無限の猿を作りだせ
脳幹 まこと
プロローグ
猿とタイプライター
真っ白な空間に一匹の猿と一台のタイプライターがある。
この猿は野生のものでも、飼育されたものでも、ボス猿でも下っ端でも、オスでもメスでも構わない……タイプライターを打鍵できるほどの力があれば、手を失っていても構わない。
猿は最初こそ、空間内をうろついたり、仲間を呼ぶために叫んだりするが、当然何の応答もない。
時間の経過とともに、暇を持て余し、いずれ、地面に置かれたタイプライターの存在に気付くだろう。
気付いた後は、それを適当に眺めたり、呼びかけたり、いじったり、踏みつけたりする。タイプライターは十分に頑丈で、機能を失うことはない。
これもまた十分な回数を繰り返せば、カシャという音がしたり、その際に「紙」と呼ばれる薄っぺらい物体に「文字」と呼ばれる何らかの模様が出来ることを知るだろう。
そして、猿は興味を持った――いや、持たざるを得まい。持つに至るまでの時間はたっぷりあるのだから。
まず、薄っぺらい物体を破ろうとするだろうが、無駄である。紙は無限の枚数あるから、一枚や二枚、すっぽ抜けたところで結果が変わることはない。
(この検証では、タイプライターの構造に関係なく、どんなことが起ころうとも、「紙に文字を入力する」機能を絶対に実現するものとする)
猿はいずれ、紙遊びに飽きる。そして模様を作り上げることに専念するようになる。それはちぎったり、放り投げたりが限界の紙遊びとは違い、簡単に飽きるものではない――なぜなら、模様の出現パターンは無限にあるのだから。
タイプライターがアルファベット(ここでは大文字小文字を区別しないものとする)を打鍵出来るものとする場合、その総パターン数はアルファベットの種類を文字数で累乗したものになる。つまり、1文字で26種類、2文字で676種類、3文字で17576種類。10文字になれば、26の10乗――約141兆種類ものパターンが出来上がる。
猿は楽しくなり、ガチャガチャと乱雑にタイプライターを操作し、文字の羅列を延々と垂れ流す。
決して賢しいとは呼べぬ頭脳だが――「自分の力によって模様が作られている」だということだけは、理解したのだった。
それから長い時間が経った。
猿は自身の疲れによって、興奮状態から抜け出した。
タイプすることをやめ、おもむろに顔を上げ――白い世界に、黒い模様が延々と広がっている光景を見た。
その巨大な模様は、波紋か、粒子か、幾何学か、カオスか、フラクタルか――それが何を意味しているのかは、どうでも良い。
ともかく――自分の力で世界が変わった。
その際に猿が受けた衝撃は、火の存在を初めて知った際のヒトのそれか、それとも有益な道具を初めて作った際のヒトのそれかは分からないとしても――今までの半生を塵にする程の快楽を与えた。
それから猿は、遮二無二打ち続けた。疲れはとうに吹き飛んでいた。
今、この時を以て、猿の生きている理由は――よりうっとりする模様を作り上げること、それだけとなった。
昼夜を問わず、打ち続けた。
生物の三大欲求――性欲、食欲、睡眠欲すらも、今や猿の視野には入っていない。
間違いなく、気狂いになっていた。
死ぬことが出来るのなら、いずれかは終わるのだろうが――
猿は今も、タイプライターを打ち続けている。
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