第1話
「
と、その男性は頭を下げた。
「それじゃあ、私達はこれで失礼いたします。また何かありましたら、いつでも声を掛けてください」
「
「はい」
と、僕は頷いた。
「少し早いけれど、もう今日はこれで終わりにしましょうか。今日はもう、依頼人も来ないでしょう」
と、明日香さんはアパートの階段を下りながら言った。
古いアパートの為、階段がギシギシと音を立てていて、今にも崩れ落ちそうな気がする(もちろん、実際に崩れるような事はないけれど)。
僕は、腕時計を確認した。僕の左腕に巻かれた腕時計は、高価な物ではもちろんなく、上京前に買った安物の腕時計だ。
因みに僕は、人口が一番少ない鳥取県の出身だ。一番少ない所から、いきなり一番多い所に来た時は、本当に驚いたものだ。
まあ、それはそれとして、今の時刻は午後4時を15分程過ぎた所だ。
少し早いとはいっても、これから探偵事務所に戻れば、5時くらいにはなってしまうだろう。つまり、定時終了となんら変わりはないのだ。
しかし12月ともなると、この時間でも辺りはだいぶん薄暗くなってきている。吹き抜ける風も、かなり冷たく感じられた。
こうやって今年も一年、あっという間に過ぎていくんだろうな……。
おっと、紹介が遅れたけど、僕の名前は
現在は、約2年前から、探偵事務所で助手をやっている。
そう――あくまでも探偵助手である。
そして、僕の雇い主で探偵事務所の所長兼唯一の探偵が、今一緒に歩いている美人探偵の桜井明日香さん(年齢不詳)である。
年齢は聞いても教えてくれないのだけれど、見た目は20代の後半くらいだろうかと、探偵助手として推理している(30代前半の、お兄さんがいるそうだし)。
それと、明日香さんは身長が自称168センチくらいと言っているけれど、どう見ても僕よりも少しだけ高いのである。
年齢といい、身長といい、どうして僕に隠すのか不思議で仕方がない。
因みに明日香さんには、
明日菜ちゃんは、アスナという芸名で、モデルやタレントとして活躍している。その明日菜ちゃんも、お姉ちゃんに怒られるからと言って、明日香さんの年齢を教えてくれないのである。そこまで頑なに教えたくない理由とは、一体何なのか? 本当に、謎である。
僕は今から2年程前に、とある事件に巻き込まれた所を、明日香さんに助けられたのだ。その時の縁もあってか、何故か明日香さんに探偵助手にスカウトされたのだ。
明日香さんに好意を抱いていた(もう、好きで好きでたまらない)僕は、二つ返事で快諾をして助手になった(当時、無職だったこともあったので)。
しかし、どうして明日香さんが、僕のような推理力も行動力も何も無いような男を助手にしてくれたのか、今でも本当に謎である(これは別に謙遜しているのではなく、本当の事である――自慢することではないが)。
明日香さんは、人手不足で猫の手も借りたかったと言っていたけれど、どこまで本当か分からない(むしろ行動力は、猫の方があるかもしれない)。世の中には、僕よりも探偵に向いている人が沢山いそうだけど……。
まあ、これ以上こんな事を考えるのはやめよう。この薄暗い空よりも、更に暗い気分になってしまう。
今日、僕達がここにやって来た理由は、僕の新居探し――ではなく、依頼人のアパートに調査結果の報告と、集金(こっちの方が、メインである)を兼ねてやって来たのだ。本当は、依頼人が明日香さんの探偵事務所にやって来る予定だったのだけれど、依頼人の都合で、こちらの方から出向く事になったのだった。
どのような依頼だったのかは、依頼人の
ま、まあ、それくらいは良いか。
この辺りは人通りも少なく、外灯もあまり無い。それなので、余計に薄暗く感じる。
建物もほとんど無くて、さっき僕たちが出て来た、澤田さんの住む二階建ての古いアパートと、その向かい側にもう一つ同じような、二階建ての古いアパートが有るだけだった。
「さあ、帰りましょう」
と、明日香さんは、アパートの前に停められた車の助手席のドアを開けた。
この白い軽自動車が、明日香さんの愛車である。明日香さんの愛車といっても、仕事の時はほとんど僕が運転をしている。
因みに、僕の運転は安全第一だ。もちろん、これまで無事故無違反を続けている。
更に因みに、明日香さんの運転は――ちょっと荒くて怖いのだ……。僕も何度か助手席に乗った事があるけれど、怖くて仕方がなかった。
だけど、少なくとも僕が助手になってからは、明日香さんも無事故無違反だ。
――本当に、運の良い人だ。
僕が運転席のドアを開けて、車に乗り込もうとした時だった――
「うわぁ!!」
と、かなり大きな叫び声を上げながら、向かいのアパートの一階の一番端の部屋から、一人の男性が転がり出てきた(まさに転がるという表現通り、クルッと一回転したようだ)。
な、何だ?
