03.鏡の中の世界
***
――息がし辛い。
勢いに任せて鏡の中へ飛び込んだカミツレが、鏡を通り抜けた瞬間に覚えた感覚がそれだった。換気扇も回していない風呂場で、蛇口から熱湯を延々と捻り出し続けているような閉塞感。時間が経てば経つ程、息苦しくなって、上手く酸素を吸い込めていないような気分になってくる。
覚えた眩暈に頭を押さえつつ、ゆっくりと周囲を見回す。
木造の踊り場。背後には今し方自分が飛び込んだはずの大鏡が座している。ただし、写し出しているのは今見えている風景だけで、自分が先程まで立っていた建て替えられたコンクリートの校舎ではない。
正しい光景であるはずなのに鏡が写すもの一つで酷く不安な気分になる。今この木造の校舎が写っているという事は即ち、現実へ帰る為の道が閉ざされているという事に他ならない。
「浅日……?」
掠れた声で相棒の名を呼んでみるが、当然返事は無い。確かにいたはずの彼は再び姿をくらませている。
階段を上がって3階の廊下へ。馬鹿と煙は高い所が好きだと言うし、事実彼もそうだった。上か下か、行くとするならばきっと上の階だ。
「うっ……!?」
廊下に出た瞬間、漏れたのは悲鳴にも似た声だった。
――廊下が捻れている。歪んでいる、と形容した方が正しいのかもしれない。真っ直ぐな柔らかい飴の棒。その両端を握って捻り上げたような。この廊下は真っ直ぐに歩いて進んでいけるのだろうか? もし、駄目だったら。
逡巡して立ち止まっていると、背後からクチャクチャと端的に言って不快な音が聞こえてきた。食べ物をクチャクチャと行儀悪く食べているような音だ。
眉根を寄せて背後を振り返る。
「……え? ……えっ、え!?」
果たして『ソレ』は立っていた。
白髪交じりの黒い髪がボサボサと足下まで伸びている。片方が潰れた、血走って赤い目。それは手に何かを持っていた。真っ赤で、瑞々しく、錆の臭いがする液体を滴らせる何かを。段々と小さくなる塊を咀嚼するそれと目が合った。
弾かれたようにカミツレは駆け出す。捕まったら終わり。確証は無いが何故か強くそう思った。恐ろしくて悲鳴を上げる事すら出来ない。人は真の恐怖に向き合った時、言葉を忘れる、言葉を喋れる事を忘れる――所詮は動物に過ぎないのだ。
ただし、火事場の馬鹿力、そんな言葉が存在するのもまた事実。
少し前まであんなに通るか否かを悩んでいた歪んだ廊下を走り抜ける。不思議な事に捻れた部分を通過する時も両足は床に貼り付いたかのように、拍子抜けする程あっさり廊下の床の上を駆け抜けた。
校舎逆側の階段へと到達する。本当は教室一つ一つを調べて浅日を捜すべきだったのだが、やむを得ない。今は一度下の階へ下りよう。
背後を注意しながら、廊下を曲がる。
前を見ていなかった為に曲がり角すぐに立っていた何かと衝突してしまった。
「いたっ……! あ、ああ、すいませ――」
棒立ちする学ランが目に入ったので反射的に謝罪の言葉を口にして顔を上げたところで、謝罪の言葉が止まる。
その学ランの少年は首から上が無かった。
綺麗に切断された首から絶え間なく、蛇口から水が零れるように鮮血が漏れ出ている。首から上が切断される、なんて事になればその程度の出血では収まらないだろうに、と現実逃避からか見当違いの感想が脳裏を過ぎった。
しかし、その現実逃避もまた学ランの少年が一歩前で歩み出て来た事により霧散する。
「な、何よ……! あたしなんて襲ったって、い、良い事無いわよ……!」
音が近付いて来る。クチャクチャクチャクチャ――
このまま立ち止まっていると、さっきのアレに追い付かれてしまうだろう。
焦燥とは裏腹に、首無し学ラン少年はスッとカミツレに道を譲った。切断面から溢れた血液を人差し指に纏い、壁に何事か文字を書く。
曰く――『前が見えなかった。ぶつかってすいません』、だそうだ。
「いや、今それどころじゃないから!!」
そりゃ前も見えないでしょうね、と心中で叫び階段を駆け下りる。もう、段差を下りるのが苦手だなんて意識は今日1日で失った。人間、死に物狂いでやれば大抵の事は出来るものである。
一気に1階まで駆け下りたカミツレは流石に体力の限界を感じ、ぐったりと息を吐いた。2階の探索もしていないが、何か見えない壁のようなものが立ち塞がっていて廊下へ出る事が出来なかったのだ。
以上、今起きた諸々の事情を加味して気付いた事がある。
ここにいる怪異達は学校とは関係の無さそうなものから、学校霊のようなものまでとにかく多種多様なそれで溢れ返っている事。
そして、それらの多くは霊力云々に関係無く生者に害を与えられる者――というか、場合によっては死に至らしめる事が出来るような怪異達の闇鍋状態である事。
つまり、ここは――
「あ!? 浅日!!」
何か、決定的な結論に辿り着きそうだったが、反対側の階段から下りてきた浅日の存在に気付いてしまい頭から抜けた。というか、飛んだ。途端にどうでも良くなったと言うのが正しいのかもしれない。
今まで疲れて動かなかった脚が嘘のように軽やかなステップを生み出す。窓の外から、或いは教室の中からこちらへジットリとした視線を投げ掛けて来る怪異の存在すら忘れてカミツレは随分とご無沙汰していた相棒へと声を掛けた。
「浅日! 無事だったの? 大変よ、出られなくなっているかも――ねえ、ちょっと。聞いているの?」
「…………」
駄目だ、返事が無い。
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