禁断の領域へ


 あなたは「答え」を見ながら「問題」に取り組んだ経験はあるだろうか。


 例えば、長い夏季休暇の終わりに差し掛かり、問題集「夏休みの友」の攻略が残っていたことに、ふと気づいた時。

 少なからず焦燥していたあなたは、汗ばんだ手で問題集の末尾をめくろうとする。

 間違いなく誤ったやり方だ。だが、真面目に回答し、採点を行う時間もない。

 めくった先には、求めてやまない答えが、淡々と記述されており――


 そんな汚い真似しないよ、と思った人物もいるだろう。

 だが「問題」とは日常の様々な場面で登場するものだ。


 例えば、仕事にも慣れてきて、久しぶりにゲームを買ってみたが、ものの序盤で詰まった時。または、買った作品が膨大なボリュームだと知った時。

 例えば、旅行に行く際に、色々行きたい場所があって、どう時間を決めるか悩ましく思った時。

 例えば、両手に持った二冊の本のうち、どちらを買うべきか困った時。


 こんな時、「答え」や「最適解」を求めたくなる経験はないだろうか。

 分身が出来たり、無限の時間があるのなら話は別だが、私達は一人しかいないし、時間も限られている。

 それに、一つの作業に集中し続けられる訳でもない――時間の経過とともに、次々と問題は降りかかるのだから。


 だから、「答え」を見ることに関して、それほど抵抗がある訳ではない。

「解法」を知らねば「問題」を解くことは出来ない。E〇CELの計算式やマクロの文法などは、知識がなければ、永遠に分からないようなものだった。

 それを一つ一つ知ったお陰で、目的の実現には至らずとも、かなり参考になったことは事実だ。

 それに、知識神ググルに助けを乞うのも、今までに何回もやってきたのだ。

 

 それでも。この強硬手段カンニングは、なるべく使いたくなかった。

 何故か。「答え」を見た大半の人は、こう思うからだ。


「虚しい」


 自分が何をやっているのか分からなくなる。

 確かに悩まずにはいられるが、それにいくら時間をかけたところで、既に出来ているものをなぞり続けるコピペ作業でしかない。

 「夏休みの友」のような期限付きの課題ならまだしも、自ら率先して作品を執筆するような場合において――果たしてこのような行いに意味はあるのか。



 これから私は、答えの丸写しをする。

(ここでいう「丸写し」とは――自分で解法を見つけずに、知識の神様に丸投げする行為のことを指す) 

 何故か。この実験を無事に完了させたいからだ。

 E〇CELの機能やら素晴らしさはともかく、連載小説を書き続ける経験も、何かを調べ続ける経験も、解決方法やアイデアを頭で捻り出す経験も、全てこの作品を通して学んだ(大学の卒業研究の時に、少し齧ったくらいだ)。

 その中で多少なりとも、この計画――電子世界の猿には、愛着を持っているのだ。


 凍結エターナルした名作より、完結した凡作を。


 その思いを胸に、私は「マクロ 高速化」という元も子もない言葉を、神に申し伝えた。

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