第3話

 光の当たった半径10メートルくらいの空間にはマホガニーの机がぽつんと置かれている。そこには折り目正しいシャツにベストを着た男が、軽薄な身なりに似合わぬ真剣な態度で書類に向かっていた。背中でくくった以外伸ばしっぱなしの髪を時折かきあげながらも、インク壺に付ける以外、ガチョウの羽ペンはよどみなく動き続ける。

 こつり、と小さく鳴った床音に手を止める。ちょうど明かりと闇との境界線に、きれいに磨かれたローファーが踏み込んできたところだった。


「東湖かい? うんうん、随分美人さんになったようだね。入学式の写真はもらったんだけど、ずっと直接おめでとうって言いたかったんだ」

「別に気にしていないので大丈夫です」


 屈託なく眉根を下げる護洞とは対照的に、東湖は冷たく静かな言葉を紡いだ。


「それよりも、まず聞かせてください。護洞叔父様は、自分の意志でここから出られますか?」

「うん? それはもう、間違いなく、問題なく」


 不思議そうな護洞に対して、東湖は心持ち少し大きめに息をはき、そのまま小さく咳をしてからおもむろに問い詰める。


「そうですか。では頂いた本を普通に読みたいのですが、しおりとクリップを抜き差ししても大丈夫ですか?」

「待って待って! ……東湖はなんでそんなに冷静なの? そもそも本に入るなんて体験をしたら、その仕組みとか理屈とか、まずそういうこと気になるんじゃないの?」


 笑いを浮かべながらも困惑する護洞に対して、東湖は腕を組んでから爪先で軽く床を打つ。


「理屈とか理由は後回しです。最初に確保すべきは実用に耐えうるだけの安全性。原因の追及はその後で十分です」

「なるほど。〈凍る湖〉の本領発揮といったところだね」


 あっさりと納得した相手に向かって、東湖は眉を跳ね上げ、その声音を冷ややかに下げた。


「護洞叔父様。いただいたものですもの、本は自由にしていいのですよね? 私が使うに値しないと判断した場合、明日にでも姉や母が勝手にかぎつけると思うのですが」

「ごめん、こちらが悪かった。聞きたいことには嘘偽りなく答える。だからこの場のことは、他言無用で頼むよ」


 即座に両手を挙げて白旗のように羽ペンを掲げると、インクが飛ばぬようにペン立てへ戻し、聞く姿勢を整え、ついでにお茶でも飲むかと手ぶりだけで尋ねた。東湖が軽く首を振ると、書類をまとめてわきに寄せて、机に両手を組む。


「その前に確認しておきたいのだけど。結局、東湖はどうやってここまで、いや、なぜここを選んだんだい?」


 机の片隅に設置されていた振り子の下からメモ用紙を取り出す。書かれたメモに目を通していた、その何気ない仕草が途中で止まる。対して東湖は、肩に入っていた力が抜けるに任せた後は、淡々と言葉を続けるだけだ。


「最初のページ、麦畑から帰ってきたあとリビングが土で汚れたの見て、これは映像を再生するだけの仕掛けじゃないなと思ったの」


 護洞の頬がピクリとひきつるが、うなづいただけで口は挟まない。


「手紙も思わせぶりだし、本物の叔父様が本の中にいるかもしれない。なら直接会うにはどこに行けばいいか。最初はページを追って、叔父様そっくりの王様を探そうと思ったの。でもしおりが挟まったままの本は文章を普通に読むということが出来なくて、なら同じ本を用意しようと思ったけど、発売どころかその噂すらなくて」


 ここまでで2時間というところ、と平坦すぎる声で東湖が告げると、護洞は感心したように頷いた。


「うちの営業もやるもんだ。随分粘られて、それでも結局東湖の追及はかわした訳だ。身元も確認されたんだろう? これは査定アップな案件だね」

「私もそう思いました」


 愉快そうな突っ込みに丁寧に同意を返しつつ、東湖は結論を告げる。


「だからね、〈奥付〉を開くことにしたの。書誌情報に訳者とか監修者の名前が載ってるし、そもそもレーベル責任者として発行者には必ず叔父様の名前が載るはずだから。レーベルで汎用フォーマットが徹底されていることは聞いたし、近所の本屋で既刊で実物を確認したし、仮に叔父様がいなくても、何か起こる可能性は薄いかなって」

