第5話
「さあ、明宏君。私達も一度、帰りましょうか」
と、明日香さんが言った。
「はい」
と、僕は頷いた。
「あっちの大通りの方に、行ってみましょう。バスが、あるかもしれないわ」
「そうですね」
僕達は、大通りに向かって歩き出した。
こういう時に、東京は助かる。僕の地元では、バスや電車があったとしても、一時間に一本とかは当たり前である。公共の交通機関の発展している東京は、本当に便利だ。
僕も上京したての頃は、次々にやって来る電車に驚いたものだ。
明日香さんに、この話をした時は、あまりピンときていないみたいだったけど、都会にしか住んだ事のない人には、この不便さは分からないだろう。
まあ、こんなところで愚痴を言っても、仕方がないのだけれど……。
「それにしても鞘師警部は、どうせ警察署に連れて行くなら、アパートで話を聞かずに、最初から警察署で話を聞けばよかったんじゃないですかね?」
と、僕は言った。これでは、二度手間だろう。
「明宏君、分からないの?」
「えっ?」
何が?
明日香さんは、呆れたように僕の顔を見ている。
「鞘師警部は、私達にも話が聞けるようにしてくれたのよ。警察署に連れて行ってしまったら、私達は直接話が聞けないから、鞘師警部が配慮をしてくれたのよ」
「な、なるほど。そうだったんですね」
まったく、気が付かなかった。鞘師警部が、僕を探偵だとは思っていないのも納得だ……。
僕達は、大通りへと出てきた。
平日の午前中とはいっても、やっぱり東京は人が多い。観光客らしき人も、大勢いる。
今日は本当に良い天気で、このまま明日香さんとデートにでも行きたい気分だ。まあ、明日香さんには、そんな気は全然ないだろうけど。
「あれっ?」
僕は前方に、知っている顔を見付けたような気がした。
「明宏君、どうしたの?」
「明日香さん。あそこにいるのって、明日菜ちゃんじゃないですか?」
と、僕は前方の人を指差した。
「明日菜? こんなところに、いないでしょう」
「いえ、でも――」
と、僕が言いかけた時、
「お姉ちゃーん! 明宏さーん!」
と、叫びながら手を振っている女性がいる。
「ほら、やっぱり明日菜ちゃんですよ」
「お姉ちゃんと呼ばれる人なんて、この世の中には大勢いるわよ」
それはそうだけど、お姉ちゃんと明宏のセットは、この場所にピンポイントで大勢はいないだろう。
「お姉ちゃーん!」
と、再び声が聞こえた。
僕は、手を振り返した。
「もうっ。こんなところで大声で呼ぶなんて、本当に恥ずかしいわね」
と、明日香さんは呟いたのだった。
「明日菜ちゃん、おはよう」
「明宏さん、おはよう」
と、明日菜ちゃんが笑顔で手を振る。
うん? 誰だろう、明日菜ちゃんと一緒にいる背の高い綺麗な女性は?
明日菜ちゃんも背が高いけれど、それ以上だ。年齢は、20代半ばくらいだろうか? 僕と、同じくらいかもしれない。
「明日菜、こんなところで、何をやっているのよ?」
と、明日香さんが聞いた。
「やっぱり、お姉ちゃんだ。呼んでいるんだから、せめて明宏さんみたいに手を振ってよ」
と、明日菜ちゃんは不満そうに言った。
この、かわいくて身長174センチのスタイルの良い女の子が、明日香さんの妹の明日菜ちゃん(21歳)である。
「こんなところで大声で呼ばないでよ、恥ずかしいじゃない。それに、声でファンの人に気付かれたら、大変な事になるんじゃないの?」
確かに、明日菜ちゃんはテレビでも人気のモデルである。ファンに気付かれたら、パニックになってしまうんじゃないだろうか。
「大丈夫よ。意外と東京の人って、そんなに言ってこないから。大阪で囲まれた事は、一度あるけど――ねっ、
と、明日菜ちゃんが、隣の女性に聞いた。
「ええ、そうね」
と、その女性は微笑んだ。
「明日菜ちゃん、そちらの方は?」
と、僕は聞いた。
「あれっ? 明宏さん、知らないの? こちらは、モデルの先輩の春奈さんだよ」
「モデルさんですか」
正直、僕は知らない人だ。
「私は、アスナちゃんみたいにテレビには、ほとんど出ていないから、男の人なら知らなくても当然ですよ」
と、春奈さんは微笑んだ。
多分、女の人でも、知らない人が近くにいると思うが――僕は、明日香さんの方を、チラッと見た。
「春奈さん。私のお姉ちゃんと、お姉ちゃんの助手の坂井明宏さんだよ」
と、明日菜ちゃんが、僕達を紹介した。
「はじめまして、
と、春奈さんは頭を下げた。
「春奈さん。お世話になっているのは、私の方だよ」
と、明日菜ちゃんが言った。
