四日目


 目を覚ましてすぐ、嫌な予感がした。視界を制す光は、白く強い。いつもより窓から差し込む陽が高いのだ。時計を見ると、待ち合わせ時間の十分前を指していた。


「くっそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」


 これは悪戯だ。抗いようのない悪戯だ。閻魔大王はロクなことをしない。

 猛スピードで支度をし猛スピードで図書館を目指す。幸いなことに図書館は歩いて十五分ほどで着く。だが到着したときには、約束の時間を五分過ぎていた。


「五分の遅刻、申し訳ございませんッ!」


 僕は入り口で立っていた彼女に、全力で頭を下げる。挨拶なしで開口一番がそれとは、我ながらとても情けない。どこかで愉快に笑う声が聞こえてきそうだ。


「大丈夫ですよ、そんな平社員のように謝らず…顔をあげてください湊さん。時間まで、まだ余裕はありますから。誠実な人なんですね」


 綾音さんは微笑むと、涼しいですよと図書館の中へ案内してくれた。優しい人でよかったと安堵しながら中を見渡すと、同じ学校の制服の人が何人かいた。そういえば、綾音さんも制服だ。僕が訳を尋ねようとしたが、それより先に彼女が口を開く。


「見ていてもらえませんか。貴方に見ていてもらえたら…とても心強いです」


 そういって、彼女は集まっている他の生徒達の元へ行った。普段着の僕がそれについていくのも不自然だし、見ていてと言われたので大人しく近くの椅子に腰かける。

 図書館は小学校低学年以来だった。文字ばかりの本はあまり手に取らないが、絵本は好きだった。ふとキッズコーナーに目をやる。昔のようにそこは畳になっており、靴を脱いで絵本を読んでいる子供たちがたくさんいた。


(…こんなに人いるんだ)


 子供たちはもちろん、それに付き添う大人たちも含めるとなかなかの盛況ぶりだ。日曜日だからかなと思っていると、キッズコーナーへ綾音さんたちが入っていった。


「みなさん、来てくれてありがとうございます。今日は四葉中学校の学生さんたちが、読み聞かせに来てくれました~」


 エプロンを付けた図書館の人と思しき女性が、間延びした声で呼びかける。その隣で、綾音さんは絵本を抱えて緊張気味な表情をしている。そういえば、うちの中学校は様々なボランティアを募集していた。教室の片隅の掲示板を思い出す。


 キッズコーナーにいた子供たちは、嬉しそうな声を上げながら誰に言われるでもなくくっついて座り始める。彼らの目の前に、簡素な椅子が一つ置かれた。生徒が一人座って、絵本を読み始める。すると子供たちは私語をやめ、静かに読み聞かせに耳を傾ける。読んでいる生徒は緊張しているのか、声は震え、本を捲る手も危うい。


(そりゃあ緊張するよな…)


 子どもたちの期待が籠っている視線のど真ん中、自分の居場所はたった一つの椅子。考えただけでも手に汗が滲んできた。

 そうして一人一人読み終え、とうとう綾音さんの番になった。


(え………トリ?)


 彼女の次に並んでいる生徒はいない。ということは、綾音さんが最後なのだ。一気に心臓がバクバクし始めた。膝の上に乗せていた手を組み合わせては外し、爪をいじる。

彼女が椅子に座った。自身と垂直に絵本を掲げると、凛とした声が題名を読む。その一瞬で、場の空気が変わった。注意散漫になっていた子供たちは一気に絵本へ目線を吸われた。彼女はそれを逃さないよう、固い表紙を捲る。綾音さんは別人のように物語を紡ぎ始めた。


 いつの間にか、読み聞かせは終わっていた。子供たちの盛大な拍手に、僕はハッと意識を取り戻す。読み聞かせボランティアの人たちはその場をいそいそと片付け、裏へはけていった。暫くするとちらほらと生徒が表へ出てきて、そこに綾音さんの姿を見つけた。


