苫利隆太の辞書に、『素直』の文字はない

 廃部ね。

 そう言って、千帆ちほは斜め下に視線を落とした。彼女の側には本が積まれている。バーコードのシールが貼られた本はこの学校の図書室所蔵のもので、推理小説の古典的名作から最新のエッセイまで、種類年代はバラバラだった。


 その一番上にある本の表紙を撫でながら、千帆は少し物憂げな声で呟いた。

「誰か、入部してくれれば良いのですが」

 庇護欲をそそられるような仕草に、隆太は思わず息をのんだ。


 だが、隆太はもう態勢を立て直していた。言うべき言葉を、当たり障りのない単語を、瞬時に組み立てる。

「それは大変だね。俺の友達にも、紹介してみるよ」

 できるだけ自然な笑顔で微笑みかける隆太りゅうたに対して、千帆は少し驚いたように目を見開いた。

「あら、驚きました」

「何が?」

「今まで私がこう言うと、男子はみんな『じゃあ僕が入部しようか』と持ちかけてきたので」

 息が詰まらせる隆太を見て、千帆は見定めるように目を細めた。

「あなたもそうなのかなと思っていました」


 私目当てでしょ。

 彼女の言葉の裏には、そんなことが隠されている。隆太は、どれだけ自意識過剰なんだこの女と思ったが、彼女の伝説を思い出して、一人で腑に落ちた。


波木野はぎの千帆の百人斬り』と言えば、東高生なら誰もが知っている話だ。


 入学早々、彼女は目立っていた。

 その優れた容姿に加え、主席入学者。

 すごい一年がいるらしいと、学年問わず、半分以上の男子が彼女の所属する進学クラス『理数科』の教室まで足を運んだ。実際にその美貌にやられた男子生徒は多かったらしく、一週間後には告白ラッシュが始まっていた。


 だが、彼女はその全てに断りの返事を入れた。


 もちろん、実際に告白した人数が百人なのかは知らないし、多分そんなには多くないだろう。

 しかし、それを特段疑ったりしないほど、彼女は美しく、浮き世離れしている雰囲気を纏っているのだ。


 その後、『彼女は名家出身で金持ちらしい』とか『男子をこっぴどく振ることを楽しんでいるサディスト』などという、ウソかホントか分からない尾ひれを付けて、その伝説は語られるようになった。



 そんな学年一の美少女、波木野千帆が困っている。

 何か手伝えないかと提案するのは至って普通のことなのだろうなと隆太は思った。だが、一歩踏み込んでその後のことを考えてみると、どうなのだろう。


 波木野千帆にとっては、見知らぬ男子が鼻の下を伸ばしてやってくる訳だ。毎日。こんな狭い部屋で。やりにくいことこの上ないだろう。


 俺にとっては。あの波木野千帆と同じ部活に所属する。変なやっかみや面倒ごとに巻き込まれる危険がある。なんのメリットもない。


「俺は、色々忙しいから、そう言わなかっただけだよ」

 隆太は表情を崩さず、サラッと嘘を吐く。この一年間で極めた技だ。心理学の本なども読み込んで、仕草や表情でバレないように必死に練習した。今回も、それを発揮できたと隆太は心の中で安堵した。


 もちろん、部活も入っておらず、学級委員は時々ある雑務をこなすだけなので、忙しくはない。


 しかし、千帆は納得できないと言わんばかりに眉根を寄せた。

「変ですね。苫利とまりさんは部活に入ってないではずですが。何か他のことを始めたのですか?」


 そう言われた瞬間、隆太の身体から血の気がスッと引いていくのを感じた。なぜ俺が部活に部活に入っていないのを知っている。


 いやそもそも。何で彼女は俺の名前を最初から知っていたのか。

 隆太は、さっきから胸の奥で燻っていた違和感がなんなのかやっと気がついた。

 始めてこの教室に入ったときに、彼女は自分の名前を呼んだのだ。


「ええっと、別にそういう訳じゃないけど……」

 とりあえずそう答えたが、湧き上がってくる疑問は消えなかった。


 彼女とは一切面識がない。俺は『普通』を標榜して生きてきたような男だ。容姿も普通、学力は少し下。神に誓って目立っているとは言わない平凡な一生徒である。


 そんな彼女が、なぜ。頭から溢れ出しそうな疑問の連鎖に、隆太は飲み込まれそうになった。ダメだ。考えててもキリがない。


 話したことも、関わった事もないことだけは確かだ。なら、直接聞いても大丈夫だろう。そう割り切って、隆太は訊いてみる。

「なんで俺の名前とか知ってるんだ?」

 その質問に、千帆は少し呆れたように答える。

「学年全員の名前と部活名くらいは覚えていますよ」

 隆太は心の中で舌を巻いた。自分なんて、クラスの中でさえ名前が怪しい人がいるというのに。


「すごい記憶力だな」

「別に、このくらい造作もないです」

 千帆は澄ました顔をしていたが、「あっ」と何かに気付いたかのように声をあげた。

「すみません、調査票を届けてもらうついでに時間を使わせてしまって。この部のことは、苫利さんには関係のない話ですので、気遣いはして頂かなくて結構です。ありがとうございました」


