第5話 ラーメン・一筋縄

「えい。らっしゃい」


 濃厚なカツオ出汁だしの香りが漂います。これは旨そうだ。

 カウンター席が五つだけの、狭いラーメン屋でした。お客は誰もいません。あぶらみた壁に『ラーメン・一筋縄ひとすじなわ』という店名が、肉太の筆文字で大書されておりました。


「ご注文は?」


 頭にタオルを巻いたハシビロコウが、カウンターの内側から目を細めました。


 みなさま、ハシビロコウは御存知でしょうか。やさぐれたペリカンのごとき佇まいの灰青色の水鳥で、平均的な小学校一年生ほどの身長があります。


「うそ? ここはどこなの?」


「わかっていて<扉>を開けたのではなかったのですか?」


「だって――。また<扉>を開ければ、異界から出られると思ったんだもの」


「そうとも限らないようですね」


「そしたら、どうすれば良かったのよ?」


「開けた<扉>を閉めないと、こうした混乱を生み出すのですよ」


「なに言ってるか、わかんないっ!」


 猛獣のような瞳で睨まれました。恐ろしい小学生です。


「――お客さん。ご注文は?」


 眉間みけんに皺をよせたハシビロコウが、太くて黄色いクチバシを突きだしました。


「あ、すみません。醤油ラーメンと焼き餃子ひとつ。つぼみさんは?」


「うちも同じで。あと小ライスつけてください」


「へい。少々お待ちを!」


 わたくしたちは取りあえず並んで丸いイスに坐りました。


「どうして? どうなってるの?」


 つぼみさんがわたくしの耳元でヒソヒソとささやきました。

 わたくしは懐手ふところでをして、ひと呼吸いたしました。


「まず認識すべきは、ここが異界であるということです」


「それは――うん。わかります」


 片足で立って、器用に湯切りをするハシビロコウの背中を見つめて、つぼみさんはつぶやきました。


「よろしい。とすれば、先ほど、わたくしたちがしくも遭遇した街角は、元の世界ということです」


「でも、カピバラが走ってたけど――」


「これは憶測ですが、あのカピバラたちは異界から、こちらに出てきてしまったのではありませんか? なにか、よんどころのない事情があってのことでしょうが――」


 つぼみさんの表情がわかりやすくひきつりました。


「お心当たりがあれば、お話しいただけますか?」


 つぼみさんは気まずそうに視線を逸らします。

 カウンターの向こうから、ジュワっと餃子の水がはじける音がしました。


「無理には伺いませんが、元の世界にお帰りになりたいのでしたら――」


 すると、つぼみさんは上目遣いにわたくしを見つめました。


「――食い逃げです」


「ほほう。――申しわけありませんが、もう少し詳しく」


「ついさっき。小学校の帰り道でした。うちは商店街の中を通って帰るんですが、美味しそうな焼きたてのパンの匂いがして、見慣れないパン屋を見つけたんです。軒先に本物のフランスパンが飾ってあって、窓からのぞくと、出来たてのクロワッサンやいろいろなデニッシュが所狭しと並んでいました」


「ほお――」


「緑色に塗られた扉を開けると、カランコロンと可愛いドアベルが鳴りました。うちは、お盆とトングを手にとって店の中を一周して、パイ生地でマロンクリームを包んで、チョコレートがトロトロにかかったパンを選んで、レジに持っていったんです」


「さっきから、必要以上に詳しい気がするのですが」


「だって詳しくっていうから」


「たしかに。先をどうぞ」


「レジには、白いエプロンをかけたカピバラがいました。ビックリしているうちに、次々に十頭くらい出てきて、うちは周りを囲まれたんです」

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