(2)
白いリノリウムの床、飾り気のない茶色の壁、大きくきられた渡り廊下の窓、そこから見下ろす中庭の緑。薄日の差す廊下には一成の足音だけが静かに響き、人気のない校舎のうらびれた寂しさを称えていた。誰もいない教室に繰り返し一成の足音がこだましてももう誰の視線も感じない、一成はその静けさにやっと人心地付いた思いがした。
(―いつもこれだけ静かならな…)
学校という場所に足を運ばなくていいのならどんなに楽をできるだろうと、一成は思う。それは通常多くの学生が思う朝が億劫だとか、勉強が嫌だとかそういうことではなく、こうして好奇の目にさらされること、その事にある。
うっかり教室で居眠りすればその寝顔見たさに教室の熱気が高まり、通学時間が重なれば行列が出来、人混みを歩けば取り囲まれ、何一つ自由にならない。出来る限り人を避ける、それが今の一成に出来る一番の解決策だった。
そんな一成にとって「僕らの部室」と菱谷洋平の汚い字が張り紙された扉は、救いの扉でもあった。「関係者以外立ち入り禁止」と書かれてはいるけれど、関係者といってもここに出入りするのはたったの4人だ。教室でもなく共有スペースでもなく、部室として区切られた空間はごく限られた人間だけが出入りする場所と認識される。しかもこの部屋に出入りする人間の誰もが部活動などした覚えもなく、今後するつもりもないとくればこれほど恰好の隠れ場所はない。この部屋を確保してくれたその事に関してだけは、悪友とも言える洋平の実家の財力と、もって生まれた口のうまさに感謝するしかない。
(―しっかし、何度見てもきったねぇ字だな)
一成が呆れたため息まじりに開けた稚拙な文字の向こうは、中庭から差し込む日差しが教室いっぱいに広がっていた。そこには明らかに備品ではない柔らかなソファに、ローテーブル、洋平のわがままがぎっしりと詰め込まれているキャビネットが運び込まれ、そして日当たりのよい場所に置かれた洋平お気に入りのカウチにはいつものように木月晴彦が眠っていた。
「ハル…学校来たなら講堂に来いよな」
一成は自分も抜け出してきた手前強く言える立場にないのは承知のうえで、毛布にくるまり陽だまりで眠る友人に小さくため息をついた。
窓から入る心地よい太陽の光に晴彦の色素の薄い髪が煌き、彫りの深い鼻筋が小さな寝息を立てている。晴彦も一成のように異彩を放つ美しさで人気の高い男だったが物静かな性格が儚げで、いつも一成の存在感に打ち消されるようにひそやかにそばにいるのを好んでいた。
(―俺も少し寝るかな…)
一成は晴彦の眠るカウチから少し離れたいつものソファに腰掛けると、重労働を終えた後のように少し深い吐息をついて足を投げ出した。
先ほど会長の話を聞いている時はあれほど眠かったのに、いざ寝ようとするとなかなか寝付けない、一成は少しだけ開いた窓から漂う春風に微かな海の香りを感じるとその黒い瞳に青空を映しだした。
「海…行きてぇな…」
風はさほど強くない、例え海に行けたとしても波はうねる程度で、とてもサーフィンどころじゃないだろう。もちろん高波が押し寄せる力強い海が一番だが、今日のように穏やかな海もまたそれはそれでいい。ボードを抱えて冷たい水に体をさらし、青空と海の境界をじっと眺めながら小さな波音に耳を澄ませるだけ、一成はそんな海も好きだった。
一成がサーフィンを始めたのは中等部の2年になった頃、6つ年上の勇次という男の誘いがきっかけだった。勇次はサーフィンで日焼けした肌と無駄な肉のない厚い胸板、短く整えた黒髪が精悍な顔立ちによく似合う男で、一成が密かに兄とも慕う頼りがいのある青年だった。
あれは県外の大学へ通っていた勇次が、銀細工職人の父親が病に倒れたのをきっかけに実家に戻っていたときのことだった。自分のことだけでも大変な時期にもかかわらず勇次はその頃引きこもりがちだった一成を外へ連れ出そうとあれこれと手をつくしてくれていた。一成はそんな勇次の優しさが少しわずらわしくもありながら、一成のためを想い尽力してくれることが嬉しくもあったのを思い出していた。
まだ泳ぐには早い海、初めて袖を通したウェットスーツ、案外と重さのあるサーフボード、強い潮風に湿り気を帯びた砂が足に絡みつく。海で泳ぐこと自体が久々の一成に、勇次はストレッチしながら口頭でサーフィンのポイントと注意点を教え、さ行くか、と一成の背中を軽くたたいた。
「行くって…勇次、もう海にはいんのか?」
「そうだ。海にはいらねぇと波に乗れねぇだろ?」
何言ってんだよ、勇次はそういうとさっさと自分のボードを抱えて海へと歩き始めた。一成の抗議も質問も受け付けないとばかりに歩む勇次を、一成は慌てて借り物の板を抱え追いかけた。
「ほんとはさ、もうちょっといろいろ練習すんだけど、ま、カズなら大丈夫だろ?俺がやるのを見てれば出来る、お前はそういうやつだからな」
勇次の口調は面倒な手順を省くそういう投げやりな態度とはちがい、一成の実力や才能を信じる気持ちに溢れていた。
「大丈夫、カズならできる」
勇次が無条件に信頼を寄せてくれることにはにかみながら、一成は一人沖合いに向けて漕ぎ出していくその背中を見つめていた。勇次の褒め言葉に一成の気持ちは先ほどよりは軽くなってはいたけれど、頭上の空模様は怪しく、青いはずの海は灰色によどみ、脇に抱えた借り物のボードとウエットスーツの違和感が大海への恐怖を否応なく駆り立てるのは致し方ない。
「お~い、カズ。そんなとこでびびってないで、さっさと来いよ。はいっちまえば案外あったかいもんだぞ~」
「びっ、びびってなんかねぇ。勇次、俺は初めてなんだぞ、もうちょっと丁寧に教えやがれ」
沖合いでぷかぷか浮かびながらのんきに手招く勇次。その姿に悪態で虚勢をはることで自分を鼓舞すると、一成は一息に冷たい海に体をさらした。最初は縮こまるような冷たさに体も心も強張ったけれど、案外と早く体が水の温度に順応していくと心にも少し余裕が生まれた。
(―こうか…?)
