第14話
僕が慌てて階段を下りて一階の駐車場に向かうと、既に明日香さんが、車のエンジンをかけて運転席に座っていた。
明日香さんが、早く助手席に乗れと、手で合図をしている。
明日香さんが、運転をするのか……。仕方がない。怒られる前に、早く乗ってしまおう。怒られるだけなら、まだいいけれど、最悪は置いてきぼりにされてしまう。
僕が慌てて車に乗り込むと同時に、明日香さんが車を急発進させた。
「ちょ、ちょっと、明日香さん! まだ、シートベルトを――」
僕は急いで、シートベルトを装着した。
以前も話したかもしれないが、明日香さんの運転は、かなり荒いのである。
もちろん、シートベルトはちゃんとしているし、信号や一時停止もちゃんと守っている(そんなのは、当たり前だが)。
だけど、制限速度ギリギリ(多分、越えてはいない――はずだ)で、走行車線と追い越し車線を行ったり来たりで(というのは、少し大げさだけど)、他の車を追い越して行く。明日香さんの運転技術は高いのかもしれないが、ここはレーシング場ではなく、あくまでも一般の道路である。
まあ、それでも明日香さんは、これまで無事故無違反を続けている。
皆さんは、くれぐれも安全運転を心がけてください。
「あ、明日香さん――どこに、行くんですか?(天国にだけは、まだ行きたくないものだ)」
「探偵事務所よ」
「――えっ??」
「さあ、着いたわよ」
探偵事務所に到着すると、僕達は車から降りた。
「はぁ……。怖かった……」
事故を起こす事もなく、無事に到着した。
「何? なんか言った?」
「い、いえ、何も――」
「行くわよ」
明日香さんは、探偵事務所のある、ビルの中へ入って行った。
僕達はドライブをして、明日香さんの探偵事務所に戻ってきた――わけでは、もちろんなく。
ここは、日向探偵事務所――
そう、明日菜ちゃんが、岬春奈さんを見掛けたという探偵事務所である。明日香さんの探偵事務所も古いけど、ここはもっと古そうだ。
「明日香さん、どうしてここに? 岬春奈さんが、何か事件に関係があるんですか?」
「それを、確かめに来たのよ――本当は、あんまり来たくないんだけれど」
「えっ? どういう意味ですか?」
明日香さんは、僕の質問には答えず、インターホンを押した。
「はい、どなた? 新聞なら、取りませんよ」
しばらくして、男性の声が聞こえた。
しかし、誰かも分からないのに、依頼人だとは思わずに、新聞の勧誘だと決め付けるのは、探偵としてどうなんだろうか?
「いえ、新聞の勧誘ではありません」
と、明日香さんは冷静に返した。
「それじゃあ、何の用? 何か依頼があるなら、別の探偵事務所に行った方がいいですよ」
なんだそれ? なんていう探偵事務所だ。やる気が、あるのか?
「――桜井です」
「――桜井?」
「ええ。桜井明日香です」
と、明日香さんが名乗った次の瞬間、ガチャッと音がしてドアが開いた。
「これはこれは。ようこそ、おいでくださいました。さあさあ、そんなところに突っ立っていたら寒いでしょう。早く、入ってください」
と、ニコニコしながら、男性が出てきた。さっきまでの態度とは、大違いだ。
この人が、日向という探偵のようだ。見た目は、40代前半くらいだろうか。
身長は175センチくらいで、少し太っている。
そして、日向さんは、僕の顔を見るなりこう言った。
「あっ、新聞の勧誘の人は、お帰りください」
「いやぁ、失礼しました。本当に、新聞の勧誘の人も来たのかと思ったもので」
と、日向さんは笑った。
「それにしても、明日香ちゃんに、こんな助手がいたなんてね。この2年間に、何があったの?」
こんな助手とはなんだ。いちいち失礼な人だな。
どうやら、明日香さんに会うのは、僕が助手になる前以来のようだが。
「日向さん。なれなれしく、明日香ちゃんと呼ばないでください」
と、明日香さんが言った。
どうやら明日香さんは、日向さんにあまり良い印象を持っていないみたいだ。それで、本当はあまり来たくなかったのだろう。
「2年振りに会うのに、冷たいなぁ――分かったよ、桜井さん。今日こうして来てくれたのは、やっぱり俺の事が恋しくなったんだね?」
「――恋しく?」
と、僕は呟いた。
「あれ? 聞いてないの? 俺は、明日香ちゃ――いや、桜井さんと付き合っているんだよ」
「…………。はい?」
い、今、何て言ったんだ、この人は?
