第5話 嫌いなあいつ

 水野がいつも降りていた駅で、ドアは開いてすぐに閉じた。私達二人は昨日までと違ってそこで降りることはなかった。

 自分の家の最寄り駅で、水野はドアが開くのと同時に降りた。それを追いかけるようにして私も降りる。ホームの階段を上がって右に折れたところで、水野を見失ってしまった。ぶわっと嫌な汗が体に滲み、足がとっさに駆け始める。自動改札を勢いよく通り抜けると、茶色い長髪姿がポケットに手を突っ込みながらこちらを見据えていた。


「どこまでついてくんだよ。」


 噴き出していた汗が、驚きで一気に止まった。冷たい空気がそこにふれると、また鳥肌が立った。


「いや、私の家こっちだし…。」


 何も言い返せない状態にするのが嫌で、とっさに発した言葉だった。案の定、全く腑に落ちていない顔でじっと見つめたまま、水野はそのままたたずんでいる。

 私の体はずっと鳥肌を立てていた。電車で妊婦さんの話を聞いていたときから。帰り道にいつも以上に距離を感じたときから。昇降口で目が合って何も言えなかったときから。職員室の前ですれ違ったときから。クラスの女子に何も言えなかったときから。黒板に貼られた無数の写真を目にしたときから。体はずっとゾクゾクしていた。いや、本当はもっと前からそうだったのかもしれない。


 目を向けたりそらしたり、どちらも言葉を発することのないまま、気まずい時間は続いている。不快だったけれど、そうしている以外に逃げ場所がないように思えた。


「…あんたが嫌い。」


 人通りの少ない駅前で、たまに通る車の音がやけに大きく聞こえる。静寂を切り裂くように不意に発された言葉に、驚くような彼の目が向けられた。


「あ?」


 驚いているのは私も同じだった。言わなければいけないことを遠回しにするように、余計なことを自分の口が勝手に話しだしている。


「こんなことさせられてるのは、全部あんたのせいなんだからね。」


「おま…、なんでお前がキレてんだよ!」


 面食らったように、後ろに倒れそうになる大げさな動作。こういう動き一つ一つも、嫌いだ。


「いっつも女子とチャラチャラしてて、男のくせに髪型気にしすぎで長髪で、何なのその色。」


 一度口にし始めると止まらなくなった。自分でもどうしていいのか分からず、そうし続けるほかなかった。


「何でもかんでも自己中で、言いたいこと言うし、やりたい放題やるし、いっつもクラスの輪を乱すのはあんた。」


 彼はあきれた表情だが、黙って聞いている。


「宿題やらないし、先生の言うこと聞かないし、授業で的はずれなこと言うし。電車で知らないお爺さんに怒鳴られて…」


 むっとした顔をして、彼が口を挟む。


「あれはちげえよ。」


 知ってる。


「二股するし。」


「二股ぁ?」


 彼が作った眉間の皺は、本当に何も知らないことを物語っていた。


「…春香が、」


 皺が無くなって、すっとした表情に戻った。


「文月が、そう言ったのか。」


 遠くで犬の鳴き声が聞こえた。声がした方を彼はぼんやりと眺めた。


「だったら、そうなのかもな。」


 自分の外側で起きることが、全て自分には関係のないものだとするような顔。どうとでもなれと言っているような表情が、私は嫌いだった。


「そうやって制服の下にTシャツ来てるのだって校則違反だし、靴もダサいし…」


「おい。」


「朝はいつも遅れてくるから、そのたびにホームルームが止まって迷惑だし、休み時間は男子と馬鹿みたいに騒いでうるさくて…」


「おいって。」


「お昼はいつも体に悪そうなパンばっかりがさつに頬張って、授業中はずっと窓の外かスマホ見てるし、カバンの中は教科書なんて入ってなくて、マンガとかしか入ってなくて。それに帰り道で…」


 昨日のことが一瞬にして頭を駆け巡る。学校を出てから電車に乗り、いつもの駅で降りて原田くんの家に向かい、あの事件が起きるまで。


「おい!!!」


 アスファルトの路面しか見えていなかったことに気づいて顔を上げると、いつの間にかすぐ近くに彼がいた。一定に保っていたはずの距離は、あっけなく破られた。息が当たるほど近い。背、こんなに高かったんだ。


「なんでお前が泣いてんだよ。」


 言いたいことを吐き出すのと一緒に、涙も止まらなくなっていた。


「……ずっと、嫌いだった。」


 彼は黙ったままだった。私達はお互いに何も言わないまま、またしばらくそうしていた。私が涙をしゃくる音と、彼のゆっくりとした呼吸の音だけが、ただそこにあった。その息からかすかな生温かさが感じられた。

 言いたいことを言って、堪えていたものを出し切って、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。


「明日…、学校来るの?」


 遠くに視線を向けたまま、距離は崩さない。


「当たり前だろ。」


「…きっとまた、なんかあるよ。」


 ははっ、と彼は小さなほこりを軽く掃き飛ばすように笑った。


「なんかって?」


 私はそうしてまた黙ってしまう。声を出したら、きっとまた泣き出してしまうから。それを見て彼は何かを諦めたように息を吐き、肩の力を抜いた。


「原田がさあ、かばってくれたんだ。」


 私が職員室から出てきたとき、彼と先生は原田くんの家から帰ってきたところだった。

 人の家の窓を割って逃げたのだから立派な器物損壊で、警察沙汰にもなりかねなかった。原田くんのお母さんから学校に連絡があり、彼は登校したその足で先生たちに事情聴取を受けた。包み隠さず話した彼が、先生と一緒に原田くんの家に謝りに行くと、お母さんの気持ちはすでに静まっていたそうだ。原田くんがそれまでのすべてを、お母さんに丁寧に説明していた。家に着いてすぐ、逆にお母さんが二人に頭を下げたのだという。


「すげえ嬉しかった。」


 頭を下げられたからとか、自分が無事に済んだからとか、そういう意味ではきっとなかった。


「だから大丈夫だから。」


 違う。そうじゃない。声を出さなくても、少しどこかに力が入るだけでもう一度あふれそうになる。


「ありがとな。」


 また、涙があふれた。さっきまでアスファルトに落ち切っていたものが、今度は頬っぺたを伝うようにして流れ落ちる。今度はちゃんと上を向いている。


「…ごめんなさい。」


 彼の目はいたずらっ子のようないつもの目に戻っていた。私達はようやく、目を合わせることができた。


「泣き虫。」


 私を指さして笑う。小ばかにされているのに、今だけは嫌な気持ちがしない。こぶしを作って彼の胴体をパンチすると、後ろによろけるようにして離れた。


「ばか…。」


 片腕でごしごしと涙をぬぐうと、自然と自分の口角が上がるのが分かった。それ以上、涙は流れなかった。きっと今そこにいる彼と、私も同じ顔をしているだろう。それを確かめるようにしてから、彼はゆっくりと私に背を向けた。

 心なしか暖かく感じていたのは、あまりにも橙色な夕日に包まれていたからかもしれない。ついさっきまで立っていたはずの鳥肌は、知らないうちにどこかへ飛び立ってしまったようだった。 

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