「とても綺麗な、お姉さんですね」
「それは、どうも。こちらの方こそ、妹の明日菜がお世話になって。ご迷惑をお掛けしたりしていませんか?」
と、明日香さんが聞いた。
明日香さんも、綺麗と言われて何気に嬉しそうだ。
「迷惑だなんて、そんな事ないですよ」
「そうだよ、お姉ちゃん。私、最近、春奈さんと仲良くさせてもらっていて、先週の金曜日の夜も、一緒に映画を見に行ったんだよ。混んでいたから、ちょっと席は離れちゃったんだけど」
先週の金曜日の夜といえば、和久井が殺された日か。
「ええ。ちょうど見たい映画があったので、一週間前から約束をして一緒に見に行って、その後カフェにも行きました」
映画か、良いなぁ。僕も、明日香さんと行きたいものだ。
「明日菜ちゃん、今日は仕事?」
と、僕は聞いた。
「うん。この近くで、春奈さんと一緒に撮影があるの。それよりも、明宏さんとお姉ちゃんは何をしているの? デート?」
「い、いやぁ、デートだなんて――」
だったら、嬉しいけど。と、僕が照れていると、
「明日菜、何を言ってるのよ! 私が明宏君とデートなんて、するわけないでしょ! 変な事を、言わないでよ!」
と、明日香さんが、全力で否定をした。
そこまで、否定しなくても……。僕は、ちょっと傷ついた。
「仕事に、決まってるでしょ」
「分かってるわよ。そんなに、むきにならないでよ」
むきになる? どうして明日香さんが、そんなにむきになるんだろう?
「この近くのアパートで、殺人事件があったんだよ」
と、僕は言った。
「殺人事件?」
「うん。正確には別の場所で殺されて、運ばれたみたいなんだけど」
「あの、お姉さんのお仕事って――」
と、春奈さんが聞いた。
僕が、いきなり殺人事件なんて言ったので、春奈さんを驚かせてしまったのだろう。
「あれ、言ってなかったっけ? お姉ちゃんは、探偵だよ」
と、明日菜ちゃんが言った。
「ふーん、そうなんだ。警察官の知り合いがいるのは聞いていたけど、お姉さんが探偵っていうのは、初めて聞いたわ」
明日菜ちゃんの知り合いの警察官というのは、もちろん鞘師警部のことだ。
「それで、明宏さん。どんな事件なの? すぐに、解決しそうなの?」
「うん、それがね――」
と、僕が言おうとした時、
「アスナちゃん、もう行かないと。遅れたら大変よ」
と、春奈さんが言った。
「そうだね。まだ、大丈夫だと思うけど。遅れたら迷惑が掛かるし、行こっか」
と、明日菜ちゃんが時計を見ながら言った。
「それじゃあ、私達は、これで失礼します」
と、春奈さんが頭を下げた。
「お姉ちゃん、明宏さん。また今度、事務所に行くから、その時に教えてね」
「明日菜。あなたは、そんな事を気にしなくてもいいから、早く仕事に行きなさい」
と、明日香さんが言った。
「はーい。それじゃあ、行ってきます」
と、明日菜ちゃんが言った。
ちょうど、信号が青に変わったので、明日菜ちゃん達は行ってしまった。
そのまましばらく見ていると、ファンの女の子だろうか、明日菜ちゃん達が握手をしているのが見えた。
「明宏君、行くわよ」
「はい」
僕達は、バスと電車を乗り継いで、お昼過ぎに探偵事務所へと帰ってきた。
結局この日は、鞘師警部から連絡はなかった。
あのデジカメに写っていた男女が、誰なのか気にはなったけれど、現時点では調べようがない。
先生と呼ばれる人物が、都内だけでもどれだけいるのか、全く分からない。何百人か何千人か、はたまた何万人か――それ以上か、それ以下かも分からないのだ。
明日香さんが自宅に戻るというので(戻るといっても、階段を上がるだけだが)、僕も今日のところは帰ることにしたのだけど、その時、探偵事務所のドアが開いた。
「あ、明宏さん。もう、帰るところ?」
と、明日菜ちゃんが言った。探偵事務所にやって来たのは、明日菜ちゃんだった。
「やあ、明日菜ちゃん。今日は仕事は、もう終わったの?」
「うん。あの後、春奈さんと撮影があったんだけど、もうちょっと前に終わったよ」
「明日菜。私達、もう帰ろうとしていたんだけど」
と、明日香さんが言った。
「ちょっとくらい、いいじゃない。帰るっていっても、階段を上がるだけでしょ」
まあ、確かに明日香さんは、階段を上がるだけだけど、僕はそういうわけにはいかない。
「もうっ、仕方がないわね」
明日香さんは、仕方がないなんて言いながらも、本当は妹が訪ねて来てくれるのが嬉しいのである――多分。
「明日菜ちゃん。コーヒーでも飲む?」
と、僕は聞いた。
