第13話

「明日香さん。追い出されちゃいましたね」

 と、僕は車を運転しながら、ため息をついた。

「木村さんを、怒らせてしまったわね。成美さんの、連絡先も聞けなかったわね」

 と、明日香さんも、がっかりしている。

「まさか、あんなに怒るなんて……。そんな人には、見えなかったんですけどね」

「明宏君。あなたの、せいでしょ」

 と、明日香さんは冷たく言い放った。

「僕の、せいですか?」

「そうよ。ただでさえ、信頼していた本多弁護士が殺人容疑で逮捕されてショックを受けていたところへ、波崎成美さんまで容疑者扱いされたんだから、怒りたくもなるわよ」

 いや、波崎成美さんを容疑者扱いしているのは、むしろ明日香さんの方だと思うのだけど――

 まあ、それを口に出したのは、僕の不注意だったか……。

「でも、クリスマスに、養護施設に来るんですよね? クリスマスに、また来てみれば、会えるんじゃないでしょうか?」

 これは、我ながらグッドアイデアだと思うのだが。

「クリスマスといっても、クリスマス当日かクリスマスイブか、どっちか分からないわよ。もしかしたら、23日かもしれないし。それに、木村さんのあの様子じゃあ、私達を中に入れてくれるとは思えないわよ」

