第2話

 10人掛けのダイニングテーブルのお誕生日席には、小さなトートバッグ、コンパクトなボディバッグ、そして災害持出用と書かれたオリーブドラブの頑丈そうなナップザックが並べられていた。

 トートの中身をいったん取り出すと、財布に定期といった貴重品、ハンカチティッシュに絆創膏、そして実用的なボールペンとメモ帳を一つ一つ確認しながら詰め直す。ボディバッグも同じように小型の液晶タブレット、ワイヤレスのキーボード、あとは充電器やケーブルといったデジタルガジェットひと揃いを確かめ、最後のナップザックは消費期限があと1年あることだけ確認して、テーブルに戻す。

 東湖はそこで手を止めると、物置から小さなドライバーが並んでいるトランプサイズの工具セットを持ってきて、ボディバッグのポケットに詰め込んだ。


「地図とコンパスは、とりあえずスマホで代用で。目的地が近所でないなら、本屋に寄ってから電車かクロスバイクで移動っと。うん、準備完了」


 携帯マグから熱くて甘い紅茶を一口飲むと、それも荷物の隣に並べて、東湖はやっと本を手に取った。封緘の糊付け位置を探し、何故か見つからないので表紙の縁の部分に慎重にハサミを入れる。封緘もテーブルに並べてからハサミを置くと、何の気負いもなく表紙をめくった。

 ページの上部を挟むクリップごと、10ページくらいの本文が一緒に捲られる。挿絵のない、標準的な1段組の文字が並んでいる、変哲もないページ。

 東湖はその蒼氷の瞳をすがめ、いったん天井にそらし、3度瞬いてから戻す。


「文字だけのページ、よね」


 文字の奥に何やら黄金の輝きが、否、実りを迎えた麦穂が風に吹かれて揺れている。

 日本語が書かれたページに違いない。それなのに、文字を追っていても内容が全く理解できず、その後ろに透けて佇む、収穫を待つばかりの小麦の大草原の存在感と奥行きが増していくばかり。東湖は気が付くと窓枠から押し出されたように前のめって、一度だけ目をつむった。


 最初の違和感は、風だった。フィルターやファンを通して温度や湿度を調整したものではない、何か濃密な荒々しさに溢れた、大地の息吹。

 我に返ると、東湖はわさわさと音を立てて揺れる麦穂に紛れて、畑のど真ん中に佇んでいた。手にはサイズだけは変わらない黒い本。黒革にやたら型押し紋様が施され、中央には内に星を浮かべたようなサファイアまでが象眼されていて、まるで魔導書のような存在感を放っている。

 東湖の格好は変わらない。かろうじてひざ丈のジャンパースカートに、オーバーニーソックス。畑の土はふかふかで、わずかに足元が沈んでいる。

 再度、麦穂を優しくたわめる風が東湖の髪を揺した。顔に落ちた横髪をそっと耳にかきあげながら、その場でゆっくりと全方位を見渡す。蒼穹の空、やや傾きながらも白熱する太陽。遠方には雪を被った霊峰と、あるいはきらめく水面は海か湖か。


「スリッパ…… いや、履いてない方が良かったかな」


 ポケットからスマホを取り出すと、おもむろに風景をパシャリと1枚。本を構えて自撮りを1枚。ゆっくり画面を見ながら1分ほど待つと、そのまま手に持っていた黒い本を開く。

 今度は何の負荷もなく、東湖は荷物を準備していたダイニングの前で、閉じた〈細工の女王、はちみつと出会う〉を持ったまま佇んでいた。取り出したスマホには2枚の写真が残っていて、その時刻はダイニングにある常に正確無比な壁掛け時計と秒針まで一致している。極めつけは、わずかに湿った土で黒ずんでいる足元だ。

 持ち上げた足指を動かすと、フローリングにぽろぽろと土がこぼれる。東湖は詰めていた息を、そっとこぼした。


「本型に偽装したデバイスの、VR没入型RPGだったとしてもさ。機密漏洩で抹消されるレベルだと思うんだよね。それを軽々飛び越えてるんですけど」


 手元の本は、ごく普通のありきたりの本に戻っていた。表紙の絵は変わらずそのまま、裏側もありきたりな、簡単な紹介文に、バーコードとISBN番号が振られている。定価1200円税別。本の上部にはいくつかクリップのようなブックマークが挟まっていて、自然と選ばれた数か所が開くようになっているようだ。

 東湖はもう一度便せんを読み直し、軽く腕を組んだ。


「一応、メールは送っておくとして。直接会いたいってことなら、本の中で待ってるんじゃないかな。この王様っぽい人、護洞叔父さんそっくりだし」


 東湖はスマホに写真を表示させて、ランドセルを背負った東湖と一緒に写る青年と比べてみる。目の色顔形はもちろん、幾分眠たげに緩めている表情すら瓜二つといってよい。

 随分色素の薄い亜麻色の髪は幾分長めのくせ毛で、どちらも後ろ髪は肩のあたりで一つにまとめて後ろに流している。王様の方は王冠に毛皮の縁取りが付いたマントを着けているが、その下のシンプルな白いシャツに黒のベスト、ツールエプロンのような前掛けをしているところまで、流石に色形や素材は違うが、趣味主張はほぼ同じ。そして極めつけは、王様のポケットで揺れている水琴鈴付きの組みひも。京都旅行のお土産に送ったストラップにそっくりだ。


「……深読みしすぎかな」


 腕組みを解くと、東湖はノートを広げて中央に「本の中で人探し」と大書きして丸で囲む。そこから線を引いて方法、時間、持ち込み持ち出し、クリア条件と4つの単語を書くと、さらにその周りに箇条書きを足していく。


「〈細工師〉の本位貨幣はミスリル銀、とかは後回しで。うん、やっぱりネックは時間だよね」


 ぐりぐりと赤ペンで囲みながら、書き出した条件を添削していく。


「主人公さえ捕まれば、王様に会えるのは間違いない。でも王女どころか人っ子一人いない、辺り一面麦畑。マウンテンバイク持ち込むとしても、明日も学校あるし」


 何が分かれば解決するんだろう。東湖のつぶやきに、かちりと歯車がはまる音が重なった。見かけはアナログだが中身は薄型デジタルの、壁掛け時計から15時を告げる鐘の音が鳴り響く。


「そっか。でもそれなら、このレーベルの本を探すのが早いのかな。もう新刊として、店には無理でも製本された実物はあるかもしれないし」


 本屋の前にネット、レーベルサイト、など一通りつぶやき終えると。足を踏み出しかけてたたらを踏むと、まずはするりとニーソを丸めながら抜き取ってから洗面所へと駆け出した。

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