「うん。私が、入れてあげるよ」
と、明日菜ちゃんは微笑んだ。
そして、数分後――
僕達は、明日菜ちゃんが入れてくれたコーヒーを飲んでいた。
「それで、明日菜。今日は、何をしに来たの?」
と、明日香さんが聞いた。
「そんなの、決まってるでしょ。事件の事を、聞かせてよ」
と、明日菜ちゃんは、興味津々で聞いてきた。
やっぱり、その話か。僕の、想像通りだ。明日香さんも、分かっていただろうけどね。
「明日菜には、関係ないわよ。素人は、事件に首を突っ込まなくてもいいの」
「えぇー。それじゃあ、明宏さんは?」
と、明日菜ちゃんが、僕の顔を見ている。
「明宏君は――一応、素人じゃないから」
と、明日香さんは、渋々と言った。
――なんだろう……。胸が、痛い……。
「じゃあ、明宏さんに聞こうっと。ねえ、明宏さん。何が、あったの?」
「何って――あの近くのアパートで、遺体が見付かっただけだよ。金曜日の夜の7時から9時頃に、殺害されたみたいなんだけど」
と、僕は言った。
「明宏君。そんなに、詳しく話さなくてもいいわよ」
と、明日香さんが言った。
「金曜日の夜の、7時から9時頃ね。それじゃあ少なくとも、私と春奈さんは犯人じゃないよ。あそこから結構離れた映画館で、6時45分から8時45分まで映画を見ていたというアリバイがあるからね。その後は、カフェに行ったし」
と、明日菜ちゃんは微笑んだ。
「誰も、そんな事を聞いていないわよ」
と、明日香さんは呆れている。
まあ、明日菜ちゃんが、そんな事をするわけがない。明日菜ちゃんに限らず、普通の人は、そんな事はしないのだけど。
「どんな、映画を見ていたの?」
と、僕は聞いた。
「今、大ヒットしている、『あなたの名は』っていう、アニメ映画だよ」
「ああ、あれね。僕は、見た事がないけど、凄く人気があるみたいだね」
確か、公開から半年近く経った今も大人気で、映画館も大変な賑わいだそうだ。
「うん。とにかく、凄い人でね。春奈さんが先に来て席を取ってくれたんだけど、隣同士の席が取れなくて離れちゃったの。私は一番後ろの左端で、春奈さんは真ん中よりちょっと前の右端の方だったの。ちょうど、出入口の辺りかな」
「せっかく二人で行ったのに、残念だったね」
「そうなの。明宏さんも、今度一緒に行かない? 私、もう一度見たいな」
「いや、僕は。仕事もあるし――」
どうせ行くなら、明日香さんと行きたい。
「お姉ちゃんも、一緒に行こうよ」
と、明日菜ちゃんが、僕の心の中を読んだかのように行った。
「私は、いいわよ」
「いいじゃない。お姉ちゃんも、お正月くらいは休むでしょ? そこの映画館の、ポップコーンも美味しかったし」
「どこの、映画館?」
と、僕は聞いた。
「最近リニューアルオープンした、『シネマF』っていう映画館だよ。今日、明宏さん達と会った所から、車で、2、30分くらいかな?」
「ああ、あそこか」
確か、最近テレビで見たな。
「明日菜。もういいから、帰りなさい。私が、カップを洗っておくから」
と、明日香さんは言うと、三人分のコーヒーカップを片付けて、洗い始めた。
その時、明日菜ちゃんが、僕の耳元で囁いた。
「明宏さん、私に任せて。お姉ちゃんと明宏さんを、隣同士に座らせてあげるから」
「えっ?」
「私は、離れた席しか取れなかったって言って、離れているからね」
と、明日菜ちゃんはニコニコしている。
「映画館は真っ暗だから、どさくさに紛れて、手ぐらい握ってもいいわよ」
「い、いや……。いくら真っ暗でも、気付くでしょ」
真っ暗といったって、全く見えないわけじゃないし、さすがに触れば気付くだろう。
「大丈夫よ。ついでに、キスまでしちゃえば?」
「キ、キス!?」
僕は思わず、叫び声をあげてしまった。
「ちょっと、二人とも。何を、こそこそ話しているのよ? キスが、どうしたって?」
と、明日香さんがカップを洗い終えて、手を拭きながら聞いた。
「な、何でもありません――テレビの……、ドラマの話ですよ」
と、僕は動揺を隠しながら(隠せていないような、気もするけれど)言った。
「明日菜ちゃん。そんな事をしたら、明日香さんに殴られるよ(それどころか、クビにされるかもしれない)」
と、僕は小声で言った。
「そんな事、ないと思うけどなぁ」
「さあ、二人とも。本当に、帰るわよ」
という明日香さんの一言で、僕達は帰る事にしたのであった。
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