危ない人かと思い、僕は見て見ぬふりをしようと思ったけれど、明日香さんが車から飛び出し、その男性に駆け寄っていった。
「ちょっ、ちょっと、明日香さん!」
明日香さんを置いて帰るわけにもいかないので、僕も急いで明日香さんの後を追った。
「どうしました? 何か、あったんですか?」
と、明日香さんが、まだ倒れ込んでいる男性に聞いた。その男性は、40歳くらいだろうか? 倒れ込んでいるので身長はよく分からないけれど、結構体型は太目のようだ。
「あ、あれ……。な、中……」
と、その男性が、部屋の中を指差している。男性は顔面蒼白で、指差す手も震えていた。
「中? 中が、どうかしたんですか?」
と、僕は聞いた。
明日香さんは、男性の返事を待つ事もなく、部屋の中に入っていった。
「し、死んでる……」
と、男性が呟くように言った。
そうか、死んでるのか。それは、大変だな――えっ? 死んでる? 今、死んでるって言ったのか、この人は?
ま、まさか……。いや、もしかしたら、『死んでる』ではなく、『芯出る』と言ったのかも知れない。きっと、何かペンの芯でも出ていたのだろう。
「明宏君! ちょっと!」
部屋の中から、明日香さんが呼んでいる。
「はい!」
僕は、恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。なんとも殺風景な狭い部屋で、部屋の隅には小さなテレビが置かれている。そして石油ストーブが横に置かれていた。他には、小さな机が一つ有るだけだった。
その狭い部屋では、男性が首を吊っていた。それはどう見ても、『芯出る』ではなく、『死んでる』だった。
「あ、明日香さん……」
「駄目ね。もう、亡くなっているわ」
と、明日香さんは、落ち着いた口調で言った。
「そ、そうですか……」
僕も、事件の調査で何度か遺体を目にしてはいるけれど、やはり気持ちの良いものではない。
「自殺ですか?」
と、僕は聞いた。
「そうかもしれないわね」
と、明日香さんは、いたって冷静に遺体を分析している。
まあ、状況からいっても、そうだろう。遺体の近くには、椅子が倒れている。これを使ったのだろう。
「明宏君。警察に――
「分かりました」
僕はポケットから携帯電話を取り出すと、110番ではなく、鞘師警部の携帯電話に直接電話を掛けた。
「もしもし、明宏君か。どうかしたのかい?」
二、三回コールしただけで、鞘師警部が直ぐに電話に出た。
「鞘師警部! 大変です! 男の人が、死んでいて――」
「死んでいる? そうか、分かった。場所は、どこだい?」
「えっと、場所は――」
当然だけど、僕はここの住所は知らない。仕方がないので、僕は澤田さんの住所を伝えて、その住所の向かいのアパートの一階の部屋だと教えた。
「分かった。これから、直ぐに向かう。君達はそこにいて、誰も立ち入らないようにしてくれると助かる」
「はい、分かっています」
「それと、くれぐれも現場をあまり、荒らさないでくれよ。明日香ちゃんに、言っておいてくれ」
「はい」
とは言ったものの、明日香さんは既に色々と調べているみたいだ。
僕は、電話を切った。
しかし、よくミステリー小説やサスペンスドラマでは、探偵が立ち寄り先で偶然事件に出くわす事があり、疫病神扱いされる事が多々あるけれど、現実にはなかなかそういう事は無いものである。
僕も、こうやって偶然、人が死んでいる現場に出くわす事はほとんどないのだが、出くわしてしまったからには、探偵として(助手だけど)無視をする事は出来ない。
「明日香さん。鞘師警部が、直ぐに来るそうです。それで、誰も立ち入らないようにしておいてくれって。それと、あまり現場を荒らさないでくれと」
「そう、分かったわ。ご苦労様」
「やっぱり、自殺ですよね?」
僕は改めて、遺体を見上げてみた。
僕も大柄な方ではないけど、この人は僕よりも小柄なようだ。
「それは、どうかしら?