「それじゃあ、鞘師警部に頼んでみましょうか?」

「いくら鞘師警部だって、何の証拠も無しに、無理やり入れないわよ」

 確かに、波崎成美さんが事件に関係している証拠は、今のところ何も無い。

「そうですね……。明日香さん。これから、どうしますか?」

「そうね……。一度、探偵事務所に帰りましょうか。それから考えるわ」

「分かりました」

 僕は、探偵事務所に向かって、車を走らせた。


 僕達は、探偵事務所に帰ってくると、ここまで分かっている事を整理してみる事にした。

 僕は、普段はあまり使っていないホワイトボードを、引っ張り出してきた。

「えっと、まずは被害者の名前が、和久井亮二ですね」

 僕は、ホワイトボードに、和久井の名前を書き込んだ。

「そして、関係者が――本多進一郎弁護士に岸本優子弁護士と、波崎成美さんですね。阿久津の名前も、一応書いておきますか?」

「明宏君に、任せるわ」

 と、明日香さんは、コーヒーを飲みながら言った。

「それじゃあ、書いておきますね。阿久津剛……、第一発見者っと。こんなところですかね。意外と、関係者は少ないですね」

 なんか寂しいな。だからといって、山本さんや藤田さんの名前を書いても仕方がないし。

「木村桜子さんの名前も、書いておきましょうか?」

 と、僕が書こうとすると、

「木村さんが、犯人とは思えないし、書かなくてもいいわよ。少ない方が、見やすいわ」

 と、明日香さんが言った。

「分かりました。それでは、和久井が殺されたのが、先週の金曜日の夜ですね。そして、深夜に和久井のアパートに遺体を運んで、ロープで吊るした」

 僕は、ホワイトボードに書き込んでいった。

「そして、容疑者として上がったのが、本多進一郎弁護士ですね。こちらは、岸本弁護士や近所の人の目撃証言などから、アリバイは崩れています」

「でも、本多弁護士本人は否定しているわ。公園で待っていたけど、和久井は来なかったって」

「それって、本当でしょうか? 本多弁護士が、嘘を付いているんじゃないでしょうか?」

「嘘を付くなら、もっとましな嘘を付きそうなものだけど」

 確かに、そうかもしれない。弁護士なら、もっといい嘘が思い付きそうな気もするが――

「明日香さん。もしも、本多弁護士の話が本当なら、どうなるんでしょうか? 現実に、あの公園で和久井が殺害されたのは、事実ですし」

「本多弁護士の話が本当なら、本多弁護士が公園に行く前に、既に殺害されていた――もしくは、本多弁護士が帰った後に殺害されたかの、どちらかね」

「でも、本多弁護士は、待ち合わせの時間に行ったんですよね? 和久井は、なんらかの理由で遅れて行ったのか、それとも早めに行ったのか――」

「待ち合わせ時間の件は、後で鞘師警部に聞いてみましょう」

「そうですね。そして、波崎成美さんですが――」

 と、僕が言いかけた時、探偵事務所のドアが開いた。


「お姉ちゃん、明宏さん、こんにちは!」

「明日菜ちゃん、こんにちは」

 探偵事務所にやって来たのは、明日菜ちゃんだった。

「明日菜、今、私達は忙しいのよ。何をしに来たのよ?」

「明日菜ちゃん、今日は仕事は?」

 と、僕は聞いた。

「今日は、夕方からテレビの収録があるの。初めて、春奈さんと一緒に出るから、楽しみなんだ。3時くらいに春奈さんと待ち合わせして、一緒にテレビ局に行くから、ちょっと暇潰しに来たの」

 と、明日菜ちゃんは微笑んだ。

「私達は、明日菜の暇潰しに付き合っていられるほど、暇じゃないのよ」

「あっ! 何、これ? 事件の事?」

 明日菜ちゃんはホワイトボードに気付くと、目を輝かせてホワイトボードに駆け寄った。

「ちょっと明日菜、聞いてるの?」

「なるほど。これが、この前言っていた事件ね。殺されたのが、和久井亮二っていう人で、犯人が本多進一郎っていう――弁護士なの!? 弁護士でも、人を殺すんだ。怖いね」

 まあ、弁護士だろうが何だろうが、絶対に殺人を犯さないとは限らないのだけど。

「明宏君。そのホワイトボード、ひっくり返しておいて」

「この一番下に書いてある人って、なんて読むの? なみさき?」

「ああ、それは、『はさき』って読むんだよ。『はさきなるみ』さんっていう人だよ」

 と、僕は教えた。

「ふーん。変わった名字だね。初めて聞いたよ」

「うん。僕も、初めて聞いた」

「それじゃあ、ちゃんとこうしておかないと」

 と、明日菜ちゃんは言うと、ペンを手に取り、ホワイトボードの波崎成美さんの名前の上に、『はさきなるみ』と振り仮名を書き足した。

「これで、よしっと。これで、皆が読めるね」

 と、明日菜ちゃんは、満足そうに笑った。

「いや、明日菜ちゃん。これは、皆に見せるものじゃないから。他には、鞘師警部くらいにしか見せないから」

「それじゃあ、鞘師さんも喜んでくれるね」

 と、明日菜ちゃんはニコッと笑った。

「いや、そういう事じゃなくて――」

 鞘師警部だって、当然、読み方は分かっている。

 それにしても、ずいぶん大きく書いたな。僕が書いた漢字よりも、大きいんじゃないか。

「――明宏君」

 と、明日香さんが呟いた。

「あっ、すみません。今、片付けます」

 僕が、ホワイトボードをひっくり返そうとすると、

「ちょっと待って!」

「は、はい?」

 明日香さんは、ホワイトボードを見つめている。

「はさきなるみ……」

 と、明日香さんは呟いた。

「えっ? 波崎成美さんが、どうかしましたか?」

「ねえ、明日菜。岬春奈さんって、本名?」

「えっ? なによ、急に。うーん……。聞いた事ないけど。芸名の人も、結構いるとは思うけど」

「明日香さん。名前が、どうかしたんですか?」

 と、僕は聞いた。

「…………」

 明日香さんは、無言で考え込んでいる。

「私は、カタカナでアスナにしているけど、本当は漢字だし。でも、『あすな』は『あすな』だから、これは本名っていうべきか芸名っていうべきか、明宏さんはどう思う? 私、いつも迷っちゃうんだよね」

