第6話

 翌日、火曜日――


 昨日までの陽気とは打って変わって、今日は本格的な冬到来といった寒さである。すれ違う人々も、しっかりとコートを着込み、マフラーを巻いている人もいる。吐く息も白く、本当に寒い。

 僕が、いつもの時間に出勤してくると、既に探偵事務所の灯りがついていた。どうやら、明日香さんが先に来ているみたいだ。

 僕が探偵事務所に入ると、暖房がきいて暖かくなっていた。

 これは、ありがたい。この探偵事務所は古いので、備え付けのエアコンで部屋が暖まるまで、そこそこ時間が掛かるのだが、明日香さんは何時頃から居るのだろうか? まあ、一度スイッチを入れてから、自宅に戻っていたのかもしれないけれど。

「明日香さん、おはようございます。今日は、本当に寒いですね」

 と、僕は言った。

「明宏君、おはよう。そうね、雪が降らなきゃいいけど」

 と、明日香さんは、探偵事務所の窓から、薄暗い曇り空を眺めている。

 明日香さんも、今日は白い厚手のセーターを着ていた。

「本当ですね」

 子供の頃は、雪が降ったら楽しかったものだけど、今はそんな気持ちもなくなってしまった。僕も、大人になったという事だろうか。

 どうでもいい事かもしれないけど、東京でちょっと雪が降ると、テレビで大騒ぎをするのが不思議でならない――本当に、どうでもいい話だけど。

「あれから、鞘師警部から何か連絡はありましたか?」

「まだ、連絡はないわ。でも、鞘師警部のことだから、もうすぐ連絡がくるわよ」

「そうですね」

 鞘師警部は本当に律儀な人だから、必ず連絡をくれるだろう。


 その電話は、午前9時過ぎに掛かってきた。

「もしもし、桜井です。鞘師警部、おはようございます」

 明日香さんの携帯電話に、鞘師警部から連絡があった。

「そうですか――はい、分かりました。いつでも結構ですので、お待ちしています」

 明日香さんは、電話を切った。

「明日香さん、鞘師警部はなんて?」

「明宏君。もう少ししたら鞘師警部が来るから、出掛ける準備をしておいて。詳しくは鞘師警部が来てからだけど、例の波崎さんの件で、鞘師警部の先輩のお話を聞けるそうよ」

「はい、分かりました。でも、あのデジカメの男を調べた方がいいんじゃないですか?」

「そっちは、警察の方が調べるわよ」

 そうは言っても、鞘師警部も、警察の人だけど……。


 それから10分程して、鞘師警部が探偵事務所にやって来た。

「鞘師警部、おはようございます」

「ああ、二人ともおはよう。今日は、かなり寒いな」

 と、鞘師警部は、黒い厚手のコートを格好良く着こなしている。

「鞘師警部、コーヒーをどうぞ」

 と、僕は、鞘師警部にコーヒーを出した。

「明宏君、ありがとう。10時から、私の先輩と会う約束になっている。これを飲んだら、すぐに出掛けよう。話は、車の中でするよ」


「まずは、昨日の阿久津の取り調べだが。アパートで君達も聞いた以上の事は、ほとんど分からなかった。一つだけ、阿久津が犯人でないことは、証明されたがな」

 と、鞘師警部は、車を運転しながら言った。

「鞘師警部。あのデジカメに写っていた人が、誰かは分かったんでしょうか?」

 と、僕は聞いた。

「それについては、まだ分からない。これからの捜査で、見付けるさ」

「鞘師警部は、そっちの捜査はいいんですか?」

「ああ、もちろんそっちもするが、真田課長が明日香ちゃんの意見も参考にしたいそうだ」

 そういえば真田さんは、明日香さんの事を凄く気に入っていたからな。

「これからお会いする方は、どんな方なんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「私がまだ警察官になって間もない頃の大先輩で、今は病気もあって、二年くらい前に既に一線を退いている。つまり、元警察官だ」

「どんな、病気なんですか?」

 と、僕は聞いた。

「ガンだ」

「今日は、体調は大丈夫なんでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「ああ。幸いにも手術は成功して、今は自宅で過ごしている。電話でも、『病気になる前よりも、今の方が元気が有り余っているよ』と、笑っていたよ」