と、明日香さんは頷いた。
「そうですか……、和久井さんは……。えっ? 明日香さん。どうして、被害者の名前を知っているんですか? それに、殺されたかもしれないって――」
表札らしき物は、出てなかったと思うけれど。ま、まさか、この和久井さんというのは、明日香さんの知り合いなのか?
「そこの引き出しに、電気代や水道代の明細書が入っていたわ。他人の明細書なんか入っていないだろうし、この人の明細書でしょう」
と、明日香さんは、机を指差しながら言った。
「明日香さん。鞘師警部が、あまり荒らさないでくれって――」
「失礼ね。荒らしてなんかいないわよ。たまたま机の引き出しを開けたら、明細書が一番上にあったのよ」
と、明日香さんは言った。
いや、たまたま開けるのを、荒らすというのであって――
まあ、明日香さんには、言っても無駄だろうけど。鞘師警部も、そこは分かっているだろうけど。
「それよりも、殺されたかもしれないっていうのは、どうしてですか? どう見ても、首吊り自殺ですけど」
「見ての通り、首にロープが食い込んでいるけれど、少し下の方にもロープの跡があるわ」
明日香さんにそう言われて、遺体の首元を見ると、確かにそういうふうに見えなくもない。
「つまり、誰かに首を絞められて殺されてから、ここに吊るされたという事ですか?」
「そういう可能性もあるわ。あくまでも、可能性だけどね」
「たまたま、そういうふうに見えるだけじゃないですか?」
僕の問い掛けを無視して、明日香さんは話を続ける。
「それと、もう一つ。額の傷が気になるのよ」
「額の傷――ですか?」
確かに、額が割れて血が流れているみたいだ。
「あっ、こういう事じゃないですか? 和久井さんは、一度首を吊ろうとしたけれど、何らかの理由で失敗をした。その時に、どこかに額をぶつけて怪我をしたんですよ。その後、改めて首を吊った――という事じゃないですか?」
どうだ、僕のこの推理は。素晴らしい推理だと、自画自賛したくなる。
「何らかの理由って、どんな理由よ?」
「えっ? どんな理由――ですか? それは……。あっ、ロープが切れたんじゃないですかね? それで、机の角かどこかに額をぶつけたんじゃ――」
「それじゃあ、その切れたロープはどこにあるのよ?」
「えっと……」
明日香さんにそう言われると、だんだんと自信がなくなってくる。
「ゴミ箱にも、入ってなかったわよ」
「他の部屋に、あるとか?」
「どう見ても、他に部屋はないわよ。お風呂やトイレもないわ」
そういえば、この部屋に入る前に、廊下の奥の方に共用のトイレがあったのを見たような気がする。そのトイレにロープを捨てに――行く訳がないか……。
「確かに、明宏君の言う通りかもしれないけれど、私達が言い合っていても、どうしようもないわ。さっきの男性に、ちょっと話を聞いてみましょう。呼んできて」
きっと、ちょっと聞くだけでは済まないだろうなと思いつつ、僕は部屋の外に出たのだが――
「あれっ?」
さっき、この部屋から転がり出てきた太目の男性は居なくなっていた。
おかしいな、どこに行ったんだろう? 僕は辺りをキョロキョロと見渡してみたけれど、やっぱり男性の姿は見当たらなかった。
「明宏君、どうかしたの? 早くしてよ。鞘師警部が来ちゃったら、先に話を聞けないじゃないの」
と、明日香さんが、部屋から出てきた。
「明日香さん。それが、居なくなっちゃったみたいで――」
「居なくなった? どういうこと?」
「さ、さあ? 僕に、聞かれても……」
「何か、やましい事でもあるのかしら?」
「ま、まさか――今の人が、犯人?」
それで、慌てて逃げたのか?
「それは、違うと思うわよ。どう見ても、死後数時間は経っているし。それに、自分で殺しておいて、あんなに叫びながら出て来ないでしょう。誰が聞いているか、分からないんだし」
それもそうか。現に、僕達が聞いていて、こうやって駆け付けて来た訳だし。
「しかし、どこに行ったんでしょうね?」
車や自転車は停まっていなかったし、歩いて来ていたのだろうか?
「もしかして、他の部屋の住人とか?」
僕はそう言うと、改めてアパートを見上げてみた。
このアパートは二階建てで、各階に四部屋の合計八部屋のようだ。どうやら共用のトイレは、一階だけではなく二階にもあるみたいだ。
「それにしても、古い建物ね。他に、誰か住んでいるのかしら?」
と、明日香さんが言った。
もう既に日が暮れて暗くなってきているけれど、和久井さんの部屋以外の窓から、灯りが漏れているという事はなかった。土曜日の夕方だけど、全ての部屋が留守なのだろうか?
