第4話 鳥肌

 黒板の“日直”を書き換え、ゴミ捨ても一人で完了させた。濁った透明のごみ袋の外側から、大量の写真がくしゃくしゃになって詰め込まれているのが分かる。

 学級日誌が書きあがり、提出をしに職員室へ入ると先生はいなかった。


「あ、日誌?預かっておくように頼まれてるから。」


 担任ではない女の先生が、椅子に座って上半身だけこちらへねじるようにして日誌を受け取る。


「はい、お疲れ様。」


 既に集中が机の上のパソコンに移っている彼女に小さくお辞儀をして職員室から出ると、昇降口へ向かう途中にある職員玄関の方から先生の声が聞こえた。教室の掃除とゴミ捨てを終え、日誌も渡した。それ以外の日直の役目も果たしたのだから、そうする理由はどこにもないのだけれど、私はそこで立ち止まって待っていた。

 どこかから帰ってきてくたびれた様子の先生が、隣にいる男子生徒に話しかけながらこちらへ歩いてくる。学ランのボタンがしっかりと閉められた水野だった。前を向いた先生が私に気づいた。


「お、悪かったな。気をつけて帰れよ。」


 そう言われている時も私は、水野の方を見ていた。水野はこちらを一度も見なかった。私の横を通り過ぎるその瞬間、昨日あの場所ですれ違った時の映像が、頭の中で重なって思い返されていた。




 静かになった昇降口で一人、上履きを黒いローファーに履き替える。遠くの方で聞こえるどこかの運動部の掛け声や吹奏楽部の音が、いつもより少しだけ寂しげに響く。

 外は昨日よりも空気が冷たい。体を小さく縮めながらカーディガンを羽織った。風がないだけ少しはましだ。

 

 いつもの通り私は、水野の帰りを待っていた。ただいつもと違って、校舎の陰には隠れていない。出てきたらすぐに目に入るところに、ぽつんと一人で立っている。

 下駄箱の方から、靴をコンクリートの床に履きつける音がする。昇降口を出てきた水野はこちらに顔を向けると、私に気づいた目をしてから、何も言わずに正門の方へ目をやった。昨日私に気づいたときと同じ目だったから、私も同じように何も言うことができなかった。

 いつも通りに距離を空けて水野の後ろをつけているが、いつもよりも少しだけ近くを歩いた。その距離は学校の最寄り駅に着くまで、ずっと変わらなかった。どちらもお互い立ち止まることなく、ただ淡々と同じペースで目的地に向かう。二人の間の空間はこれからもずっとこのままで、永久に変わることがないように思えた。


 水野が前の扉から、私は後ろの扉から、同じ車両の電車に乗り込む。パズルのピースを合わせるように、かろうじて空いていた座席に腰を掛けると、ちょうど座席のほとんどが埋まってしまった。隣の車両から賑やかな話し声が、こっちまでよく聞こえる。車輪が線路の上を進む音が、車両全体に響いていた。

 次の駅に止まってドアが開くと、水野はすっと腰を上げた。ぼうっとスマホを眺める横目で見ていた私は、それに反応するように勢いよく立ち上がる。いつの間にか降りる駅に着いたのだと思ったが、それは勘違いだった。水野のぼんやりとした視線の先に、お腹の大きな若い女性がいた。


「あ。ありがとうございます。ご丁寧に。」


 ぺこりと頭を下げた女性が幸せそうな目を向けると、水野はばつが悪そうに下手くそに微笑んだ。


「高校生ですか?」


 ゆっくりと腰掛けた女性は、そのままの表情で水野を見上げた。


「あ、はい。」


「そう。」


 女性は自分のお腹を優しくさすりながら眺めた。


「私が高校生の頃はそんなに気が利かなかったなー。」


 ふふ、と笑うその人の顔。表情だけでなく声や言葉、その存在自体が車内の空気を柔らかくしていた。


「そういうんじゃないっすよ。」


 水野は恥ずかしそうにその人から目をそらしながら、離れた席の窓に貼られたステッカーを指さした。


「ああやって書いてあるから。」


 女性はそちらに目をやってから、水野の顔をもう一度見た。まだ水野は窓の外のどこか遠くを眺めるふりをしている。女性がゆっくりと首を横に振って、優しく語りかけた。


「分かっていることと、できることは全然違いますよ。皆、分かっていてもできないんです。そういうことがしっかりできるということは、とっても素敵なことだと思いますよ。」


 へへ、と笑った水野の顔は、もう勘弁してくれと言わんばかりに赤みを帯びていて、頬がすっかり緩んでいた。


「でもこの前は怒られたんすよ。」


「怒られた?」


「おじいさんに、…いや男の人がいて、同じように席を空けたら、“年寄り扱いするな!”って。」


 申し訳なさそうに頭を搔きながら話す水野を見ながら、女性は口を大きく開けて笑った。


「あはは。それは残念。いろんな人がいるからなあ。」


「難しいっすね。」


 ひとしきり笑った後に、女性がぽつりとつぶやいた。


「でも、間違ってはないんだから。」


 それまでにも増して優しさのこめられた声に、水野はハッとした目で女性の方を見た。


「そう、っすよね。」


 もう一度明るい笑顔に戻った女性は、快活な声で水野に答えた。


「そうですよ!少なくとも妊婦は断りませんから!」


 暖房のせいだけじゃなく、車内が少しだけ温かくなっていた。それなのに私の鳥肌は、さっきまでよりもひどくなっているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る