忘れ人学園

ひよたま

第1話

 夢を見ていた。

 子供の頃の記憶を、

 過去を振り返るだけの夢。

 10歳の僕は両親にに手を引かれて、

 イルミネーションに彩られた街を歩いていた。

 手にはクリスマスプレゼント。

 空からは、白い粉雪。

 幸せの絶頂だった。

 この日に帰れるならこのままずっと、

 夢の中で生き続けてもいいとさえ思える。

 この後に起こる多くの困難も、

 今の僕にならどうにかすることができる。

 だけど僕は目を覚ます。


 おはよう世界。


 僕にはやることがあるのだ。

 布団から身体を起こし目を開ける。

 目の前は見慣れた部屋の景色。

 今日の始まり。

 ふらふらする頭で、

 壁に手をつき洗面所へと向かう。

 まだ眠い……が、冷たい水は意識を一気に覚醒へと導いてくれる。

 身支度を済ませると、自室と向かいの部屋の前に立つ。


「唯(ゆい)、入るぞ」


 声をかけ、ゆっくりとドアを押し開ける。

 目の前には何もない空間が現れる。

 僕の部屋にも大概物が無いのだが、この部屋の場合は”本当”の意味で物が必要ない。

 この部屋の主である唯は”目が”見えないからだ。

 部屋の中に入ると、途端に鼻腔をくすぐるラベンダーの優しい香り。

 眠る前にお香でも焚いていたのだろう。

 そういえば、昨日の晩にラベンダーの香りは安眠の効果があるらしいと言っていたが早速試してみたようだ。

 部屋に入っても唯は一切起きる気配が無かった。

 それをいいことに、僕ベッドの脇にゆっくりと近づき、そこに眠る部屋の主である唯の寝顔を覗き込む。

 幸せそうな表情を浮かべた、唯の寝顔がそこにはあった。

 ぴくぴくと揺れる、少し長いまつげ。

 小柄で形の整った鼻先。

 肩口まで伸ばした栗色のさらさらストレートヘアは、毎晩寝る前に髪をとかしてあげている自慢の一つ。

 顔立ちだって、僕が言うのもなんだけどとてもかわいいと呼べる部類に入ると思う。

 そんな少女の寝顔を、今のこの時間だけは独り占めすることができる事実は、かなりの幸福と呼べるだろう。

 ただ残念なことに唯には学園に通う義務があるので、遅刻させないためにもそろそろ起こさなければいけなかった。


「唯、朝だぞ」


 耳元で呟くと、声に反応して唯はピクリと身体を振るわせる。


「ん、うう~?」


 それだけで意識は覚醒したようで、唯は上半身を起こす。

 まだ眠そうなまぶた。

 少し緩んだ口元。

 それでも僕がすぐ側にいることに気づくと、


「おはよう、一樹」


 そう言ってとびきりの笑顔で微笑んでくれる。


「おはよう、唯」


 僕は笑顔の変わりに、その頭をクシャクシャと撫でてやる。

 本当に可愛いやつだと思わずにはいられなかった。


「今日は怖い夢、見なかったか?」


「うん、平気だった」


 僕の質問に、元気よく首を縦に振ることで答える唯。


「じゃあ着替えそこに置いておくけど、今日は一人でも大丈夫だな?」


「もう、そこまで子供じゃないんだから大丈夫だよ」


 頬を膨らませる仕草も可愛い。

 もちろん、それがわざとであることも分かっている。

 僕だって意図して言ったのだから。

 この子は僕の思う通りの行動を見せてくれる。

 本当にかわいいお姫様。


「それなら僕はご飯の準備するから、着替えを終えたらキッチンに来るように」


「はーい」


 唯の元気な返事に満足しながら、僕は立ち上がり部屋を出て行く。

 ドアを閉じる前にもう一度振り返り唯を見るが、

 ベッドに手を付いて着替えを探すその姿からは無理をしている様子は無かった。

 今日は本当に大丈夫そうだな。

 少し過保護になりすぎかと自分でも少し反省しながらも、

 内心ではホッと胸を撫で下ろす。

 たかが夢だと思うかもしれないが、

 目が見えないと怖い夢を見た後は一人ではとても不安になるらしい。

 確かに目覚めても、光すらも感じられないのでは本当に自分が目を覚ましているのかさえ、

 疑ってしまうのも無理は無いかもしれない。

 全てが闇の世界で、自分が本当に生きているのか確かめるすべなんて存在しないのだから。

 唯は一見すると、能天気であまり物事を深く考えない素直な性格に思えるのだが、

 案外僕に心配をかけまいと嘘を付いたり黙っていたりすることがよくあるのだ。

 あまりでしゃばるのも、よくないことだと分かってはいるのだが……。

 そんなことを考えているうちに、唯は着替えを終えキッチンに姿を現した。


「どう、変じゃないかな?」


 唯は着替えた洋服のスカートの裾を持ち上げて、少しポーズを決めながら聞いてくる。


「ああよく似合ってるよ、それじゃあご飯にしようか」


「うん」


 テーブルチェアに向かい合うように腰をかけると、ビスケットとフルーツサラダで軽く食事を済ませる。

 朝はどちらも小食なので、だいたいこれくらいで十分だ。

 食事を終えれば、後は学園に向かうだけ。


「唯、準備できたか?」


「ちょっと待って」


 どうやら、うまく靴紐が結べないらしい。

 それでもこれくらいのことなら、目が見えなくても時間をかければ十分にできるので、僕はできるだけ本人にやらせるようにしている。


「完了」


 見れば靴紐は少しバランスが崩れていたが、踏んでこける心配は無さそうだったので、そのままにしておいた。


「よし、じゃあ行こうか」


 僕は唯の手を取り立ち上がらせ、廊下まで連れて歩く。

 窓の外では日が昇り始めていた。

 世界が、活動を始めようとしている。


「唯」


「何?」


 不意に思う。


「唯は、唯だよな?」


 不安があったわけではない。

 むしろ、予感と言った方が近いかもしれない。

 彼女の微笑が、この握る小さな手が、少し熱を帯びた息遣いが、唯と言う存在そのものが誰かによって作り上げられた偽りではないのか。

 そんな疑う余地も無いことを、その時の僕は不意に思ってしまったのだ。


「……唯は唯だよ、どうしたの?」


 まるで僕の心を見透かしたかのように、その存在を誇示しようと繋がるその手を強く握り返してくれる。


「一樹こそ、何か怖い夢でも見たの? 頭なでなでして欲しい?」


 唯の言葉が、仕草が、凍りついた僕の心を優しく包み込んでくれる。


「ううん、もう大丈夫だから」


 分かっている。心配することなんて、本当は一つも無いことを、

 それを証明したくて、どうせ唯には見えてはいないだろうけど、心配かけないように僕は無理をして笑顔を浮かべてみせた。

 もう大丈夫だ。


「ほら、早く行かないと遅刻するぞ」


「うん、じゃあいってきます」


「ああ、いってらっしゃい」


 指と指が離れる。

 唯は、唯のままだ。

 そんなことは当たり前だ。

 今までずっと続いてきたように、これからもずっとそれが続いていく。

 何も恐れることなんて無いのだ。

 世界は今日も回っている。

 僕達は今日を生きていくのだ。


「さてと、そろそろ俺も行くかな」


 去り行く後姿をじっと見送りながら、今日の始まりを僕は感じていた。

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忘れ人学園 ひよたま @hiyotama

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