その時、
「あのう――」
という声がして振り向くと、向かいのアパートの澤田さんが立っていた。
「澤田さん、どうかされましたか? 何か、話し忘れた事でもありましたか?」
と、明日香さんが聞いた。
「いえ。もしかして、ここに倒れ込んでいた、太った男の人を探してます?」
「ええ。そうですけど」
「その人なら、あっちに走って行きましたよ」
と、澤田さんが指差したのは、僕達がやって来た方向と逆の、大通りの方へ繋がる道だった。
「それは、確かですか?」
「はい。僕の部屋の窓から、見ていたので」
と、澤田さんは、自分の部屋の窓を指差した。
「叫び声が聞こえて、何だろうと思って窓を開けて見ていたので。坂井さんが部屋に入られてしばらくしてから、慌てて走って行きましたよ」
「慌ててですか? やっぱり、何かやましい事があるんでしょうか?」
と、僕は明日香さんに聞いた。
「今の時点では、何とも言えないわね。ただ単に、遺体が怖かったとか、警察に関わり合いたくないだけかもしれないわ」
まあ、関わり合いたくない理由にもよるだろうが――
「でも、本当に誰だったんでしょうね」
と、僕は呟いた。
「あ、あのう……。僕、何度か見掛けた事がありますよ」
「本当ですか?」
「ええ。もちろん、名前とかは知りませんけど。この部屋に、何度か出入りしているのを見た事があります」
と、澤田さんは、和久井さんの部屋を指差した。
「澤田さんは、こちらの部屋の方を知っているんですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「いえ、知りませんけど……。今年の初め頃から、住んでいるみたいです。元暴力団員なんじゃないかという噂は、アパートの人や大家さんから聞いた事はあります。顔も、怖いし」
元暴力団員か――
噂には、すぎないけれど、一般人よりは殺される理由もあるのかもしれない。
「それじゃあ、僕はこれで」
と、澤田さんは言うと、自分のアパートへ戻っていった。
そして、その直後、数台のパトカーが現場にやって来た。その中に、見覚えのある一台の赤い乗用車の姿があった。
その赤い乗用車から、鞘師警部が降りてきた。
鞘師警部は、警視庁の警部である。
明日香さんのお父さんの大学時代の後輩の息子さんで、僕達の調査にも色々と協力をしてくれる、優しい警察官である。35歳の独身で、身長が185センチもあるイケメン警部だ。
「明日香ちゃん、明宏君。大変だったな」
「鞘師警部。亡くなられているのは、和久井亮二さんという方のようです」
と、明日香さんが言った。
鞘師警部には、あまり現場を荒らさないでくれと言われていたのに、ここまで調べましたと言ってしまう明日香さん。鞘師警部も、明日香さんが、大人しく待っているとは思っていなかっただろうけど。
「明宏君から向かいのアパートの住所を聞いた時に、もしかしたらと思ったが、やっぱり和久井だったか」
と、鞘師警部が言った。
「鞘師警部、和久井さんの事を知っているんですか?」
と、僕は聞いた。
「ああ、よく知っているよ」
「どういう人なんですか?」
「和久井亮二は、昔から色々と犯罪行為を犯している奴でね。刑務所に入った事もある。確か、去年の秋頃に出所したはずだ。この辺りに住んでいる事は、私の先輩の警察官に聞いて知っていたんだが――殺人だとすると、和久井を恨んでる人は大勢いるだろうな」
それはつまり、容疑者候補は沢山いるという事か。
「二人とも、遺体を発見した時の事を詳しく聞かせてくれないか」
「はい」
明日香さんと僕は、向かいのアパートに来た経緯から、男性の叫び声を聞いて遺体を発見するまでの事を詳しく話した(もちろん、澤田さんの依頼内容は話していない)。
そして、澤田さんには申し訳ないけど、澤田さんが第一発見者の男性を見た事があると言っていた事も話した。この後、澤田さんも警察に話を聞かれる事になるだろう。
「二人とも、ありがとう。君達は、もう帰ってくれていいぞ」
「はい。それで、鞘師警部――」
「ああ、明日香ちゃん分かってる。明後日の月曜日にでも、連絡をするよ」
と、鞘師警部は言った。
「よろしくお願いします」
僕達は、現場を後にした。
僕は、この時は、事件は直ぐに解決をするだろう――と、思っていた。
明日香さんの出番は、ないだろうと――
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