 すらすらと喋り終えると、千帆は三つ指をついて綺麗に座礼をした。反射的に、隆太も頭を下げてしまう。

「あ、じゃあ、俺はこれで」

「はい。本当にありがとうございました」


 隆太は素早く反転し、教室を出て行く。

 この部屋は、普通の引戸ではなく開き戸なので、閉めるときに振り返る必要はない。

 だが、隆太は扉が閉まる直前、教室の中を一瞬振り返った。

 波木野千帆は、側の本山に手をかけようとしていた。『読書部』の名前に違わず、部員は読書好きらしい。隆太はそう思い、静かに扉を閉めた。


 ともあれ、嘘が露見しなくて良かった。

 最大の安心点はそこだが、仕事自体はまだ終わっていない。承諾、遂行、報告。これが仕事における一連の流れである。依頼主である安倉あくら先生に、任務達成の報告をするまでは帰れない。


 ちらりと腕時計を確認する。バンドが茶革製で、文字板は紺をベースにした大人っぽい時計。父が、受験の時に時計が必要と知って、記念に買ってくれた物だ。

 最初は気に入って大切に扱っていたが、今では随所に擦り傷が目立つようになってしまった。だが、機能面では問題なく、正確な時間を示し続けてくれている。長針は、隆太が二担の前に到着してから5目盛り分進んでいた。


 ひょっとしたら、波木野はぎのさんと話している間に、雛賀ひながさんはもう帰ったのかもしれない。そもそも、雛賀さんは二担に来たのだろうか。そのまま帰ってもおかしくはない。わざわざ報告に戻るなんて、自分が神経質すぎるだけだったのではないか。


 だが、それでいい。大切なのは、自分よりも雛賀さんが早く帰ったという事実だ。もし逆なら、『苫利くんは女子を置いて先に帰るクズ野郎だ』という噂が広まってしまうかも知れない。それだけは避けないと。


 隆太は、ふぅっと一息ついてから二担に入っていく。そして呪文のように、お決まりのセリフを口ずさむ。

「二年七組苫利隆太、安倉先生に用があって来ました」


 安倉に視線を向けると、彼は雑誌を食い入るように読んでいた。『月刊 日本歴史』。隆太が二担を出て行く前に、安倉の机に置いてあるのを見た本だ。

 まさか、本当にこれを読みたいが為にお使いを頼んだとは。隆太は半ば呆れながら、安倉に話しかけた。

「先生、渡してきました」

 安倉は、読んでいた雑誌からこちらに顔を向けると、「おぉ」と言って本を閉じた。

「ご苦労さん。雛賀は一緒じゃないのか」

「はい、来てませんか?」

「あぁ。まぁ、別に来てくれなくてもいいけどな。ちゃんと渡してくれれば」


 沈黙。やはり教師と一対一というのは、気まずいことこの上ない。安倉はそんな事を微塵も感じていないのか、左手でマグカップを持ち上げ、コーヒーを啜っている。

 もう帰っていいのだろうか。隆太がそう思い始めたとき、安倉はおもむろに口を開いた。

「波木野、何か言ってたか?」

「何かって、なんですか?」

「何かは、何かだよ」


 何だこの会話。この人は俺が無言でプリントを渡して無言で帰ってきたと思っているのだろうか。隆太は一から会話を再現してやろうかと思ったが、そんなことはしない。


「確か、廃部になるとか言っていました」

「やっぱそれだよなぁ」

 安倉はガシガシと頭をかいた。無造作に見えてきちんと撫でつけられた髪が、みるみるうちに乱れていく。よく見れば、所々に白髪がある。安倉の歳は知らないが、恐らく四十後半から五十前半くらいだ。自分がこの歳になった時、果たしてこんな立派な仕事に就けているだろうか。


