第3話 事件
コピー用紙に印刷された無数の写真が、タイルのように黒板へ貼り付けられている。
「水野、ちょっと来なさい。」
先生は教室に入って早々、黒板を一瞥し、水野を教室の外へ連れ出した。その後すぐに、黒板を元に戻すように指示をする。ざわざわとした空間にその声は響かず、入り口近くの学級委員に直接言付けをした。
黒板が元に戻されて少しすると先生が戻ってきて、いつも通りのホームルームが始まった。何事もなかったかのように授業が始まり、一日が終わった。異様な空気から始まった教室での一日は、普段と何も変わることがなかった。水野が教室に戻ってこないこと以外は。
朝とは違って閑散とした黒板と教室に、私は一人でたたずんでいる。黒板の右下に、私の名前と水野の名前が縦書きで横に並んでいる。その二つを結びつけるようにして、“日直”という文字が頭に大きく冠されている。
袋を取り換えようとゴミ箱の蓋を外すと、今朝の黒板を彩った写真が無造作に押し込められていた。その全てに水野の姿が収められており、彼の視線の先には原田くんの家があった。
人差し指と親指でつまむようにして、その中の一枚を取り上げてみる。家屋の二階の窓を目がけて、水野が何かを投げつけていた。
「いじめ、だって。」
朝のホームルームが終わるのを合図に、春香の周りで女子会議が始まる。
「石投げて原田ん家の窓を割ったらしいよ、あいつ。」
「最っ低ー。」
「そこまでだとは思わなかったよ、私。」
「春香もよかったじゃん。あんな奴と別れられてさ。」
笑顔で肩をたたく女子生徒に、春香は苦笑いをしながら頷く。
「…これ撮ったの、あんた?」
複雑な表情のまま、春香が私に尋ねた。私は「とんでもない」というように、目を丸くして激しく首を横に振った。
「じゃあ何やってたのよ、ゴシップ調査官は。」
周りの女子が私をつついた。春香は、「そう。」と一言だけ残し、私から目をそらした。その目は、怒りとも悲しみともつかない仄暗い色をしていた。
原田くんという男子のクラスメイトがいる。細い体で、いつも傷んでいるように見える長い髪の毛。前髪でいつも目がほとんど隠れているので、少し近寄りがたい雰囲気があった。
その姿を教室で見ないようになったのは、この1か月ほどのことだった。ある日を境に、彼は学校を休むようになった。彼自身では調子が悪いとしか口にしないらしい。数日前にクラス会議も行われたが、これといった原因や解決策が見つかることはなかった。
春香は水野のことをよく知っていたからこそ、それがいじめではないことが分かっていたのだろう。私は彼女とは違う理由で、それがいじめではないことを知っていた。
帰りの電車で水野は、自宅の最寄り駅よりも一つ前の駅でいつも降りた。改札を出るといつものふらふらとした歩き方で、住宅街の方へと入っていく。そして彼は決まって同じ家の前で立ち止まった。白い壁面で紺色の屋根を持つ二階建ての家。彼はポケットに両手を突っ込んだまま、道路に面した二階の窓をじっと見つめていた。
スマホは“16:52”を表示していた。姿勢を崩さない水野を離れた場所から眺め、「早く帰りたい」と思いながら、私はスマホをスクロールし続けている。
視界の端で水野が動くのが分かった。反応するようにパッと目線を上げると、ポケットから取り出した何かを、じっと見つめていた二階の窓に向かって放っている。やわらかい放物線を描き始めたそれが、落ちる途中で窓に当たると、コツンと小さな音がこちらまで聞こえた。優しい音だった。
音がしてすぐに、カラカラとゆっくりと窓が開く。手を挙げて微笑む、色白のひ弱そうな男子の姿がそこにはあった。どこかで見たようなそのシルエットが、原田くんだったのだと気付くのは後からのことだ。
水野もそれに答えるように、くしゃくしゃにした笑顔で片手を大きく挙げた。目を合わせたり、逸らせたりをしながらも、何も言葉を交わさない。雰囲気にのまれた私は、呼吸をすることもままならない。
そのまましばらくして、水野がもう一度同じように手を挙げた。二階の窓から挙げ返される華奢な手を横目に、水野は自宅の方向へと歩き出した。気付けば住宅街の街灯が、ぽつぽつと灯され始めていた。私が水野のゴシップを伝えなくなっていったのは、その日のことからだった。
ゴシップを流すことが無くなってからも、調査だけは続けていた。それがなぜなのかは分からないのだが、以前にもまして、そうした方がいいような気がしていた。
水野が写真に撮られたあの日、近くを台風が通っているのだと言っていた。雨雲はこちらへ流れてこなかったが、ときおり思い出したように強い風が吹いた。
スマホの画面は“17:00”を表示していた。水野の投げた学校の石ころは、思惑とは裏腹に激しく煽られた。
パリンッ
いつもと違う音に、水野だけでなく私も、体をビクつかせた。
「何やってるの!あなた!」
その日に限って、私以外の目撃者がそこを通りがかった。水野は反射的に、長い茶色の髪を振り乱して全力で駆け出す。来た道を戻るように走る水野。ただ茫然としている私の隣を、石ころを煽ったのと同じ風に乗るように駆け抜けていく。
一瞬だけ目が合った。水野もこちらに気づいたようだったが、すぐに背けるように目線を下げた。それは私をすり抜けるようにして、駅へ吹く風となって街の中に消えた。
「ちょっと…、待ちなさい!」
あの日、二階の窓は開かなかった。私は角を折れた道の脇で塀を背にして、身を隠していることしかできなかった。すぐに背後でバタバタとした足音が聞こえ、閉まったドアがとても大きな音を立てた。原田くんのお母さんだった。
その後もしばらくその姿勢のまま、動くことができなかった。落ち着いたころには辺りは暗くなり、私の上の街灯だけが不規則に点滅を繰り返していた。風はすっかり止んでいて、どこかでコオロギが鳴いたような気がした。
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