第4話

「仕事場として有効に活用したいというのは本当さ。僕は物語を本の中で体験したいがために今のレーベルを立ち上げたんだよ? それでも趣味と実益を両立させる方法があるなら、いくらでも手を打つ。費用対効果的に最善なら、悩む必要なんかないってだけのこと」


 東湖の呆れた様子に気付きながら、護洞は拳を握りしめ雄々しくぶち上げた。その様は巻き込まれる側に異論はあろうとも、なかなかに説得力はある。


「だからね、これは今回の結果を鑑みて判断した、きちんとしたビジネスの話。と言っても東湖はまだ中学生。金銭がらみの契約はできないから、もっと別の対価で取引をしたい。どうだろう、私の弟子として想真そうま装丁そうていに関する修行を始めてみないかい?」


 静かな表情のまま、目を瞬かせた東湖が首を傾げて尋ねる。


「一つお聞きしたいのですが。叔父様のいう趣味と実益って何を指しているのですか。レーベルのお仕事は、そのどちらでもないように聞こえます」


 自信をたたえた表情をわずかに硬直させると、少し居住まいを正してから先を続ける。


「世界のすべてを記した本。そんなものがあるとしたら、東湖は手に入れたいと思わないかな」

「思いません。そんな大層なものを置く場所なんてありませんし」


 にべもなく切り捨てる様に、しかし護洞は真剣な面持ちを崩さない。


「ではそれを、他の誰かが手にいれてしまうとしたらどうだろう。それが自分とは相いれない思想を持った人物だとしたら? 世の中には悪人は多い。悪人の手に渡る可能性も高いと思うんだ」

「ばかばかしい」

「……は?」


 護洞の雄弁を遮ったのは、丁寧の域を超えない程度に軽薄な、だがはっきりとわかる程度に鼻で笑い飛ばす一言だった。


「世界が思い通りにならないなんて当たり前のことです。相手が個人だろうと組織だろうと、抗う意味があるなら抗う。適応する利があるなら適応する。それだけのことでしょう?」


 淡々としながら熱を隠し切れない、どうにも青い内容と態度とその相乗効果に、護洞が言葉を挟めぬうちに次の攻撃が始まる。


「大体そんな本を手に入れてどうするんですか。世界なんて箱庭、大きすぎてどこに何があるか探すのだって大変だし、手を加えたらどこに何が波及するかなんて予測もつかないし。それに変化なんてあって当たり前。ある方が自然で大歓迎で、第一その方が面白いに決まっています」


 ふんす、と思わず荒く発しかけた息を押さえて言葉が途切れたところに、やっと護洞が口を挟んだ。


「何をするかわからない相手より先に確保しておくことに、意味はないかな?」

「使わないのに手に入れるための労力とか、無駄以外の何物でもないです。それに実力行使に対して有効なのは、友好的に構えながらの専守防衛ですよ」


 思わずといった感じで口を閉じてしまった護洞に気付き、東湖は口調をわずかに改めた。


「第一、私はまだ中学生です。想像力なんて曖昧な代物、人生の酸いも甘いも実際に体験してからでないとろくに取り扱えないと思いますよ?」

「そこはほら、ここまで高度に情報化が進んでるんだからね。いくらでもビッグデータにアクセスして利用でもなんでも」


 瞬間、場の雰囲気が急冷した。護洞の唇が凍り付いたように固まり、見開いた視線まで動かせない。


「それはつまり。私の人生から、体験を奪うつもりですか? 修行だなんだと称して、唯一私だけが知ることができる経験楽しみを? ……あなたは私にとって紛れもなく。たった今から、ただの敵です」


 毛を逆立てた子猫をあやそうとして尻尾を踏みにじった、それは間違いなく護洞の失策だった。手負いの雌虎を想定してもまだ足りない、若さゆえの、捨て身に気付きもしない、渾身の一撃。

 護洞の情動は一度凍り付き、狙いすまされたように余さずえぐり取られたらしい。疲れと後悔以外の負の感情は抜け落ち、気恥ずかしそうにまぶしそうに、東湖から目をそらした。


