第3話
「私の呼び名など、それを口にする人間によって幾らでも変わるのだよ」
「どういう事よ」
「天使でも悪魔でも、神でも仏でも、何なら精霊でも幽霊でも。こちらとしては、宗教や好みによって呼びたいように呼んでくれて一向に構わない。それで私自身の存在理由と成すべき事が変わるわけもないからね」
「ずいぶん適当なのね」
「ちなみに、以前にここを訪れたヨーロッパの哲学者は、私の事を『自らの潜在意識が投影された存在』だとも言っていたがね。そう考えると、つまり私は君の真の姿と言うことになる」
「馬鹿じゃない? そんなの絶対に」有り得ないから、と続けようとして、私はふと重大な事実に気付いた。
「……ちょっと待って。此処って、他にも人が来たりするのよね。その、死んだ人が」
男は「今さら何を言っているんだ」とでも言いたげに、わざとらしい溜息を吐いた。
「でも、だったら変じゃない」
「例えばどの辺りが」
「だって、世界中で一秒間に死んでいる人間の数って、もの凄いんでしょ。前にテレビで見たもの」
「その通りだね」
「なのに、私の他には誰もいないじゃない」
「見れば分かるね」
「ふざけないでよ!」
「だから最初に言っただろうに。此処は『境目』だと」
「……何よそれ」
出来損ないの言葉遊びめいた問答に早くも嫌気が差してきて、私はとにかく少しでも事態を把握したくて頭を巡らし……直後に、この時に至るまであまりにも重要な事柄を見落としていた己に愕然とした。
自分は一体、どうして死んだのか。
忘れていた恐怖感が、先ほどよりも遙かに強烈に襲いかかってきた。
私は耳を塞いで、目を瞑って、その場にしゃがみ込んだ。気を抜けば、すぐにでも思い出してしまいそうな気がしたからだ。改めて自身の死を意識するなんて、絶対にごめんだった。
だけど、それなのに、その声は容赦なく私の上から、いや、いっそ鼓膜の内側から響いてきた。
「君はね、学校からの帰り道、赤信号を無視して交差点に飛び出した所を、走ってきたトラックに撥ねられんだよ」
許可した覚えもないのに、真っ暗な視界に紳士の格好をした道化が無遠慮に浮かんでくる。私は思わず「止めて」と懇願したが、それは無慈悲にも聞き届けられなかった。
「運転手が慌てて急ブレーキを踏んだものの、間に合わなくてね。君は車体にまともにぶつかって、体中をアスファルトに削られながら路上を滑っていったんだよ」
「止めてってば!」
必死の叫びも虚しく、私の中にその時の映像が、それもまるで誰かが端から眺めていたみたいに全てを目の当たりにしている光景が、コマ送りのような緩慢さで流れていく。
「服もスカートも破れて、カバンや靴もどこかに飛んでいったね。おやおや、せっかくの美人も、自慢の黒髪も、全部剥がれて台無しだ。あぁ、見てご覧、肘から骨の先が出てしまっているよ。足もおかしな方を向いているし。せめて冬服やジャージ姿だったなら、もう少しマシな見た目だったかも知れないね」
目を背けようにも、すでに両目をきつく閉じている体ではそれも叶わない。猛烈に込み上げる嘔吐感はあるのに、何者かに胃の入り口を無理矢理に掴まれ塞がれているみたいな感覚がして、私は吐いて楽になることさえ出来なかった。
「何ともはや、色んな意味で衝撃的だ」
「……お願いだから、もう止めてよ」
いつしか、私は耳から手を離し、代わりに塞いだ瞼の上から両目を覆っていた、それも強く。肌や骨にまで食い込む爪を感じて、このまま眼球をえぐり取ってしまえば、この光景も消えてくれるのだろうかと半ば真剣に考えた。だけど結局、私の手は涙でべたべたになるばかりで、自分にはそんな勇気も覚悟も無いのだと否応なしに思い知らされただけだった。
「しかしまぁ」
と、そこで不意に男がつまらなさそうに呟いたかと思うと、同時に映像が途切れて、私の視界は再び真っ暗になった。
やがて聞こえてきたのは、傍観者の冷徹な指摘だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます