(5)
洋平たちとの待ち合わせまで一度自宅へ引き上げた一成は、出かける支度を済ませて台所に顔を出した。
「母さん、行って来る。今日は洋平んちに泊まると思うから」
そっけない一成の口調に母はそれを咎めるでもなく、ただ皿を洗う手を休めて振り向いた。一成にその面影をあえて探すとしたらその髪質と髪色、そのくらいだろうか。とくにこれといって特徴はないけれど柔和な微笑みは一成には遺伝しなかったようだ。一成の母は少し困ったように見上げるほど立派に成長した息子に小首をかしげた。
「あら、もうでるの?いつも洋平君のおうちにお邪魔してばかりじゃ悪いわ。今度きちんとお礼しないと…」
洋平の家に泊まると母に告げて、本当に泊まったことなど実は一度もない。母親ならではの気遣いを申し訳なく思いながら、何度も嘘をかさねていることをおくびにも出さないように、一成は急いでるからとその体を翻す。
「大丈夫だって、洋平んちはうちの何倍もでかいし、ちゃんと俺も世話になったらお礼くらいはしてるよ」
「でも…」
今度はお菓子を用意しておかないとと、息子の嘘に律儀に義理立てた言葉は息子の背中にかけるには少し陳腐すぎるように思えた。母はかけそびれた声を飲み込んで玄関に向かうその姿に寂しそうに眉尻を下げた。
「一成、気をつけて行くのよ…」
「わかってるよ」
一成が靴ひもを結び終え立ち上がったとき、軽い咳を繰り返しながら階段を降りてくる妹に眉をしかめた。
「沙紀…ちゃんと寝てないとだめじゃないか。無理するとまた苦しくなるぞ?早くベットに戻れ」
「お兄ちゃんが一緒なら…戻る」
一成は小等部に通う妹の頭に軽く手を乗せると、自分の腰あたりの視線まで体をかがめ優しく微笑んだ。
「そうしてやりたいけどな、兄ちゃんは友達と約束があるんだ。もう時間になるから行かないと…」
「でも…お兄ちゃん、怪我しない?」
「心配するな、洋平たちと一緒に遊ぶだけなんだから」
このところの暖かさにようやく軽快を見せた沙紀の喘息発作は、この冬特にひどかった。病弱な妹の体調を懸念する一成の慈愛に満ちた微笑みが、沙紀以外に向けられることはない。しかし、この特別な微笑みにも沙紀は大きな瞳を潤ませて、一成を引き止める手を放そうとしなかった。
「じゃあ、沙紀が春休みになったら、沙紀の行きたいところに一緒に行こう。だから今日は、な?」
分かってくれと懇願するような一成の口調に沙紀はふるふると頭を振り続ける。
「だってお兄ちゃんに怪我して欲しくないよ…?」
沙紀の不安を形にした言葉、それに一成は胸を深く抉られる思いだった。あれは去年だったか、久々にひどく顔を腫らして帰ったとき、泣きじゃくった沙紀がずっとつきそって離れなかった。おかげで風邪をひいた沙紀の喘息発作がひどくなり入院したはずだった。
「安心しろ、兄ちゃんはもう怪我しない。約束する」
「ほんと…?お兄ちゃん約束だよ?」
「ああ、約束する」
沙紀は一成がまっすぐに自分を見つめるその眼差しに微笑むと、じゃあと小さく呟きその目の前に小指を立てた。
「じゃあお兄ちゃん、約束ね」
一成は指きりげんまんしろと差し出された沙紀の小指に、自分の小指の先端を絡めると沙紀が節をつけて歌う姿を見つめて微笑んだ。入退院を繰り返し変に物分りの良くなってしまった沙紀も、やはり小学生なのだと思うこういう瞬間が一成は嫌いではない。けれど高校生にもなって指きりさせられることには少しばかり
「沙紀、どこに行きたいか決めておけよ」
約束を取り付け満足気な沙紀の小指が離れていくと、一成は沙紀の髪をくしゃりと撫でて微笑んだ。その笑みはほんのりと指きりの苦味の余韻を残していたけれど、沙紀は一成の問いかけに即座に瞳を輝かせた。
「わたしお兄ちゃんと公園行きたいの、あの長い滑り台があるとこ。遠足で行くはずだったけど行けなかったから…みんながね、楽しかったって言ってたの」
「ああ…丘公園か?わかった、じゃああったかい日に行こうな」
一成が地元では有名な公園の愛称で確認すると、沙紀の瞳が嬉しそうにほころんだ。
「ありがと、お兄ちゃん。大好き」
楽しみにしていた遠足は確か沙紀が熱を出して行けなかったはずだ。沙紀ほどではないにしても幼い頃は自分も同じように喘息に苦しみ、遠足や運動会を諦めなければならないことが多かった。一成はそうした苦しさや辛さも一緒に、妹の小さな体を抱きしめ返した。
「兄ちゃんもだ」
沙紀が嬉しそうにきゅっと抱きつくのを受け止めながら、一成はその髪を撫でた。春とはいえ朝晩の冷え込みのきつい玄関先での長話は沙紀の髪を芯まで冷やしていた。
「じゃあ沙紀、風邪ひかないように早く部屋に戻れ」
「うん、わかった。いってらっしゃい、お兄ちゃん」
一成は背中に感じる沙紀の温かな小さな手のぬくもりに無垢な愛おしさを感じながら、小さな手にそっと自分の手を重ねて微笑んだ。
「じゃあな」
一成は最後に沙紀の小さな頭にぽんっと軽く手を乗せて、小さく手を振る沙紀に見送られながら自宅を後にした。すっかり日の落ちた暗闇を歩く一成の足取りは、およそ遊びに行く時の浮かれたものとは異なり、母と沙紀についた小さな嘘への罪悪感が滲み出ていた。
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