第2話

「果たして、ようこそと言って良いのかどうなのか、少しばかり悩む所ではあるがね。とにもかくにも、此処は俗に『境目』と呼ばれている」

 こちらの質問を無視していきなりそんな説明を始めた男に、ついつい反発しそうになるのを堪えるのに苦労した。

「境目?」

「あぁ。とは言え、他の呼び方をしたければ、こちらとしては一向に構わないがね」

「別に、そんなのどうでも良いし」

「ふむ。何事に対してもあまり感心を抱けないと言うのは、若者として少なからず勿体ない生き方であったと思うがね」

 気取った物言いに今度こそ思い切り文句でも言ってやりたくなったが、寸前で私は奇妙な違和感に気付く。確かに今、この男は私に対して過去形を使った。

「……今の、どういう意味?」

 やっぱり、これもまたどうでも良いことであるのかも知れない。けれど、どうしてなのだろうか、強いて理由を挙げるなら本能的に、それは聞き流して良い単語でないと感じた。

「と言うと?」

 きっと全てを分かっているくせに、男はとぼけた口調で続きを促してきた。

「……生き方、って、どういう意味よ」

 男は、さも愉快そうに、そのくせ表面上はそんな感情を誤魔化そうとでもしているかのように、とても短く「あぁ」と頷いただけだった。でも、それはつまり、私の悪い考えを正しいと認めている態度だとも言えた。

 馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことは、出来なかった。自分でも不思議なことに、私はこの手抜きの舞台みたいな現状に、憤りを抱きながらも、心の何処かで納得してしまっていた。もしかしたら、それこそが、眼前の奇妙な男の持つ力であったのかも知れない。こんな不条理な生き物がいると言うことは、要するに、まともな存在が生きていられる世界では決して無いのだと、強制的に意識へと擦り込むのだ。

 そして私は、遅まきながら、恐怖した。辛うじて泣くことはなかったけれど、一人だったら号泣しながら取り乱していただろう。寒くもないのに、両腕の肌は粟立ち、両足が小刻みに震えてきた。

「まぁまぁ、そんなに悲観する必要もないさ」

 言葉だけ聞けば慰めてくれている風であったけれど、男の口調は明らかにこちらの感情に対して無頓着な本音を表していた。

「どんな人間であれ、生きている限りはいつか必ず死ぬのだからね」

「だからって、いつ死んでも良いわけじゃないわよ!」

 気付けば大声を上げて、何処にあるのかも定かでない、そもそもあるのかどうかすら疑わしい男の目を、私は思い切り睨み付けていた。

 返ってきた男の反応は、あからさまに冷めたものだった。「本当に?」

 淡々とした問いかけに、私は思わず言葉を失った。

「君は、本当に生き続けていたかったのかい」

 当たり前でしょ、と即答した、つもりだったのに。足の震えが喉にまで伝染してしまっていたのか、出せた声は単語の形も取れない音でしかなかった。

 男が笑ったのが、分かった。

「さてさて、どうしたものかな」

 やがて男はいよいよ上機嫌になってきたのか、ステッキを手首に引っかけてくるくると回しながら、まるで品定めでもしているみたいに私の周りを歩き始めた。

 私は正直、いつ襲いかかられるのだろうかと不安になりつつも、可能な限りそんな弱気を隠していた。何度か、そのふざけた仮面じみたぼやけ顔の実体を確かめてやろうと目を凝らしてもみたものの、全く度の合っていない眼鏡を掛けた時に似た不快な圧迫感を抱くばかりで、結局、成果は上げられなかった。

「……あんたって、死に神とかなの」

 いい加減に気分が悪くなってきた私は、そう問うた。

 私の丁度真後ろにいたはずの男は、一瞬で眼前に現れると、ステッキの持ち手でシルクハットの鍔を軽く叩いて、「さぁ、何だったかな」

 おそらく、その気障ったらしい態度が私に限界を迎えさせた。

「ふざけないでよ」

「ふざけてなどいないさ」

「だったら、さっきも聞いたけど、あんたは一体、何なのよ」

「何と言われてもねぇ」

「死に神じゃないのなら、悪魔? まさか、天使だなんて言わないわよね」

「どうして、私が天使と名乗ったらいけないんだい」

「あんたみたいな気色悪い奴が、天使なわけないじゃない」

 一瞬、男からの返答が途切れた。

 私は突然の沈黙に、僅かばかり怯みそうになったけれど、後悔はしなかった。

 ややあって男は軽く肩をすくめてから、「何なりと、お好きなように」と言った。その、ともすれば笑いを堪えている風にも聞こえる声に、男の沈黙の原因が怒りでなく、ただ単にこちらの反応を意外に感じただけだったのだろうと悟った。詰まる所、この男にとっての私なんて、反応を面白がる為の玩具の人形くらいにしか価値がないのだ。

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