「そうなんですね。それは、良かったですね」

 と、僕は言った。

「ああ――でも、本心では、もっと警察官を続けていたかっただろうがな」


「さあ、着いたぞ」

 9時55分に、僕達は大きな一軒家へとやって来た。表札には、『三井みつい』と、書かれている。

 鞘師警部が玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いて、50代くらいの女性が顔を出した。

「奥様、お久しぶりです。鞘師です」

 と、鞘師警部が頭を下げた。どうやら、鞘師警部の先輩の奥さんのようだ。

「鞘師さん、よくいらっしゃいましたね。お元気そうで」

「はい。奥様も、お元気そうで、なによりです。三井先輩と、10時に約束していまして」

「ええ、聞いていますわ。鞘師さんが、探偵さんを連れて会いに来るって」

「彼女達が、そうです」

 と、鞘師警部が、僕達を紹介した。

「主人が、書斎で待っていますわ。どうぞ、お上がり下さい」

 僕達は、奥さんの案内で、書斎に通された。

「すぐに、お茶を入れますからね」


「鞘師、よく来たな。流石、時間通りだな」

 と、50代くらいの男性が言った。

「三井さん。ご無沙汰しています。お元気そうで、なによりです」

 と、鞘師警部が言った。

 書斎で出迎えてくれたこの男性が、鞘師警部の先輩の元警察官の三井さんだ。病気の影響もあるのか、元警察官とは思えないくらい痩せていた(元から、痩せている人かもしれないけど)。しかし、顔色も良く、元気そうだ。

「ああ、少し痩せたが、特に体調は問題ない。なんなら、今すぐに現場に復帰してもいいくらいだ」

 と、三井さんは笑った。

「お待ちしていますよ」

 と、鞘師警部も笑った。

「まあ、冗談はそれくらいにして、そちらのお嬢さんが例の優秀な探偵さんだね?」

 と、三井さんが聞いた。

「はい。ご紹介します。こちらが探偵の、桜井明日香ちゃんと、助手の、坂井明宏君です」

 と、鞘師警部が、僕達を三井さんに紹介した。

「初めまして。桜井明日香です」

 と、明日香さんが頭を下げた。

「桜井の助手の、坂井明宏です」

 と、僕も頭を下げた。

「よく来たね。君達の活躍は、鞘師から時々電話で聞いていたよ。優秀な探偵だとね。これからも、鞘師をよろしく頼むよ」

「ありがとうございます。優秀かどうかは自分では分かりませんが、鞘師警部には、私達も本当にお世話になっています」

 と、明日香さんは謙遜しているけど、僕から見ても、明日香さんは優秀な探偵だと思う。

「鞘師。今日は、和久井亮二の事だったな」

「はい。波崎さんの件で、明日香ちゃんが話を聞きたいそうです」

「まあ、立ち話もなんだ。みんな座ってくれ」

 僕達は、ソファーに座った。探偵事務所のソファーと比べ物にならないくらい、ふかふかのソファーだ。

「そうか――あれから、もう15年くらい経つだろうか。しかし、あの和久井が殺されるとはな。世の中何が起こるか、本当に分からないものだな」

 と、三井さんは語り始めた。


「桜井さん。だいたいのところは鞘師に聞いていると思うが、15年前に波崎という男性が、和久井の勤めている会社から金を借りたんだ。この会社は悪徳な会社で、違法な金利で金を貸していたんだ。しかし、そんな会社だとは知らない波崎さんは、金を借りてしまった――もしかしたら、知っていても借りたかもしれない。それほど波崎さんは、会社の経営に困っていたんだ。金を借りた後、波崎さんの会社は一時的に持ち直すかに思えたんだが、そんな時に和久井の執拗な取り立てが始まったんだ。その後、波崎さんがどうしたのかは、鞘師に聞いている通りだ……」

 三井さんは、そこまで一気に話すと、お茶を一口飲んだ。

「どうにもならなくなった波崎さんは、首を吊って自殺されたんですね……」

 と、明日香さんが言った。

「ああ、その通りだ」

 と、三井さんは頷いた。

「第一発見者は、和久井なんですよね?」

 と、僕は聞いた。

「――いや、確かに和久井も、そこにいたが、正確には和久井は第一発見者ではない」

「それは、どういう事ですか?」

「一番最初に見付けたのは、波崎さんの小学生の娘さんだ。名前は、成美なるみちゃんだったか」

「それは、私も初耳です。和久井が、第一発見者だとばかり思っていました」

 と、鞘師警部は驚いている。

「あれは、学校が冬休み中の、午前8時過ぎだっただろうか――近所の人が、波崎さんを訪ねて来たんだ。知り合いのつてで、良い弁護士を紹介できるかもしれないという話だったらしい。そこで、娘さんが会社の方に父親を呼びに行ったんだ。まあ、会社とはいっても、自宅と同じ建物の中にあるんだが。そこで、娘さんが、首を吊って亡くなっている波崎さんを発見したんだ」