明日香さんと、付き合っているだって?
そ、そ、そ、そんな馬鹿な……。明日香さんに、彼氏がいるなんて……。しかも、こんな軽薄そうなオッサンと……。
僕は、急に目の前が真っ暗になった。
ああ……。もう、この世の終わりだ……。
そんな時、急に明日香さんが怒り出した。
「ちょっと! 日向さん! いつ、私が日向さんと付き合ったんですか? 一回、食事をしただけじゃないですか! 変な事を、言わないでください!!」
「えっ? 食事をしたら、付き合っているっていう事じゃないの?」
と、日向さんは驚いている。
「本当に付き合っているなら、2年も会いに来ないわけがないでしょう!」
「だって、お礼だって、ネクタイをくれたじゃない。俺、まだ持っているよ。ほら」
と、日向さんは、机の引き出しからラッピングされたままのネクタイを取り出した――っていうか、ネクタイをどこにしまっているんだ? しかも、ラッピングされたままって。
もったいなくて、使えないのだろうか? 僕なら、喜んで使わせてもらうけど――まあ、ネクタイを締める機会なんて、全然ないのだが。
「それは、ごちそうしてもらったままじゃ、私も申し訳ないと思っただけです」
「またまたぁ。そんなに照れなくても、いいじゃない」
と、日向さんは笑った。
そんな日向さんに、明日香さんは反論する事を諦めたみたいだ。
「明宏君。本当に、日向さんとは、なんでもないから」
と、明日香さんは、僕に言った。
「は、はい」
どうして、僕に弁解するんだろう?
「あなた、坂井君でしたっけ?」
と、日向さんが、今度は僕に話し掛けてきた。
「はい。坂井明宏です」
「いやぁ、俺は、桜井さんと干支が同じでね。気が合うんだよ」
と、自慢気に言った。
「はぁ……、そうですか」
それに対して、僕は何と答えたらいいものやらと迷っていたが――えっ? 干支が、同じ?
つまり、それは、日向さんと明日香さんは、同い年か12の倍数だけ違うという事である。
日向さんの干支か年齢が分かれば、明日香さんの年齢が分かるかもしれない。
「因みに、俺の干支は――」
と、日向さんが言おうとした、その時――
「ちょっと! 日向さん! 私達は、そんな話をしに来たんじゃ、ありません!!」
と、明日香さんが、鬼の形相で話に割り込んだ。
「えっ? あっ……、はい。今日は、どういったご用件で?」
日向さんも、明日香さんの勢いに、押され気味だ。
「日向さん。あなた、岬春奈さんというモデルの女性を、ご存じではありませんか?」
「岬春奈さんですか? さあ、芸能人なら、もしかしたらテレビか何かで、見た事があるかもしれないけど」
「日向さんの依頼人の中に、いるんじゃないですか?」
「依頼人の中にねぇ……。さあ、どうだったかな。多分、いないと思うけど」
本当に、いないのだろうか?