「はは。私は本当に小さい。敵と断じられるのもつらいけど、叔父様と呼んでもらえないことだけでこんなにこたえるなんてね。ほんと、悪役に向いてないよね」

「十二分に悪役です。そしてとんでもなく悪辣です」


 怒気はひそめながらも素っ気ない態度を崩さない東湖に、護洞は両手を合わせて拝むようにおもねった。


「ごめん、悪かった。だからこれ以上は勘弁して? いや実際真面目に、本気でさ」

「では2度と、私の自由意思に反するような勧誘はしないでくださいね。……でも」


 東湖がふと唇に人差し指を当てると、護洞は思わず後ずさる。それを意に介さずに、東湖は小さく困ったように微笑んだ。


「海外小説の翻訳作業、というのには少し興味があります。その志向が変わらず高校生、いえ、大学に通うようになったら、バイトとかしてみたいな、なんて」

「いいとも! そんなの、もう大歓迎さ! 何なら正社員になる? 今から枠を準備しておくけど」

「それは気が早すぎますよ」


 思わずこぼれた笑みに、護洞は両手をついて、軽く頭を下げた。


「じゃあこれで仲直りってことでいいかな。……また叔父様って呼んでくれるかい?」

「しょうがないですね、護洞叔父様は」


 無精無精うなづいたところで空気がわずかに弛緩したが、東湖はふと動きを止めて、唇の端を微妙な角度に引き絞った。


「呼び名については、それとして。でも私、先ほど叔父様に脅されましたよね。家に帰ったら、姉に泣きついてしまうかもしれませんね」


 油の切れたブリキ人形のような、感情が抜け落ちた顔をきしませながら、東湖を見やる。


「……この場で起こったことは内密にと、最初に誓ってくれたと思うのだけど?」

「事の次第を事細かに、いえ、大まかにでも漏らすつもりは毛頭ありません。でも例えば、あまりの精神的苦痛がトラウマとなって、しばらく体調を崩してしまうなんてこと、多分にありますよね?」


 うーあーと、護洞は冷や汗を垂らしながら、どうにも言葉が空回りさせている。


「その理由を姉に問い詰められたら、叔父様に責任があるってことになり兼ねません。……あら、別に泣き付く必要すらないみたいですね?」


 他人事のように笑い声を転がして見せる東湖に反して、既に護洞の顔は真っ青だ。幻視した何事かの想像に飛び跳ねるように身をこわばらせると、何事か口に出そうとしたところで東湖の横槍が突き刺さった。


「そうですね。ミスリル銀の腕輪で手を打ちましょう」


 護洞の瞳が一瞬揺らいだ。つかんだ蜘蛛の糸が儚く千切れたような、絶望を通り越して一周したかのように、間の抜けた笑顔をさらしてしまう。


「分かっていると思いますけど、この世に存在しない架空金属を錬成しろと言っているわけでも、それに代わるようなアクセサリーを用意しろと言っているわけでもありませんよ?」

「〈細工師〉シリーズ1作目に出てくる、女王が最初に作り出す細工のことだろう? つまりレーベルで翻訳を出して、それを見に行けるようにしろということだよね」

「別に、新作でも構いませんよ?」


 いやそれはと、護洞は今度こそ言葉を失った。世界的に有名な著作者に向かって新作に取り掛からせ、あまつさえ特定キーアイテムを出してほしいとねじ込めと?

 だがその落ちるところまで落とすショックこそが、復旧の鍵ではあったらしい。そう時間も掛けずにフリーズから立ち直ってみれば、東湖は機嫌を直したように柔らかな笑みを浮かべていた。


「叔父様はどうにもならない心配事ばかり抱えているようです。だから余計なことを考える暇がないくらい、まずは動いてみることをお勧めします。……返答次第で私が受けたトラウマはすっかり消滅すると思いますけど、どうします?」

「分かった。鋭意努力する。進展があり次第連絡をするよ」

「進展なんて、なくても連絡くださいね。そして素敵な体験を、いっぱい自慢してください。お待ちしていますよ?」


 どこまでもまじめな表情を作り、何度も念を押しながら。それでも東湖は徹頭徹尾軽やかに、その身をひるがえして護洞の目の前から消えていった。あとに残された護洞は、頭を抱えながらもさっぱりした様子で笑い出している。


「いやはや、ほんとかなわないな。変化はまだごめんだけど、成長を目の当たりにするのはちょっと心が晴れやかになるかな。……でもあれで2年前までランドセル背負ってたとか反則だよな」


 護洞は胸ポケットから、黒革にやたら型押しのされた、中央にサファイアの象眼された手帳を取り出すと。3年後が楽しみだとつぶやきながら、メモするかのように予定を書き換えた。

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想真の装丁 機月 @lunargadget

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