三日目
「て―――ッ!」
伸ばした手は空を切った。見慣れた天井に、歪む紅の唇が映る。
舌打ちをしながら、アラームが止まっている目覚まし時計を見て、今日が土曜日だということを思い出す。休日はいつも昼過ぎまで寝ているが、今から二度寝をする気分にもなれない。何をする気分にもなれない。
午前十時過ぎ。僕は散歩がてら近くの公園へ行くことにした。家にいると何かをしたくもないのにしようとしてしまう。それはきっと、紅がちらつくからだ。
少しずつ、木々たちは緑を濃くしている。春から夏へと変わっていくのだ。彼らは、怖くないんだろうか。自分を変えていくことが。僕は下を向く。アスファルトの照り返しは、まだそれほど暑くない。
「あっ……」
公園の一歩手前。横断歩道の先。そこには険しい顔をした拓斗の父がいた。普段着であることから今日は仕事が休みなのだろう。公園の前を通り、どこかへ行こうとしている。その手には、ギターケースがあった。
ドクンッ、と心臓が跳ねる。あれは拓斗のものじゃないのか。それをどこに持っていって、何をするのか。いや、待て。そもそも拓斗のものじゃないかもしれない。確かに彼の部屋でギターは見たが、家にあるのはその一本だけとは限らない。あれは彼の父の物で、今からどこかで演奏をするのかもしれない。
拓斗の、人を気遣う表情が脳裏をよぎる。信号が青になった。
「あ、あのッ…拓斗のお父さんッ!」
走って駆け寄ると、彼は驚いたように振り返った。だが僕を見るとすぐに険しい顔に戻る。
「ど、どちらへ行かれるんですか…?」
僕を見て、ギターを見て、顔をしかめた。
「………………………………………………ゴミ捨てに」
「そのギター、拓斗の、ですか?」
彼はジッと僕を凝視すると、ため息を吐いた。そして公園の中に入っていった。僕は慌てて追いかける。それほど大きくはない公園だが、すでに十人ほどの幼児が遊んでいた。元気な声が響く。彼はベンチに座って子供を見ていた。僕もその隣におずおずと腰掛ける。
「私は…子供たちを笑顔にする仕事がしたかった」
彼は、重たく小さな声で語った。
「前職は、地域に密着して子供たちの遊び場を作る仕事をしていたんだ。だけどいろいろな企画が通るのは、いつも一流大学を出た人だけ。それ以外の人が出した企画は通らず、何かと文句を付けられて重役も下ろされて、だけど問題が起こった時の責任はなすりつけられた。もちろん、一流大学の人達は贔屓目を抜いても優秀だった。……だけど、あまりにも差別が酷かった」
彼はギターを膝の上に置き、見つめる。
「このギターはもともと私のものでね。子供たちと仲良くなるには、楽器で何かできたらいいと思っていたんだ。……それもいらなくなって、拓斗にあげたんだ。だけど彼が弾きたいと言い出した時、思った。ギターに気を取られて勉強がおろそかになってしまったら…? 二流三流大学にしかいけない学力になってしまったら…? 拓斗にはあんな差別を受けてほしくない。したいことをできるようになってほしい。そのためには一流大学を出るべきだ。ギターなんかをしてる暇は――」
「あっ、ギターだ!」
男の子の声に、話は遮られた。小学生にもなっていないような小さな子が、ギターケースを指差して駆け寄ってきた。
「おじちゃん、ギターひけるのっ?」
「え、あ…いや……」
きらきら光る男の子の瞳に、拓斗の父はたじたじになる。
「ぼくね、このまえようちえんで「おおきなくりのきのしたで」をしたんだ!」
そういうと、身振り手振りをつけて歌い始めた。音もテンポもずれまくって、だけどその子は楽しそうに踊り続ける。そこに、ギターの音が重なる。いつの間にか彼はギターをケースから取り出していた。公園にいた他の子供たちも音楽につられ、一緒になって歌い始めた。
おおきなくりの きのしたで
あなたとわたし
なかよく あそびましょう
おおきなくりの きのしたで
おおきなくりの きのしたで
おはなししましょ
みんなで わになって
おおきなくりの きのしたで
おおきなくりの きのしたで
おおきなゆめを
おおきくそだてましょう
おおきなくりの きのしたで