「ごめんなさい、お待たせしました。私の読み聞かせ…いかがでしたか?」

「いかがもなにも…………とっっても凄く感動しましたっ!」


 思わず前のめりに叫んでしまい、綾音さんは目を瞬かせる。そして周りからの五月蝿いと言わんばかりの視線に、顔を伏せる。


「外、行きませんか?」

「は、はい」


 苦笑しながら、彼女と共に図書館を出る。小さな噴水のそばまで来ると、ひんやりと水飛沫が気持ちいい。


「ずっと、このボランティアに参加したかったんです」


 彼女は木のベンチに腰掛けて、図書館の方を見る。


「でも一人だと心細くて。友達も誘ったんですけど興味ないから参加しないって言われて、同じクラスメイトすらいなくて…。だから湊さんのおかげで参加できることができました。ありがとうございます」


 ぺこりと、綾音さんは頭を下げた。僕もつられて頭を下げる。


「あ、いや、僕も良い経験になりました。図書館久しぶりだし、絵本も久しぶりで……楽しかったです」


 自分が抱いた率直な感想だった。図書館の古めかしい埃かぶった本の匂いも、みんなで聞く心のこもった読み聞かせも、懐かしくてたまらなかった。


「私、色んな人に本を読んであげたいんです。ただ紹介するだけじゃなくて、自分で本の世界を表現して、何かを感じてもらいたいんです」

「じゃあ…将来はアナウンサーとか?」

「今はまだ将来の夢を具体的に考えてなくて…、でも読み聞かせとか朗読とか…そういうことに携わりたいなって思ってるんです」


 そう打ち明ける綾音さんは、ほんの少し恥ずかしそうに頬を染め、でも確かに頷いた。かっこいい、と思った。自分のしたいことを見つけて、それに向かって努力をして。


「何か、僕に手伝えることがあったら手伝わせてください。読み聞かせの聞く役とか…アドバイスなんてできるかわかんないけど、もしよければ」


 僕も、力になりたいと思った。何かに向かって頑張る人の手伝いをしたい、と。

 綾音さんは驚いたように目を丸くしたが、それは一瞬で、すぐに顔を綻ばせて頷いてくれた。



―――カラン―――ッ



 幾度となく聞いた音。それに合わせて、僕は目を開ける。


「先にこちらから報告をしよう。無事、井戸の切れ目は塞げた。これで正規ルートを通らずこちらに来る者もいなくなるだろう。だが、私が君に頼んだことを、覚えているかい?」

「……自殺者を、減らしてほしい」

「そう、そうだ。わかっているだろうが、自殺者は減っていないさ」


 そうだろうなと思っていた。僕がこの四日間で関わった人間は、ほんのごくわずかの人数で死ぬ間際でもなかった。


「人ひとりには、そんなことできませんよ」

「あぁ。人は小さい。だが、ひとりなら、であろう?」


 えっちゃんは自身の席から立ち上がる。そして数歩近付いた。

 僕は投げられた言葉の真意がとれず、次の言葉を待つ。


「君が誰かを気にかけ、その誰かが他の誰かを気にかけ、またその誰かが誰かを気にかけ……………人間なら、できるだろう。小さい人間なら。だがそれは続かないかもしれない。途中で途切れてしまうかもしれない。それでも連鎖が必要だ。しかしそれには―――」

「それを始める人間が必要、ですね」


 遮った言葉の続きは、もう充分にわかっていた。えっちゃんはにんまりと口角を上げて微笑む。


「私達の仕事が減るのを、期待しているよ」


 彼女は踵を浮かせようとした。


「待って!」


 その下駄が鳴ってしまえばお別れだ。僕は思わず呼び止めた。もしかするとえっちゃんのことだから、また問答無用で現世に帰されるかもと思ったが、今回は待ってくれた。


「……もう、会えないんですか?」

「また私なんかに会ってもらっては困るんだよ。ここは地獄さ。言っただろう、仕事が減るのを期待している、と」


 突然、わしゃわしゃと頭を撫でられた。悪戯っ子のように彼女ははにかむと、手を振って踵を上げた。



―――カラン―――ッ



 厚底の下駄が、鳴った。

 もう、聞くことのない音が、僕の目を覚まさせる。

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