 まだ小学生の娘さんが、首を吊って自殺をしている父親を発見するなんて……。娘さんは、そうとうショックを受けただろう……。可哀想に……。

「娘さんが、なかなか戻ってこないのを心配した近所の人が、会社の方に入ってきて、その人が通報したんだ。そこへ、しばらくして和久井がやって来たんだ。和久井も大変驚いたようで、どうしていいか分からず、その場に立ち尽くしていたようだ。そこに、私達が駆け付けたんだ」

「和久井が、自殺に見せ掛けて殺害したなんて事は?」

 と、僕は聞いた。

「確かに、そう疑う捜査員もいたが、波崎さんの死亡推定時間――午前6時頃だが、和久井が当時住んでいたアパートの防犯カメラに、午前1時頃に帰宅して、午前7時30分頃に出てくるところが映っていた。つまり、アリバイ成立だ」

「でも、部屋の中までは映っていないですよね? もしかして、窓から外に出たとかは――」

 と、僕は食い下がった。

「坂井君。確かに、時間的には不可能ではないかもしれないが、それは無理だ」

「無理? どうしてですか?」

「ああ、和久井の部屋は、アパートの五階だ。さすがに、そこから下りるのは難しいだろう。それに、下りるだけじゃなく、戻ってきて登らなきゃならない」

「うーん……。そうですか――」

「それに、和久井には波崎さんを殺害する動機がない。殺してしまっては、お金を取れないからね」

 それもそうか……。

「三井さん。その娘さんは、今はどうされているんでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「娘さんか――今どこでどうしているのかは、私は知らないんだ。おそらく当時の捜査員も、誰も分からないだろう。当時、11歳か12歳くらいだったから、今は20代の半ばくらいか。確か、身寄りもなく、どこか施設に預けられたはずだが」

「その施設の名前は、分かりますか?」

「すまないが、私は知らない。当時、波崎さんが住んでいたところの近所の人なら、知っているはずだ」


 三井さんから話を聞いた僕達は、三井家を後にする事にした。

「皆、もうお昼だ。良かったら、一緒に飯でも食べていかないか。近くに、美味い鰻屋があるんだ」

 と、三井さんが言った。

「えっ!? う、鰻!?」

 と、僕は目を輝かせながら、思わず口に出してしまった。

「ぜ、是非――」

 と、僕が言おうとしたとき、

「三井さん。お気持ちはありがたいですが、まだこれから捜査がありますので」

 と、鞘師警部が言った。それと同時に、後ろから明日香さんに、頭を叩かれた。

「そうか、残念だな。それじゃあ、また今度、事件が解決したら、四人で祝杯をあげよう」

「はい。その時は、よろしくお願いします」

 と、鞘師警部が頭を下げた。

「それでは、失礼します」

 僕達は、三井家を後にした。


「明宏君。鰻、鰻って、恥ずかしいわね。ちょっとは、遠慮をしなさいよ」

 と、明日香さんに怒られた。

「す、すみません……。鰻なんて、東京に来てから、一度も食べた事がなかったので……」

 鰻が食べたくて、ついつい興奮してしまった。

「もうっ! まるで私が、ちゃんと給料を払っていないみたいじゃないの」

「決して、そんな事は……」

 もちろん、給料はちゃんと貰っているけれど、そんなに贅沢ができるくらいの給料ではない。

 僕は、明日香さんの傍に居られれば、それで良いのだ――とは、恥ずかしくて、とても言えないけれど。

 そんなとき、車のミラー越しに鞘師警部と目が合った。鞘師警部は、ニコニコしながら、こちらを見ていた。

「あ、あの、鞘師警部。これから、どうしますか?」

 と、僕は聞いた。

「そうだな――」

「鞘師警部。よろしければ、波崎さんが住んでいた所へ行ってみたいんですけど」

 と、明日香さんが言った。

「そうか、分かった。署に連絡をして、当時の波崎さんの住所を調べてみよう。だが、その前に、鰻とは言えないが、どこかで食事でもしていこう。私が奢るよ。こう見えても、明宏君よりは貰っているからな」

 と、鞘師警部は笑った。

 こう見えてもっていうか、どう見ても鞘師警部の方が稼いでいるのは、誰の目にも明らかだけど。

「ありがとうございます――でも、明日香さん。どうして、そこまで波崎さんの事が気になるんですか?」

 と、僕は聞いた。

「ちょっとね――私の、考え過ぎかもしれないけどね。食事しながらでも、話すわ」

 と、明日香さんが言った。

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