 一抹の不安が頭をよぎると同時に、安倉が口を開いた。

「なぁ、苫利。一つ頼みたいことがあるんだが。いいか?」


 あ、これ嫌な予感がするぞ。

 隆太は直感的にそう思ったが、嫌ですとは言えなかった。なので、ひとまず続きを促すしか選択肢はない。隆太としては、その直感が外れることを祈るだけだ。

「はい、何でしょうか?」

「頼む、読書部に入ってくれないか。活動が嫌なら、籍を置いておくだけで構わないから」


 結果として、隆太の予想は当たってしまった。隆太の目の下の筋肉がぴくりと痙攣する。


 何とかして、話を自然に入部しない方向に持って行けないだろうか。

 半端な嘘は通用しそうにない。なにせ担任だ。細かい情報は、恐らく前担任から受け渡されているだろう。

 適当な事を口走って、のちにそれがバレてしまった場合、俺の信用は地に落ちてしまう。そうすれば、後は堕ちていくだけだ。


 信用は積み上げるはかたき、落ちるはやすし。


 結局、そんな便利な理由は見つからず、隆太は心の中で項垂うなだれながら妥協案を提示した。

「分かりました。本当に籍を置いておくだけでいいなら、ですが」

 隆太がそう言うと、すっと安倉の眉が上がった。左手のマグカップの中で、コーヒーが激しく波打っている。

「本当か!いやぁ助かった。これで読書部は廃部を回避したよ」


 勝手な人だ。そう隆太は心の中で毒づいた。こっちの心の中は見えなくとも、それを察してくれるのが、いい大人なのではないか。

 表情を意図的に隠している事を棚に上げて、隆太は批判した。まさか本音を隠して生活することで、こんな弊害が発生するとは。


 そんな隆太の内心なんて知ったことではないと言わんばかりに、安倉は笑いながら言った。

「じゃあ、とりあえず挨拶に行こうか」

 思いがけない言葉に、隆太は面食らった。

「え、どこに行くんですか」

「決まってるだろ。読書部の部室だよ」



 半ば強引に引き戻されてきた形だが、本日二回目の読書部訪問だ。

 渡り廊下を進んでいる間、隆太は思考を重ねていた。


 周りの人間に読書部に入っていることがバレたら。そもそも、バレることがあるのだろうか。

 誰々が何々部に入部したらしい。そんな情報が出回るほど、学校は情報通で溢れかえっている訳ではない。それに籍を置いておくだけだ。学校のデータベースに進入するほどのハッカーがいない限り、バレることはないのではないだろう。無論、波木野が言えば一発アウトだが。


 もしバレたら、なんて思われるだろう。『あいつは波木野千帆おんな目当てで入部したに違いない』間違いなくこうだ。入学当初から読書部ならまだしも、二年生からって。もう波木野それ目当てだとしか思われないだろう。


 まぁ、バレなければいいんだ。そう腹を括ったところで、第五演習室の前に到着する。


 安倉はノックすることもなく、扉を開けた。

「波木野ー、入るぞー」


 彼女は、まるで彫刻のように一寸変わらない姿勢で、座って読書していた。


 ずっと正座してて痺れないんですか。湧いてくる疑問を、喉で堰き止める。そして、何でもない風に笑顔の仮面を貼り付けた。

 本に向けられていた千帆の視線が、ぐいっと持ち上げられて安倉を捉える。黒くて大きな彼女の瞳は、吸い込まれそうなくらい深い夜闇色だ。


 隆太が、それを綺麗だなと思った束の間に、千帆の眉根に皺が寄った。

「安倉先生、ノックという動作を忘れたのでしたら、おすすめの本がありますよ。『素人が学ぶ マナー講座』、今の先生にぴったりですね」

 千帆の、さっきの怒ったような表情は一瞬で笑顔に変わったが、こうも露骨だと「皮肉です」と直接言っているようなものだ。隆太は呆気にとられて動けなかった。


 だが、安倉はそれに慣れているのか手をひらひらと振って受け流し、窓際の、畳の横に置いてある椅子に腰掛けると、内ポケットから煙草とライターを取り出した。セブンスターだ。


