズ君ってあなたのことよね?」


 背もたれに体を預けたまま気だるげな一成を覗き込むように声をかけた彼女は、大きな瞳に長い睫毛を見事にカールさせ、一糸の乱れもなく整えた髪に甘い香りをまとわせていた。一成は甘いけれど鼻につく香りと美帆という女の親しげなそぶりに顔をしかめ、ものめずらしげな視線を向ける女から距離を取った。


「俺が誰だろうとあんたに関係ないだろ」

「やだぁ…そんな冷たいこと言わないで。私、前からカズ君に会ってみたかったの。ね、一緒に飲もうよ」


 いいでしょ?美帆は多くの男を蕩かせてきたこの甘やかな囁きに、絶対の自信を持っているようで、上目遣いに一成を見つめながら細い指先を一成の胸板に這わせていく。


「カズ君…何かスポーツでもしてる?」


 美帆は細身のわりに案外と豊かな胸の谷間に一成の腕を引き寄せ、ミニスカートから伸びた足を見せ付けるようにするりと組み直した。しかし一成はそんな押し付けがましい美帆の誘いに乗るどころか、強い拒絶を示すように美帆に掴まれた腕を乱暴に奪い返した。


「やりたいなら他をあたれ」


 一成は冷たく言い放つと、グラスを引き寄せそれを一気に煽った。すると、淡い琥珀の液体の中で、荒削りな氷が少し乱暴にぶつかり合う音が冷たく響く。しかし美帆は一成の邪険な態度もものともせず、執拗に一成の腕に甘い香りで迫り続ける。


「やだなカズ君、なんかえっちなこと考えてるの?」


 美帆は言葉とは裏腹に、一成を誘うようにグロスで艶めかせた唇を絶妙な角度に引き上げた。百戦錬磨のこの微笑みに男の心が平静でいられるはずが無い、けれど美帆の浅はかな企みは一成の拒絶の前には何の意味もなさなかった。美帆の表向きの微笑みの奥の計算高さを憎々しげに睨み付けて、一成はそのいけ好かない口元へ腕を伸ばした。


「俺はお前みたいな女が一番嫌いなんだ」


 ごつごつとした一成の指先が美帆の顎の関節をゆがめ、美帆は声も出せない。下手に体を動かせば美帆の華奢な顎の骨など簡単に砕けてしまいそうだ。美帆は凍てつくような一成の瞳に冗談ごとでは済まされない冷徹な感情を読み取ると、その瞳を忙しなく動かし綺麗に化粧を施した額にうっすらと冷や汗を滲ませた。けれど一成はおびえきった美帆の瞳を冷たく見据えながらもその手を緩めることなく、畳み掛けるようにその耳元に冷徹な声音を響かせた。


「俺に会いたかったんだろ?だったら何をされても文句ないよな?」


 一成の抑揚を欠いた声音がなおも美帆を恐怖に貶めていると、二人のただならぬ気配を察した洋平が一成の腕に手をかけた。


「はいはい、お二人ともそこでおっしま~い」


 洋平はいつもと変わらぬお茶らけた声音で一成を制しながら、冷徹な感情を隠すことなく浴びせ続ける一成に声を潜めて囁きかけた。


「カズ、相手は女の子なんだよ、何やってんの」


 洋平の非難がましい仲裁を一成は苦々しげに睨みつけると、涙目の美帆をソファへ乱暴に突き放し、舌打ち混じりに立ち上がった。


「ばかな女が目障りなだけだ」


 一成は吐き捨てるようにそう言うと、そのまま出口に向かって歩き出した。洋平は立ち去る一成の背中に肩をすくめると、溜め息混じりに浩一郎と顔を見合わせた。


「悪い…先に帰る」


 一成はその瞳に冷たい感情を上らせたまま誰にともなくに言い残し、後は振り返らずに人ごみに紛れるように足を踏み出した。


 LIvRAの中央ホールは大音量の音楽と人のざわめきに満ち、煙草と酒の臭いが充満していた。その喧騒の中を一成が一人出口に向っていると、不意に後ろから肩をたたかれた。


「カズ君じゃない?ずいぶん久しぶりね」


 美帆よりも気取っているけれど落ち着いた声音に一成が振り向くと、そこには長い髪を綺麗にカールさせたほっそりとした女が微笑んでいた。化粧を塗りたくった女の顔はどれも同じように見える、けれど端々に滲み出る気品と妖しいまでに男を誘うしぐさの艶かしさ、LIvRAには少しもったいないような女の立ち居振る舞いに一成の瞳に野生の色が閃いた。


「久しぶり…?」


 そっけないけれど少し興味をそそられているような一成のそぶりに女はふふっと小さく微笑み、そして少し困ったように首をかしげた。


「私は響子よ、おぼえてないのね、半年前に一回ね…」


 女の意味深な微笑みと少し寂しげに呟くように伏せた瞳、胸元のネックレスを弄ぶ細い指先が一成のジャケットの襟元をゆっくりと辿っていく。


「ねぇ…ひとり?」

「いや…もう帰る」


 女の指先がジャケットからシャツへとその輪郭を縁取っていくしぐさはぞくぞくするほど美しかった。言葉だけは女を突き放すそぶりをみせていた一成だったけれど、その視線は女を誘うように出口へと向けられている。


「ふふ…じゃあ私も一緒に帰るわ」


 響子は出口に向かって歩きだす一成の指にそっと指先を絡めて歩き出した。ざわめきの向こう見なれぬ女とともにLIvRAを後にする一成の後ろ姿を見送りながら、洋平はちぇっとわざとらしい声を洩らした。


「カズのやつ美帆ちゃんはダメで、あっちはいいってわけ?わけわかんないね」

「カズもいろいろ屈折してるからな」

「まったく、ひねくれ者なんだよね、またいらいらしてどっかで喧嘩するんじゃないかって心配して出てきてやったのに、損しちゃったよ」


 洋平は一成たちの消えた人ごみに向かってむっと頬を膨らませると、大げさに肩をすくめて浩一郎を振り向いた。すると浩一郎はそんな洋平の不満顔に小さく吐息を付いて、洋平よりは控えめに肩をすくめた。


「お前も相当ひねくれてるぞ」

「僕のこれはチャームポイントなんだからいいんだよ。僕だってちゃんと計算して使ってるんだからね。カズのはただのわがままじゃん」


 世間的に筋が通らないことも、洋平が語れば筋が通ってしまいそうだ、浩一郎はそんな腹黒い計算高さを自慢げに語る洋平の肩をたたいて小さく吐息をついた。


「まったく…お前には負けるよ」

「浩、どういう意味?」

「ま、いいだろ。カズも今日はもうバカなことはしないだろ」

「まったくさ、ちょっと気に入らないからって手当たり次第に荒れて欲しくないよ」

「しかたないだろ、あの美帆って女には俺でも我慢がならない」

「そう?かわいかったじゃん」


 洋平はそんな風に嘯きながら浩一郎へにやりと笑いかけた。洋平のこういうつかみどころのない性格は今に始まったことではないけれど、浩一郎は今度ばかりは大きくため息をついた。


「じゃあお前ががんばればいい」

「冗談、カズのお下がりなんていらないよ」


 洋平がさして不満そうでもなくそう言い残し軽やかに席へと戻って行くのを、浩一郎は深く長いため息とともに見送った。

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