第8話

 場面は次のチャプターへと飛び越えたみたいに、別のものへと切り替わる。

 その場所を具体的に特定することは出来ずとも、そこは間違いなく病院だった。そしてリノリウム張りの廊下の片隅で、私服姿の希美が化粧の崩れた顔をさらにどろどろにして泣いていた。傍らには、あの告白を断った時でさえ見られなかったくらい厳しい顔つきの鉄二が、やはり私服で立っていた。

 二人とも、私があの時に見つけた格好のままだと、ようやく思い至った。

「声を聞くかい?」

 男がこちらの返答も待たずに指を鳴らした。直後、本来の時間で再生される場面に合わせて、どこからともなく希美の嗚咽が聞こえてきた。

『……私の、せいだ』

 泣き声に混じって一番最初に耳に飛び込んできたのは、そんな言葉だった。

 私は肺と心臓を両手で力任せに握りつぶされているような気がした。

『止せよ、そんなこと言うの』

 慰めようとする鉄二もまた、疲れ切っていて痛々しかった。そんな声、これまでに一度も、真夏の野球部の練習で完全にへばっている時ですら、聞いたことがなかった。

 希美はまたしても、『私のせいだ』と言った。

『だから、止めろって』

『だって、そうだもん』

『何でだよ。事故の責任なんか、お前に無いだろ』

『事故じゃないよ、きっと』

 鉄二の言葉の合間に、するりと滑り込むように紡がれた希美の淡々とした声音に、正直、ぞっとした。鉄二もまた、声を失っていた。

 やや間を置いてから希美は呟いた、『私、知ってるんだよ』と。表情と声音がまるで一致しない、気味の悪さがそこにあった。

『……何を、だよ』

 心なしか、鉄二の問いかけは震えていた。真の理由は分からない。しかし、それでも確かに、彼が希美の告白に付き合おうとしている事は明らかだった。

 希美はいつしか、頬の筋肉が痙攣しているみたいに、奇怪に口元を引きつらせた顔をしていた。笑いたくて笑っているのでは決してなく、いっそ自分に許された「笑み」なんてそんな醜い形でしかないのだと、無理矢理に思い込もうとしている風にも感じられた。

『沙耶、本当は鉄二が好きだったんだよ』

 その瞬間、画面の外と中で、私と鉄二の肩が綺麗に揃って跳ねた。

『それで、鉄二も本当は沙耶が好きだった』

『お前、何を言って』

『知ってるんだよ、私。だって、全部見てたんだもの。だからもう、隠してくれなくても良いよ』

『…………』

『それにね、私は、本当はもっと前から気付いてたの。沙耶の気持ちも、鉄二の気持ちも。ずっと傍で二人を眺めてきたんだもの、もしかしたら、二人がちゃんと自覚するよりも先に気付いてた』

『……希美』

『でもね、同時に、自分の気持ちと、それから沙耶がそれに気付いてくれているんだって事も、分かってた。……だから私は、甘えたの』

 不意に希美が顔を上げた。その目は鉄二を見ておらず、おそらくは特に意味もなく虚空へ視線を向けただけなのだろうけれど、私はその動作がまるで覗き見をしているこちらを見つけようとしている風にも思えて、反射的に目を閉じてしまいそうになった。

 だけど寸前で、男の言葉が脳裏に蘇り、私は辛うじて耐えられた。鼓膜にこびりつく嫌らしい余韻に、私は心の中だけで「放棄なんかしない」と返した。

『本当は、謝りたかったの』

 気付けば、希美は下を向いていた。

『でも、謝れなかった。だって、謝ってしまえば、私の嘘が全部、沙耶に知られちゃうから。それで、いつの間にか自然と沙耶を避けるようになっちゃってた。私はさ、逃げちゃったんだよ』

『あいつはきっと、怒ったりなんてしなかったよ』

 こんな時でも真っ直ぐな鉄二に、私は気持ちよさを抱きながらも、そうじゃないんだよと思っていた。そして現に、希美は首を横に振った。

『そんな問題なんかじゃないんだよ。って言うか、そんなの分かってる』

『だったら、何なんだよ』

『私が、沙耶にそんな子だって思われたくなかったんだよ。ただそれだけなの』

『それって、どういう……』

『鉄二には分かんないのかもね。けど、多分、沙耶なら分かってくれたよ。だからこそ、あの子も私に嘘を吐いたんだろうから。それでまた、私に嘘を吐いているって事を絶対に気付かれないようにしてた。何も無かった顔をして、本当に本音だけで私と付き合っているんだって、私達の間に嘘や誤魔化しなんて一つもないんだって、そんな風に振る舞ってた』

『要するに、見せかけの友情だったって事か』

 僅かに悲しそうな気配を見せた鉄二に対して、希美はあっさりと即答した。『違うよ。逆だよ』と。

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