見よう見まねで体を浮かせることを覚えた一成がゆっくりと進み始めると、勇次は小さくうなずいてまた沖合いに向けて漕ぎ出した。
「ちょっ…まっ…ぐっ…げほっ、げほっ…」
ちょっと待てと、言おうとした一成の声は吸気とともに気管に入った塩辛い水と混じり声にならなかった。勇次に悪態つくなら早く追いつかなくてはならない、他のことはわからないことだらけでもそれだけは一成にもはっきりとわかった。
「くそぉ…」
(―勇次、あとで覚えてろよっ)
一成が憎々しげにすいすいと遠ざかる勇次の背中を睨みつけながら必死に手を動かしていると、いつのまにか砂浜が小さくなっていた。目の前に広がる海はどこまでもつづき、その雄大さにつつまれるような感覚は心地よい。水深もぐっと深くなっているのか、足元を流れる海流がひんやりと感じられ、同時に波のうねりの高さは畏怖すら覚えるほど力強さを増していた。慣れないウェットスーツとサーフボード、広大な海で一成が頼りに出来るものはいまやそれだけだ。波のうねりの向こうにあるはずの勇次の姿はもう見えなくなっていた。
「おい、勇次っ…げほっ…このあとっ…ごほっ、どっ、どうすんだっ。おいっ…ゆ、勇次、 どこいんだっ」
「いやっほ~~」
一成が広大な海の真ん中で孤独感に焦りの声をあげたとき、勇次が楽しげな歓声とともに一際高い波の上を滑っていった。灰色の空、灰色の海、その波間を白波立てて進む勇次の姿は、やけに楽しそうだった。
「す…すげえ…」
サーフィンというスポーツがどんなものか、それはなんとなく分かっていた。けれど、実際に波に乗るエネルギーの高まりを目の当たりにしたら、一成の鼓動が期待感で否応なく膨らんでいく。
(―俺も…俺もでかい波に乗ってやるっ)
一成が心からそう思うまでさほど時間はかからなかった。勇次の奇声にも似た歓声が波間に没すると、一成は見よう見まねで次々と訪れる波に果敢に漕ぎ出していった。
ほんの一時間足らずとはいえ、無我夢中で海に挑んだ一成の体は思った以上に疲弊していた。腰をかがめ両膝に手をつき、息を整えるのも億劫なほどだ。
「どうだカズ、楽しかったか?」
陸に上がると濡れた体は鉛を付けられたように重く、湿り気を含んだ海風が一成の体力を奪うように吹き付けてくる。けれど一成は髪から滴り落ちる雫を振り払うように、途切れ途切れの呼吸の中で勇次を見上げて微笑んだ。
「すげぇ…楽しかった…」
いつも暗く澱みがちだった一成の漆黒の双眸、彫刻のように整いながら生気のうせたその表情が一転していた。もともと笑うことの少ない一成だったが、この笑顔はこれまでで一番とも言えるほど輝き、希望に満ちていた。勇次はそんな一成の笑みに満足げな表情を浮かべ、何度も何度もうなずいた。
「だろ?サーフィンはいいんだ。余計なことうじうじ考えなくていいし、海の上ならお前の苦手な人間もほとんどいない。なあカズ、サーフィンが楽しかったならもっとしっかりやってみないか?」
「もっと…しっかり…って?」
「俺のサーフィンの師匠に習ってみないかってこと。すぐそこでマイスナって喫茶店やってる早瀬良太さんって人。ほら、さっき着替えとかさせてくれたあの人だよ」
「ああ…あのでかい…」
早瀬良太というその人は、一成より頭一つ背の高い勇次ですら見上げるほど体の大きな男だった。厚い胸板によく焼けた肌、綺麗にそりあげた坊主頭につぶらな瞳、サーファーというよりは漁師のようなそのいでたちに一成は一瞬瞠目したのを思い出していた。一見威圧的な風貌も、笑うとその小さな瞳がきゅっとつぼむとても鷹揚な人物だった。
「体はでかいけどな、教えるのはすごいうまい。俺も良太さんのおかげでだいぶ上達したんだぜ?」
勇次の誘い文句はうまくなりたいと強く思い始めた一成の心をうまく刺激していた。
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