第9話

 先週、金曜日――


「岸本君、週末に申し訳ないね。急に、残業に付き合わせてしまって。私が、ちょっと勘違いをしていて、来週でいいかなと思っていたんだけど、どうしても今日中に終わらせなければいけなくてね」

 と、本多先生は時計を見ながら、非常に申し訳なさそうに言った。

「いえいえ、構いませんよ。どうせ早く帰っても、特にする事もありませんので。残業代をちゃんと頂けるのなら、仕事をしていたほうがいいです。あっ、さっきのお弁当は、残業代とは別ですよ」

 と、私(岸本優子)は言った。

 私は、いつものように5時に帰ろうとした時、本多先生に急な残業を頼まれていた。6時過ぎに、下のお弁当屋さんで買った弁当を食べて、今も残業を続けていた。

「もちろん、残業代はちゃんと払うけど――なんだい、若いのにデートとかしないのかい?」

「お付き合いしている人なんて、いませんよ。私は、仕事が恋人ですから」

 と、私は微笑んだ。

「ふーん、そうかい。岸本君ほどの女性を放っておくなんて、世の男達は見る目がないんだな」

 と、本多先生は、本気なのか冗談なのか、よく分からない口調で言った。

 もちろん、仕事が恋人とはいっても、仕事がデートに連れて行ってくれるわけでもなく、仕事が手料理を作ってくれるわけでもない。私だって、ちゃんとした恋人が欲しいと思うときもある。

「先生、何を言っているんですか――でも、しいて言うなら、家で飼っている犬が恋人みたいなものですね」

「そういえば、岸本君も犬を飼っているんだったね。家は、妻や子供達が居るからいいけど、岸本君の所は一人だろう? 心配はないのかい?」

「そうですね。飼い始めた頃は心配でしたけど、今はそうでもないですね。ちゃんと、大人しく待っていてくれています。私が帰ると、尻尾を振りながら駆け寄って来てくれますよ」

「そうかい。家の犬は、妻や子供達にばっかりなついて、私には目も合わせてくれないよ」

「それは、先生が日頃から、何もお世話をしていないからじゃないですか?」

「まあ確かに、餌は妻がやるし、散歩は子供達が連れて行くからね。それじゃあ今度は、私が散歩に連れて行ってやるか」

「そうしてあげてください」

「いい運動にも、なるだろう」

 と、本多先生は言いながら、また時計を見ている。よっぽど、時間が気になるらしい。時刻は、夜の7時30分を過ぎたところだ。

「先生、無駄話はこれくらいにして、さっさと仕事を終わらせてしまいましょう」

「そうだな」


 そして、それから15分ほど経った頃だった――

「あれっ? おかしいな……」

 本多先生は、なにやら机の中をごそごそと探している。

「もう、無かったかな……」

「先生、どうかされましたか?」

「いや、あのノートを、切らしてしまったみたいなんだ」

「ノート? ああ、例のノートですか?」

「そうなんだ……。うーん、参ったなぁ……」

「それじゃあ、私が今から買ってきましょうか?」

「そうだな……。それじゃあ、よろしく頼むよ」

「それじゃあ、20分くらいで戻ってきますから、先生は仕事を進めておいてくださいね」

「ああ、分かった」

 と、本多先生は頷いた。

 私は、出掛ける準備を終えると、7時50分に事務所を出たのだった。


「先生、ただいま戻りました」

 私は、ちょうど20分後の8時10分に、事務所に戻ってきた。

「先生?」

 あれっ? 先生がいない? どこに、行ったんだろう?

 その時、奥の応接室のドアが開いた。

「ああ、岸本君。帰っていたのか」

「先生、どうかされましたか?」

「い、いや、ちょっと探し物をね。それよりも、ノートはあったかい?」

「はい。まとめて、10冊ほど買っておきました」

 私は、ノートを本多先生に渡した。

「ありがとう。それじゃあ、仕事を終わらせてしまおう」


 それから私達は、10時頃まで仕事を続けたのだった。

「岸本君、ご苦労様。おかげで、助かったよ」

「先生、お疲れ様でした」

「途中まで、一緒に行こうか」

「はい」

 因みに、私はバス通勤で、本多先生は電車通勤である。事務所の前に、事務所で借りている駐車場もあるけれど、そこは依頼人などの為の駐車場だ。


「先生、お休みなさい」

「ああ、お休み」

 私は、ちょうどやって来たバスに乗る事ができた。バスが出発すると、本多先生が駅の方へ向かって歩いて行くのが見えた。


「これが、金曜日の夜の事です」

 と、岸本弁護士は言った。

「ありがとうございます。少し、質問させてもらってもいいでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「はい、何でしょうか?」

「まずは、急な残業というのは、具体的には?」

「あまり、詳しくは話せないのですけど――」

「もちろん、話せる範囲でいいですよ。お互い、守秘義務があるでしょうから」

 と、鞘師警部が言った。

「そうですね。次の裁判で使う、資料などの作成ですね。すみませんけど、それ以上は……」

「今までも、こんなふうに残業を頼まれた事は、あるんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「いえ、こういう事は初めてですね。まあ、先生も人間ですから、うっかりという事もありますよね」

「それから、途中でノートを買いに行かれたんですよね? どうして、わざわざ残業の途中で行かれたんでしょうか? そんなに、直ぐに必要だったんでしょうか? しかも、往復20分も掛けてまで」

