寝ぐせ姫~いつも一緒に~

古堂 蟻屋(こどうありや)

序章

寝ぐせ姫と王子様

「桃とマンゴとぱいなぷ~、甘い恋してくちづける~、ちゅーるちゅーる桃とマンゴとぱいなぷ~」


 海岸線沿いの小さな喫茶店から小学生のように小柄なみつきと、まるで親子のような身長差のある一成が夕闇の中を連れ立って歩いていく。みつきは小さな体でリズムを刻み、最近発売されたばかりのフルーツジュースのCM曲を舌足らずに歌い続けている。おかげでCM曲にも商品にも全く興味のなかった一成の脳内にもそれが深く刻み込まれていきそうだ。一成がため息をつく傍らで、みつきは楽しげに歌い続ける。


「桃とマンゴとぱいなぷ~、フルーツ国のお姫様~ 恋するお方はよぐると王子~ 出会って恋してちゅるちゅるる~」


 みつきはそこまで歌うと一成と繋いだ手を大きく前後に振り始め、また冒頭から歌い始めた。みつきの寝癖がぴょこんぴょこんと陽気にリズムを取っている。


「桃とマンゴとぱいなぷ~…あ、カズ、見てっ、すっごい綺麗なお月様だよ」


 興に乗っていたはずのみつきが突然立ち止まり、空に浮かぶ満月を指さした。一成は唐突に歩みを止めたみつきに引っ張られる形で足を止めると、眉間にシワを深く刻みつけた。


「みつき…いい加減にしろ。これじゃあお前の家にいつになったら着くか…」

「だって、ほら、カズも見て。綺麗だよ?」


 一成が眉間にシワを寄せながら、みつきの導きに空を見上げた。夜のとばりに浮かぶ月は確かにとても美しかった。けれど、一成は延々付き合わされてきた不快感をあらわに、すっかり立ち止まってしまったみつきを引き寄せた。


「いいから、行くぞ。ちゃんと前見て歩けよ」

「は~、綺麗だなぁ…」


 みつきはそうしていれば飴玉のように月が口の中に飛び込んでくるんじゃないかとばかりに大口を開けて空を見つめている。一成はいい加減時間ばかりを食うみつきの帰路に付き合っていられないと、早々にみつきの腕を引いて歩き出した。


「ほら、行くぞ」

「あ…」


 苛立つ一成の勢いにみつきの足がたたらを踏む。2、3歩進むその足がもつれ、みつきの体が倒れこみそうになるのを、一成の腕がしっかりと抱きとめた。


「みつきっ…だから前見て歩けって言ってるだろ」

「えへへ、ごめんね、カズ。でも、カズが一緒に帰ってくれるから嬉しいんだもん」


 みつきが浮かべる照れ笑いには、一成への無垢な信頼が浮かんでいる。一成はその無条件に向けられるみつきの信頼に不思議と胸があたたくなり、そんな照れくささをぶっきらぼうな声音に包んで解き放った。


「嬉しいって…べつに途中だから…っていうか、それとちゃんと前見て歩くこととは違うだろ」

「一緒だよお。カズが一緒に帰ってくれると、いつの間にかうちについてるんだもん。カズってほんと頼りになるよね」


 みつきが寄せる一成への信頼はすでに絶大なものとなっていた。みつきは自分よりも一回り以上大きな一成の手を両手で包み込んでいる。一成を包み込むみつきの手には、いつも複数の絆創膏が貼られている。けれど今日もまた、その中に真新しい絆創膏を見つけて一成から吐息が漏れる。


「また、火傷したか?それとも割ったグラスで怪我したか?」

「きょ、今日は違うもん。おじさんの手伝いできゅうり切ったんだもん」

「それで一緒に指先も切ったか」


 一成は昨日はなかった中指の絆創膏を見つめながら、生傷の絶えないみつきの手からその膝頭に視線を落とした。


「昨日転んでぶつけたところはどうした?あざになったか?」

「うん、でもいつもより小さかったよ?」


 みつきは布地の上から昨日の転倒の痕跡を包みながら、少し得意げに一成に微笑んだ。


「お前は全く…いつになったら怪我をしない日が来るんだ?」

「それはわかんないよぉ。でもね、あたしいまいろいろできるようになりたいから頑張ってるんだよ。カズがいてくれたらなんでも出来そうな気がするんだ」

「お前なあ、俺だっていつもお前の世話をやけるわけじゃないんだ。少しは自分でも気をつけろ」

「いっつも気をつけてるもん。今はカズが一緒にいるから嬉しいだけだよ」


 みつきは一成に微笑みかけると。今度はみつきが一成の腕を引いて歩き始めた。こう素直に嬉しいと言われると一成も怒れなくなる。


「いいから、転ばないように歩け」

「うん、わかってるよぉ」


 みつきは少し唇を尖らせたあと、また先ほどのCM曲を楽しげに歌い始めた。放っておくとステップでも刻んで転びそうな足取りに、一成が早々と釘を刺した。


「みつき、転ぶなよ」

「うん、だいじょぶだよ」


 みつきは一成の声に足を止めると、今度は二人並んで歩き始める。みつきの家まではあと少し、次の曲がり角を曲がれば見えてくる。一成はみつきの自宅マンションの入口で足を止めると、みつきのクセの強い髪をクシャりと崩して別れを告げた。


「みつき、また明日な。気をつけて帰れよ」

「うん、カズ、送ってくれてありがと。カズも気をつけて帰ってね」

「ああ…じゃあな」


 ばいばい、そう言いながらみつきが前を見ないで駆けていく。いつもながらおぼつかない足取りは今にもどこかにつまづいて転びそうな気配がある。


「手なんか振らなくていいから前見て歩けっ」


 一成の視界の中でみつきが自動ドアに衝突しながらエレベーターに乗り込んでいく。小さなエレベーターの小窓からはみつきの姿は確認できない。それでも一成はみつきがそこから手を振っている気がして、しばらくその場から動けなかった。


(-行ったか…)


 みつきの帰宅を無事見届けると、一成はきびすを返して歩みだした。手持ち無沙汰になった両手を、薄手のコートのポケットに差し入れた。今日も明日もその先も、こんなふうに普通の日々が続けばいい、一成は頭上に浮かぶ月を見上げて自宅に向けて歩き出す。知らずと漏れる鼻歌がみつきのあの曲を奏でていることに、一成はしばらく気がつかなかった。


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