「僕としては〈あとがき〉で会うつもりだったから、そっちにいろいろ用意をしていたんだけど」

「ラスト付近のページを当てずっぽうに開くなんて怖いでしょう? ラスボスとの戦闘はなさそうな雰囲気だったし、既刊情報とかコンテストページもないって聞いてたけど。仮にあったとして、何がどうなるか予測もできないところに入り込んだりしたくないもの」


 穏やかすぎる自然体からは、恐怖や未知に対する畏怖は一切感じ取れない。だから説得力はないんだけど、と声を出さずにつぶやきながら、護洞はこらえきれずに吹き出してしまった。


「実に合理的な回答だ。合格どころじゃない、近年まれにみる逸材としか言いようがないね」


 口元を覆いながら断り、何やら書類の山を改めだした護洞に対して、しばらくそれを黙っていた東湖も唇を湿らせてから口火を切った。


「そろそろいいですか? 〈これ〉は、私が自由に取り扱える程度には安全ですか?」

「お祝いだからね、そこはきちんと気を使ったよ? 何重にもプロテクトは掛けてあるし、初見で危ないシーンには飛べないように物理的に封印もしておいたし」


 行を指し示せるダーツ型のペーパークリップを取り出して見せながら、カチカチと打ち合わせて弄びながら続ける。


「そもそもね。これは私が継承した〈想真そうま装丁そうてい〉っていう、簡単に言うと、特殊なしおりを媒介に、利用者を本ごと、利用者自身の想像力で包み込む、というものなんだけどね。だから想像力が足りない人には発現すらしないし、自分や世界を傷つけるようなことは、自身の想像力において許されない」

「不慮の事故はどうですか?」

「何か起こる前に〈装丁〉が解けるとも。それに今回はさらにセーフモードで起動するようにしておいたからね。臨場感は格段に落ちるけど、その分せいぜい4DXの映画程度も影響はなかったはずさ」


 護洞が取り出したしおりは手のひらに載るほどのサイズで、格子状の枠の両面に薄手の紙のようなものが張り付けられている。小さな障子といった風情だが、手触りは紙というより革のような滑らかさで、さらにコピー用紙よりも薄いくせに鉄定規ほどもしならない。

 そのうえ細かな文字がびっしりと書かれているのに、何が書いているのか頭の中に入って来ない。そうしているうちにいくつかの単語が、その奥にイメージとなって浮かび上がる。


「1シーン30分制限、書き換え禁止、透明な傍観者。これって、本の中で王様に会っても話はできなかったっていうこと?」


 硬度と凍度を増す視線にも、護洞は軽く笑いかけて肩をすくめるのみ。だがふと何かに気付いたようにしおりを確かめ、恐る恐ると護洞に尋ねる。


「もしかして叔父様のところって校正に、ううん、執筆自体にもこのしおりを使っているの? だからあんなに描写力に定評があるの?」

「製本前の本には入れないから、それは外れ。でも今後は忙しくなるし、十二分に活用していこうと考えている、が正確なところかな。……しおりに条件を追加すれば、想像の範囲であれば、時間とか空間も操作できるからね」


 護洞があっけらかんと言い放つと、東湖は目を見開き、そしてすぐに意図を見抜いたようににらみつけた。


「つまり叔父様はここに引きこもって効率的に仕事を片付けたいけれど、レーベル責任者としてはそうもいっていられない。外部との接触は遮断したいけれど、連絡手段も用意しておきたい。だから私に適性があるか試してみたと?」


「もちろん違うさ。仕事のためだけだなんてもったいない!」


 今度こそいい笑顔で言い切った護洞に、東湖は片手で顔を覆って嘆き果てた。

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