「そうですね。普通に考えたら、おかしいですよね。私も、以前、先生に聞いた事があって。なんでも、たまたまこのノートを使った時に、不利だと思っていた裁判で勝つ事ができたそうなんです。それ以来、そのノートを使っているそうです。まあ、一種の験担ぎみたいなものですね」

「岸本弁護士が、ノートを買って事務所に帰ってきた時に、本多弁護士はこの応接室から出て来られたんですね?」

「はい、そうです」

「探し物とは、何だったんでしょうか?」

「さあ……。それは、聞きませんでした」

「そうですか。分かりました。それで、10時頃まで仕事をされて、お帰りになられたんですね?」

「はい、そうです。先生も、その後は特に時間を気にする事もなく、一気に終わらせて帰りました」

「そうですか――」

 と、明日香さんは、非常口の方を見つめながら、しばらく考え込んでいたが、

「岸本弁護士。本多弁護士が応接室から出てきた時に、何か変わった様子はありませんでしたか?」

 と、聞いた。

「変わった様子ですか? ――さあ、特には」

「そうですか」

「あっ、そういえば。少し息が切れて、うっすらと汗をかいていたような――」

「本当ですか?」

「はい。よっぽど、一生懸命探していたのかな? と、思ったのを覚えています」

「――岸本弁護士、ありがとうございました。鞘師警部、これで失礼しましょうか」

「明日香ちゃんがいいなら、そうしようか」

 と、鞘師警部は頷いた。

 岸本弁護士は、警察官に指示する探偵を不思議そうに見ていた。

 まあ、そうだろうな。普通、探偵が警察官に指示する事なんて、あり得ないだろう。

 その時、岸本弁護士の携帯電話が鳴った。

「本多先生からだわ」

 どうやら、本多弁護士からメールのようだ。

「すみません。私も、これから出掛けなくてはいけなくなりまして」

 と、岸本弁護士は言った。

「それでは、我々も失礼します」

 と、鞘師警部が頭を下げた。

「もしかしたら、またお話を聞きに来させていただくかもしれませんので、本多弁護士によろしくお伝えください」

 と、明日香さんが言った。

「分かりました」

 と、岸本弁護士は頷いた。

「それでは、失礼します」

 僕達は、弁護士事務所を後にした。


「――明日香さん」

 僕は、小声で話し掛けた。

「何よ?」

「帰るんじゃ、ないですか?」

「誰も、帰るなんて言っていないわよ。一度、弁護士事務所の中から失礼しただけよ」

「何ですか、それは?」

 僕達は、弁護士事務所の出入口が見える物陰に隠れていた。

「明宏君。もう少し、離れてくれるか?」

 と、鞘師警部が言った。

「すみません。狭いもので」

 狭い所に、大人三人で隠れているのは、なかなかしんどいものである。

「二人とも、静かにしてよ」

 と、明日香さんが言った。

「は、はい」

 怒られた。

 はぁ……。せめて、鞘師警部ではなく、明日香さんの方にくっつきたいものだ。

 まあ、恥ずかしくてそんな事はできないから、鞘師警部の後ろに隠れているのだけれど……。

「あっ、出てきたわ」

 僕がビルの出入口に目をやると、岸本弁護士が手に大きな封筒を持ち、小走りに大通りの方へ向かって行った。

「それじゃあ、行きましょうか」

 と、明日香さんが言った。

「はい。岸本弁護士を、尾行するんですね?」

 と、僕は頷いた。

「尾行なんて、しないわよ」

「えっ? それじゃあ、どうして隠れていたんですか?」

「お弁当屋さんに、見付からないようにね。後々、面倒な事になるかもしれないから」

「面倒な事になるかもって――どういう意味ですか?」

 明日香さんは、僕の質問に答える事なく歩き出すと、弁護士事務所のビルの脇へと入った。鞘師警部と僕も、明日香さんの後に続いた。どうやら、ビルの裏に向かうみたいだ。


 ビルの裏側は、表側と比べると、ひっそりとしていた。車は通れない細い道が、奥の方へと続いている。

「これが、非常階段ね」

 と、明日香さんが言った。

 僕達は、上を見上げた。非常階段は、二階から三階へと伸びている。

「ちょっと、三階まで上がって見ましょうか」

 明日香さんはそう言うと、非常階段を上がり始めた。鞘師警部と僕も、慌てて後を追った。

 三階まで上がると、明日香さんは試しにドアを開けようとしてみた。

「やっぱり、開かないわね」

「岸本弁護士が、言っていたじゃないですか。外側からは、鍵がいるって」

 と、僕は言った。

「そうね」

「明日香ちゃん、何か気になる事があるのかい?」

 と、鞘師警部が聞いた。

「はい。とりあえず、一度下りましょう」

 僕達は、一階へ下りた。途中で、二階のドアも試しに開けようとしてみたけど、当然の事ながら開かなかった。

「それで、明日香さん。気になる事って、何ですか?」

 と、僕は聞いた。

「どうも、気になるのよね――金曜日の夜の、本多弁護士の行動が」

「本多弁護士の行動――ですか?」

「ええ」

 と、明日香さんは頷いた。

「確かに、私もいくつか気になる事はあったな」

 と、鞘師警部が言った。

「本多弁護士は、本当に勘違いをしていたのかしら? わざと、あの時間に残業をしたんじゃないかしら?」

「えっ!? 何の、為にですか?」

 と、僕は聞いた。

「自分の――アリバイ作りの為よ」

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