いつの間にか、昼を回っていた。拓斗の父はしばらく子供たちを眺めると、微笑んだ。そしてギターケースを背負って、帰っていった。
「すまなかった、悠一君。また会おう。…拓斗をよろしく」
僕は頭を下げて、その背中を見送る。そのままベンチに居座った。
砂場で二人の子供が山を作っている。大きくしたいのか、周りの砂をかき集めては上に乗せ、手で押し固めている。
僕が拓斗の父を止めた。それが善いのか悪いのか、全くわからない。もしかしたら彼の言う通り、拓斗がギターにハマって勉強が疎かになり、将来に支障をきたすかもしれない。僕は拓斗の選択肢を潰したかもしれない。
砂場に、バケツを持った数人の男児が近付いていく。何をするのかと見ていると、二人の子供の作っていた山に思いきり水を掛けた。崩れていく山を見てゲラゲラ笑い、去っていった。あまりに突然にあっさりに、山は崩れた。二人の子供は泣いてしまった。慰めに行った方がいいかもしない。と腰を上げようとしたが、彼らはすぐに涙を拭くとまた山を作り始めた。先程と同じように周りから砂を集め、固めていく。僕の慰めなどいらないようだ。
きっとさっきより、山は高く固く育つだろう。
―――カラン―――ッ
聞き慣れた音は、僕を暗闇へ連れていく。目を開けると、そこにはいつも通り紅の瞳―――ではなく、きめ細かい白肌の豊満な胸の谷間―――、
「うわあぁぁぁッ!?」
バタンッと派手な音と共に背中に衝撃が走る。椅子から転げ落ちた僕は地面と仲良しこよし。
「ふははははっ、見事な反応だなぁ。からかって正解だった」
「……………………。」
僕はただただえっちゃんを睨み付ける。ジンジンと痛む背中をどうしてくれるんだ。
「なんだ、今度は下が見たいのか?」
「見たくないですやめてくださいッ!」
着物を捲り上げようとしたため素早く立ち上がって目を背ける。
「見たくないとは女性に向かって失礼ではないか?」
「恥ずかしげもなく見せて女性として恥ずかしくないんですか!」
「ふむ、確かに。それもそうだな」
納得したのか、えっちゃんは大人しく自分の席へ戻っていく。僕はため息を吐いて、椅子に座りなおした。
「恥ずかしげに見せた方が効果的ということか」
「拓斗のお父さんは…あれで良かったのでしょうか」
いまだに、彼の紡いだ音色が耳に残っている。それに合わせ歌う子供たちの声も。
彼が何に納得してギターを持ち帰ったのかはわからないが、現状何かが解決したわけではない。彼が職場で不当な扱いを受けていた現実も、拓斗の将来に影響を及ぼす不安も。
「……この閻魔大王を無視するとは。死後、覚えておけよ。……………………君も、その拓斗とやらの父も、根本が間違っておることに気付かんのか?」
前半の言葉を聞こえなかったことにして、僕は首を傾げる。彼女はその様子を見て、呆れたようにため息を吐いた。
「そやつの将来を決めるのは、所詮、そやつ本人だ。置かれている環境や出会う物事の機会に対して、多少の揺れはあるだろう。だが、そこから何を得て何を捨てるか、選択するのは本人だ。周りがどうしたって、そこだけは変わらんさ」
えっちゃんは書類の束を見上げた。僕もつられて目をやる。その書類には、地獄に来ている人たちの人生が書き記されている。選択の積み上げた結果だ。
「……僕は、なんでそんな当たり前のことに気付かなかったんだろ」
自身が発した声は意外にも力なく、か細かった。
「ふっ…十数年しか生きていない小僧が何か言っておるな。…………そうやって人は歳を重ねながら、何かを見つけていくのだなぁ…」
彼女は紅い瞳を、真っすぐに向けた。そこには慈愛のように、優しいものが潜んでいた。まるで子を見守る母のように。
「さて、残された日も明日で最後だ。おなごとの約束があるのだろう?」
いやらしく弧を描く口角に、やっぱりさっきのは見間違いだったと確信を持った。
「図書館に行くだけです!」
「ほう、図書館か。初デートには、ちと物足りないのではないか?」
「デートではありません」
「ともかく、時間に遅れておなごを待たせることのないようにな」
―――カランッ―――
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