「それでは、波崎成美さんという人なら、どうですか?」
「――波崎成美ねぇ……。知らないな」
一瞬、間が開いて、日向さんは首を横に振った。これは、本当は知っているんじゃないだろうか。
「本当ですか?」
「桜井さん。あなたも探偵だから分かるだろうけどさ、守秘義務があるからね。たとえ知っていたとしても、知っているとは言えないよ」
「そうですか――日向さん。久し振りに、お食事でもどうですか?」
と、明日香さんが、ニコッと微笑んだ。
「えっ!? いいの? よ、喜んで! さあ、さっそく行こう!」
日向さんは、とても嬉しそうだ。
しかし、次の瞬間、ハッと我に返ったのか、
「い、いや、ちょっと待って。それとこれとは、別問題だよ。危ない危ない。桜井さん、俺をそんな手に引っ掛かけようなんて、100年早いよ」
と、日向さんは笑った。おもいっきり、引っ掛かりそうだったじゃないか。
「日向さん。和久井亮二という人が殺害されたのは、ご存じですよね?」
「――ああ……、まあね。俺だって、ニュースくらい見るからね」
「波崎さんか岬さんが、和久井亮二の事を調べてほしいと、依頼に来たんじゃありませんか?」
「…………」
日向さんは、無言だった。
「もしかしたら、それで和久井は殺されたかもしれないんですよ」
と、僕は言った。
「なかなか、しつこいね君達も。そうだな――まあ、確かに、和久井亮二の事を調べてほしいと依頼に来た人はいたよ。だけど、誰に依頼されたのか、それだけは言えないよ」
「分かりました。それで、和久井亮二の何を調べたんですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「まあ、色々とね――そうだな、多分、君達も知っているんだろうけど。和久井は、ある男性を脅していたみたいだ」
「本多進一郎弁護士ですね」
「ああ、そうだ」
と、日向さんは頷いた。
「和久井の事を調べているうちに、和久井が本多の事を脅しているのが分かった。それで、更に詳しく調べると、先週の金曜日に、和久井が本多を公園に呼び出した事が分かったんだ」
「それを、依頼人に教えたんですね」
「――ああ、教えた。それを知って何をするのかは、俺も聞かなかったしな。当然、依頼人も何をするのかは、言わなかった」
「そうですか。分かりました。日向さん、ありがとうございました」
と、明日香さんは、頭を下げた。
「…………」
日向さんは、無言だった――
「それじゃあ、明宏君。行きましょうか」
僕達は、日向さんの事務所を後にした。
「明日香さん。あの、日向さんとは、どういう人なんですか? 何か、軽い感じの人でしたけど。優秀な、探偵なんですか?」
と、僕はハンドルを握りながら聞いた。帰りは、僕が運転をしていた。
「そうね――ああ見えても、探偵としての腕は一流よ。そうじゃなければ、あそこまで調べられないわ」
「それもそうですね」
和久井が、本多弁護士を脅していて、あの公園で会う時間まで調べていたのだ。三流の探偵では、あそこまで調べられないだろう。
「明日香さん。でも、どうして和久井は、本多弁護士が待っている時間に来なかったんでしょうか? 来なかったけど、そこで殺された――約束の時間よりも早く来て、既に殺されていたのか。それとも、約束の時間よりも遅く来て、殺されたのか。どちらにしても、どうして約束の時間通りではないのか――」
うーん……。僕の頭では、これが限界だ。後は、明日香さんに任せよう。
「鞘師警部ですか? 桜井です」
明日香さんは携帯電話を取り出すと、鞘師警部に電話を掛けた。
「ああ、明日香ちゃんか、どうした」
「鞘師警部に、調べてほしい事があるんですが」
「なんだい?」
「和久井亮二が、本多弁護士との約束の時間に来なかった理由です。もしかしたら、阿久津剛が何か聞いているかもしれません」
「ああ、その事か。私も気になって、阿久津に確かめようと思ったんだが、携帯電話の電源を切っているようで、まだ捕まらないんだ。おそらく、事件に係わるのが嫌で、電源を切っているんだろう。こっちも、迂闊だったよ。阿久津を、見張らせておけばよかったんだが。もしも、何か分かったら、こちらから連絡するよ」
「よろしくお願いします」
明日香さんは、電話を切った。
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