第1章 

眠りの森の寝ぐせ姫

(1)

 学年末の緩慢とした空気と穏やかな暖かさ、眠気を誘う静けさに滔々とうとうと続く来賓のスピーチ。粛々しゅくしゅくと進む儀式の中で森一成もりかずなりは何度目かの欠伸をかみ殺していた。


「…でありますから、皆様にはこの黎明れいめい学園高等部を代表しているのだという自負をしっかりと胸に刻み、明日からの春休みを謳歌していただきたいと、こう願うわけであります。さて、……」


 講堂の壇上で若き学生への叱咤と激励を読み上げるPTA会長は、すっかり自らのスピーチに陶酔しきっている。講堂の目立つ場所に張り出されている式次第を未だ半分も消化しきれないのは、話好きだが高額寄進者のこの会長をぞんざいに扱えないが故だろう。


(―いつまでもおんなじこと繰り返してんじゃねぇよ…)


 一成はだらだらと流れていく深みのない訓示にとうとう漏れ出る欠伸を我慢しきれなかった。


「ふぁ…」


 酷薄なまでに形良い唇から漏れ出た小さな欠伸、それは本当に小さなものだった。けれどその短い吐息に重なるように、一成の周囲からは甘く切ない溜め息が巻き起こった。


「森君…欠伸してる」

「やった…欠伸したのみちゃった…」

「欠伸もかっこいいなんて…」

「あぁ…ほんと素敵…」


 会長のスピーチの合間の吐息のような囁き、それは一成の小さな欠伸、そのなんということのない挙動へむけられた賛辞であった。そうしていくつも折り重なった溜め息が架橋に差し掛かった会長の熱弁を遮るほど高まると、教師陣は一瞬顔を強張らせた。首謀者は誰かとうかがうように首をめぐらせた教師陣が、溜め息の波紋の中心に一成がいることに行き当たる。すると、教師達の顔には諦めにも似た許容の表情が自然と浮かんでいた。


(―なんだ、また森か…)


 教師達の顔にはそんな言葉が浮かんでいた。熱弁を遮られた会長が軽い咳払いとともに気を取り直しマイクに向かうと、教師達は乱れてもいない襟を正して再びつまらない言葉の羅列に意識を向けなおす。


(―俺じゃねぇだろっ)


 儀式中の欠伸、それは褒められることではないけれど、儀式を妨げた元凶のような扱いには一成としても納得しかねる。一成がそんな理不尽さに奥歯を噛み締めたとき、大友浩一郎の逞しい腕が一成の憤りにそっと歯止めをかける。


「カズ、落ち着け」


 柔道に明け暮れる浩一郎の無骨な手にはさほど力は込められていない。それでもここがどこかなどお構い無しに教師達に怒鳴りつけたくなった一成の衝動を解くには十分だった。浩一郎の落ち着いた声音に、無意識のうちに力の込められた一成の肩の緊張が解かれていた。


「ああ……大丈夫だ」


 一成は浩一郎にだけ聞こえる声音で殊更ゆっくりとうなずいた。そうしてうなずく間に、凍てつくような漆黒の瞳で教師達を横にらみし、ごく小さく舌打ちすることで自分なりに折り合いをつける事にした。


(―ちっ…やってらんねぇ…)


 自分が何をしたということなく向けられる非難と中傷、そんなものはもう慣れっこなはずだ。一成は頭で分かっているつもりでも、気持ちをうまく処理することが出来ない。小さな頃から世間の理不尽な理屈に一成が振り回されていると、今と同じように決まって浩一郎がそれをとりなしてくれた。

 形よく切れ上がった漆黒の双眸、すんなり通った鼻梁、さらりと流れる黒髪、痩せ型ながらよく日焼けした逞しい胸板に、黒豹のようにしなやかな動作を生み出す長い手足。口数も少なく愛想もないがその圧倒的な存在感は群を抜き、誰もがその完全な風貌に息を呑む、それが森一成という男なのだ。

 いまもまた講堂に居合わせたほとんどの生徒が一成とは目を合わせないようにしながら、一成の一挙手一投足に常に意識をむけているのが感じられる。じっとりとした視線を感じるのも不快なら、無関心を装った視線の不快感にはことさら一成の眉間のしわが深まり、我慢しきれない悪口雑言が奥歯でかみ砕かれた。


(―おれは見世物じゃねぇぞっ)


 一成はうなるような思いをぎりぎりと心の内でかみ殺しながら、握り締めた拳に力を込めた。


「カズ…?大丈夫か?」

「あ、あぁ…」


 ぶつけようのない苛立ちではち切れそうな一成は、浩一郎に再び差し伸べられた救いの手に小さな安堵の吐息をもらす。けれど色を成した一成の瞳には数ある理不尽な仕打ちに対する恨みすら感じられ、浩一郎はここが限界とばかりに一成の肩にぽんっと手をのせた。


「もういいんじゃないか?先に引き上げてろよ」


 浩一郎の声音は一成の葛藤を労っているように響いた。学校だけはきちんと行く、他は自由にすごす代わりに取りつけた両親との約束。一成は律儀にそれを果したと、浩一郎が太鼓判を押してくれたのだ。


「ああ…悪いな、浩」


 ようやく終わりを迎えた会長の長話、その終焉に生まれたざわめきに紛れるように一成が立ち上がった。今度の一成の行動には教師の数人と女生徒の大半から少し驚いたような視線が集まる。けれど、教師達の瞳は一成の姿を捉え、すぐにそ知らぬ顔つきで次の来賓が壇上に上がる段取りを目で追っていく。その一方で、一成の退室を察した女生徒たちの多くは、もう二度と一成に会えないかのような切なさを湛えてその瞳を潤ませはじめた。


「あぁ…森君…」

「カズ君いっちゃうぅ…」

「あ~行かないでぇ…」


 新しい来賓のスピーチに紛れ、女生徒たちの呟きが囁かれる。けれど一成がそんな声に振り向くわけもなく、その足取りはまっすぐに校舎を目指していく。


「あぁ…行っちゃった…」


 一成の背中が足早に校舎の暗がりに消えてしまうと、その退室を名残惜しげに見つめ続けた多くの女生徒の切ない溜め息が波紋のように広がった。


(―カズは昔から要らない苦労ばっかり背負ってるよな…)


 浩一郎は一成の姿が消えた扉をいつまでも見つめ続ける女生徒の姿に小さく肩をすくめた。


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