第8話 パン屋はどこだ

 ラーメン屋の暖簾のれんをくぐって外へ出ると、夕風になびく草の波が、いましも沈む夕陽に朱く染まり、なだらかに丘をくだったあたりには、きらきらと小川が流れておりました。


「ここはどこ?」


 つぼみさんはあっけにとられて立ちつくしています。


「異界は気まぐれですからね」


 わたくしは苦笑して、夕陽の丘を眺めました。表参道の片鱗へんりんはどこにもありません。


「あ!」


 つぼみさんがクンクンと鼻をうごめかしました。あたかもトイプードルのようです。


「どうしました?」


「ほら、匂いが――。パン屋さんの匂い!」


 なるほど。夕風に乗って、香ばしいパンの匂いが漂ってきます。


「あっちだわ!」


 つぼみさんは草の丘を駆けおります。そしてそのまま、靴が濡れるのもかまわずに、ザブザブと浅瀬を渡りはじめました。


「雪ノ下先生! 早くってば!」


「はい、はい!」


 わたくしは急いではかますそをからげて、澄んだ流れを渡り切りました。


「あそこ!」


 彼女が真っ直ぐに指差したのは、向こう岸の土手の中腹でした。緑色のペンキで塗られた丸い扉が、なかば草に埋もれております。扉の横手から突き出た煙突からは、パンの焼ける匂いが盛んに吐き出されているのでした。


「この超絶美味しい匂いは、カピバラのパン屋に間違いないわ!」


「たしかですか?」


「あの丸い扉! うちが逃げてきた扉よ!」


 つぼみさんは顔を耀かせると、草をかき分けて土手をがむしゃらに登りはじめました。ロールパン十二個と醤油ラーメンと餃子と半ライスを食べても、隠しきれない食欲が華奢きゃしゃな背中ににじみます。若さでしょうか。


 すると緑色の扉がパタリと開き、熟したキウイのような鼻面がのぞきました。白いエプロンをかけたカピバラが、大きな白いホウロウの水差しを抱えて、のそのそと外に出てきます。


「あやあー!」

 

 カピバラは、つぼみさんに気がついて小さな目を精一杯見開きました。黒い前足から水差しが落ちて、ガランガランと派手な音を立てましたが、本人はそんなことにはおかまいなしに扉の奥へ、ハスキーな声で呼びかけました。


「あの子だあ! あの女の子が来たあ! みんな、来いよう!」

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