 と、明日菜ちゃんが、僕に聞いてきた。正直、そんな事はどうでもいいのだが。

「ねえ、明日菜。岬春奈さんって、どんな人?」

「お姉ちゃん、どうしたの? 春奈さんに、興味があるの? もしかして、春奈さんのファンになっちゃった?」

「まあ、そんなところよ」

 と、明日香さんは頷いたが、多分そうではない。ホワイトボードを見ていて、何かに気付いたのだろう。

 重要な、何かに――

「どんな人って聞かれても、私も最近仲良くなったばかりだから、知らない事も多いけど――」

「最近って?」

「多分、半年も経ってないと思うけど。たまたま、同じファッションショーで一緒になったの。ファッションショーといっても、そんなに大きなショーじゃなくて、モデルも数人しかいなかったんだよね。私と別のモデルの人が話していて、そうしたら春奈さんも話し掛けてきたの」

「どんな、話をしていたの?」

「何だったかなぁ? 確か……。その人が警察官と付き合い始めたって言っていて、私も警察官の知り合いがいるよ、っていう話だったと思うけど」

「それで、岬さんは、なんて話し掛けてきたの?」

「確か……。警察官って、偉い人? って、聞かれたのかなぁ。それで、もう一人のモデルの子の彼氏は、警察官になったばかりで一番下って言っていたのかな。それで、私は警部さんだよって。警部だったら、そこそこ偉いでしょう?」

 警部さんとは、もちろん鞘師警部の事だ。そこそこなんて言ったら、鞘師警部が気の毒だけど。

「岬さんは、どうしてそんな事を聞いてきたの?」

「さあ、分からないけど……。春奈さんも、警察官と付き合いたかったのかなぁ?」

「警察官ね――」

 と、明日香さんは呟いた。

「そういえば――私、春奈さんが探偵事務所から出てくるところを、9月頃に偶然見掛けた事があるんだよね」

「探偵事務所から?」

「うん。お姉ちゃんの事務所じゃないよ」

「どこの、探偵事務所?」

日向ひゅうが探偵事務所っていうところ」

「そう。日向さんの事務所ね」

「明日香さん、知っているんですか?」

 と、僕は聞いた。

「ええ、知っているわ」

 と、明日香さんは頷いた。

「明日菜。岬さんは、どうして探偵事務所に?」

「さあ、分からないけど。なんか、聞いちゃいけないような気がして」

「ねえ、明日菜。今日の収録は、時間がかかるの?」

「バラエティー番組の中の短いコーナーだから、そんなにかからないと思うけど――どうして?」

「収録の後でもいいから、岬さんに会えないかしら?」

「えっ? 春奈さんに?」

「そうよ」

「終わったら、一緒にご飯を食べる約束をしているから、多分大丈夫だと思うけど――春奈さんに、何の用があるの?」

 明日菜ちゃんは、明日香さんの申し出に、不安があるようだ。

「ちょっと、聞きたい事があるのよ」

「それじゃあ、6時くらいには終わると思うから、Nテレビの前の喫茶店で待ってて」

「分かったわ」

 Nテレビの前の喫茶店には、僕達も行った事がある。芸能人を、見掛けた事もある。

「それじゃあ、私もう行くね。ちょっと、事務所に寄って行くから」

「明日菜ちゃん、いってらっしゃい」

 と、僕は手を振った。

「明宏さん。また後でね」

 明日菜ちゃんも、僕に手を振り返して、探偵事務所から出て行った。


「明日香さん。岬春奈さんに会って、何を聞くんですか?」

「ちょっとね」

 と、明日香さんは、一言だけ言った。

「6時まで、まだ4時間くらいありますけど、どうしますか? さっきの続きでも?」

 僕は、ホワイトボードに手を掛けた。

「それはもういいから、消しておいて」

「えっ? もういいんですか? 分かりました」

 僕は、ホワイトボードに書き込んだ文字を、綺麗に消した。もしも、誰かに見られるような事があってはならないので、綺麗に消しておかなくてはならない(まあ、既に明日菜ちゃんには、見られてしまったんだけど)。

「明宏君。出掛けるわよ」

「えっ? どこに行くんですか?」

 明日香さんは、僕の質問に答える事なく、探偵事務所を出て行った。

 僕は慌てて暖房を切ると、鍵を掛けて、急いで明日香さんの後を追ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る