 まさか、ここで吸うのか。校内は、全面禁煙だ。


 ダメですよ。言いそうになった言葉を、隆太はぐっと飲み込んだ。


 別に、安倉の喫煙が見つかった所で自分には何の害もない。

 逆だったら保護責任がー、などと言われるだろうが、この人は教諭で自分は生徒だ。この絶対的上下関係がある限り、自分に責任が課せられることはないだろう。


 対して喫煙を諫めたなら。安倉の気分を害してしまうだろう。


 だったら何も言わないのが得策だ。


 隆太は一瞬でこう考え、静観することにした。安倉が箱から煙草を取り出し、口に咥える動きを黙って見つめる。


 まさに火をつけようとした瞬間、千帆が安倉を睨みつけながら口を開いた。

「先生、煙草は控えて下さい」

 まぁ、これが普通の反応だろう。隆太はそう思うと同時に、正直なやつだなとも思った。

 千帆の非難の言葉に対し、安倉は左手で煙草を口から離した。そしてそれをクルクルと弄ぶ。千帆は言葉を続けた。

「本に匂いが付いたらどうするんですか」


 いやそっちかよ。


 どうやら安倉も同じことを思ったらしく、クルクルと回していた煙草を止めて、苦笑いした。

「そんなに本が大切なのか」

「大切です」

 すんと鼻を鳴らし、再度目に力を込めた千帆に、安倉が問いかける。


「あのな。これ、どこが売ってると思う?」

「……JTですか?」

「そうだな。前身は日本専売公社、公共企業だ。国が売り出し始めた物なのに、公共施設である学校で吸うことが禁止された。おかしくないか?」


 ぐっと言葉を詰まらせる千帆に対し、チャンスとみたのか安倉がたたみ掛ける。

「そもそも、法や決まりの真髄は公共の福祉じゃないのか?他人に迷惑をかけない為に、規律を作るってことだ。煙が中に入らないようにすれば良いだろ?だったら、煙草の匂いが付くこともない」


 一気にそう言うと、反論しようとした千帆が口を開けようとする。

 それに右手を突きつけて制すると、安倉は言葉を続けた。

「幸いにも、今日は南風だ。ドアと窓を開けていれば、煙が中に入ってくることはない」


 千帆はまだ何か言いたげだったが、やがて諦めたように首を振ってため息をついた。そして目頭を指で押さえると、

「なら良いです。好きにしてください」

 そう、呆れた様子で告げた。


 安倉は満足気に頷くと、視線を隆太に向けた。

「じゃあ苫利。ドア開けて外を見張っててくれ」

 やっぱりここで吸うのに罪悪感はあるんじゃないか。隆太はそう思いつつも口には出さず、黙ってそれに従う。


 さっきのは屁理屈だ。『深夜の信号は無視しても大丈夫』理論と同じではないか。

 隆太は二人に背を向けて演習室を出てから、苦々しい表情で小さくため息をついた。



 話は、ようやくここにいる異分子的な存在、すなわち苫利隆太へと移る。

「それで、なぜ苫利君がここにいるんですか?」

 当の本人は部屋の外で人通りを見張っているため、室内の様子は分からないが、声は聞こえるのでそれを拾っていた。


 すでに放課からかなりの時間が経っているので、部活は始まっているし、帰宅部生はとっくに帰宅している。

 職員室や大きな実験教室が入っている特別棟は、部室として使用できる教室は少ない。


 よって、人通りもほぼ皆無だった。

 たまに誰かが通りかかった時は後ろ手でドアを閉める。簡単な仕事で退屈だった。

 隆太は、与えられた仕事から、意識だけをいくらか第5演習室の中に割いた。


「なんでって、苫利が読書部に入ったからだが」

「話が唐突すぎて、意味が分からないのですが」

「さっき承諾をもらってな。波木野も、この部の現状が分かってるだろ?」

「ですが、彼はさっき入部しないと言いました。先生が無理に言いくるめたんじゃないんですか」

「入部しないって、本当か苫利」

「はい」


 ここの向かいにある教室は、窓が開けられていた。そこから風に流されて、白いカーテンがヒラヒラと外側に揺れている。

 その隙間から少し見えるのは、楽器を携えた複数の女子生徒だ。

 木管か金管かでしか楽器を見分けられない隆太にとって、あれは何なのかは分からない。ただ縦に長い木管楽器なのだということは判別できた。

 休憩中なのだろう。演奏はしておらず、楽器を持ったまま、話に花を咲かせている。


 自分にとって、部活とは何なのだろう。ああやって、楽しくこなせるものなのだろうか。

 そう思うのと、さっきの自分の発言を意識するのは同時だった。


「すみません、今なんと言いましたか?」

 隆太はそう言って振り返ると、微笑んでいる千帆と目が合った。


 まずい。生返事をしてしまった。今自分は何を訊かれて「はい」と答えたのだろうか。隆太の手の平に、うっすら汗がにじんだ。なのに、身体は急速に冷えていく。嫌な汗が、背筋を撫で落ちていった。


 千帆が、ゆっくりと口を開く。その目の奥に宿る糾弾の意思を、隆太は確かに読み取った。

「苫利君、あなたの『嘘』で作られた化けの皮が、剥がれてきていますね」

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読書部に、ティータイムはない 緒川 公平 @o_akipool

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