第8話 魔術書と魔導書の違い

 この二つは混合されがちであるが、魔術の世界においては、この二つを別であると定義することこそ、礼儀とされているため、勘違いは避けた方が良い。その理由については、この項目を読めば、わかっていただけるだろう。


 魔術書と呼ばれるものは、いわゆる、専門書に近い。

 広義としては、こうして私が記しているこれもまた、魔術書に該当する。しかし、随分と丁寧な、いや、丁寧過ぎる魔術書だろうと思うし、このような本は珍しい。

 たとえば人は、勉強をする際にノートをとることが多いだろう。それは人によってメモに似たものだったり、あるいは丁寧に作る場合もあるが、それこそが魔術書なのである。

 読まれる前提で記すことは、ほとんどない。

 なんだろう、わかりやすく言うと、癖字が酷く何が書いてあるかわからないノートから、推測と憶測を重ねながらその内容を、どうにか読もうとする作業に似ているのだが、魔術書とは最初から、本人が読めれば良い、みたいな前提である。

 しかし、読解したのならば、著者が持っていた魔術特性センスへの理解が深まり、それを己のものとすることも可能になる。


 対して魔導書とは、文字通り魔に導く書である。

 大半の魔導書には、著者の〝全て〟が記されており、魔術師でない人間が読めば、すぐ魔術師になることが可能であり、また、錬度の低い魔術師でも、同様のことが発生する。

 ――だが。

 浸食を始めた魔導書に記された〝本人〟が、読者そのものを〝著者〟に変えてしまう。

 やり残したこと、やり切れなかったこと。

 そうした怨念にも似た、あるいは執念が込められ、――魔道、あるいは外道と呼ばれる場所へ導くからこそ、魔導書である。

 そう、つまり。

 悪意が記されているのである。著者の全てとは、本人そのものであるから。


 ゆえに、一般的には魔導書を禁忌とする場合が多い。それは間違いなく、読者の存在を〝喰う〟ものだから。


 完成された魔術書や、魔導書には〝意識〟が存在する。特に魔導書はその傾向が顕著で、本を開く〝相手〟は、必ず、その魔導書の内容に〝適応〟する読者が選ばれる。繰り返すが、必ずだ。

 何故ならばそれは、本が選んだ相手、だからである。ゆえにそれを逆手に取り、魔術師が魔導書を読む際は、魔術師が本を選択する、という状況を作り出す。この選択の差を明確にすることも、条件の一つだ。


 魔術書が持つ意識は、ただ、読めるような特性を持った相手に、読まれたいという希望に近いものが多い。埃をかぶり、埋もれることを嫌うような感情だろうか。中には、長い歳月と共に、あるいは多くの魔術師の傍にいた影響により、ある種の人格を形成することも。

 その場合、会話も可能となる。


 魔術書自体にギミックを仕込む魔術師も中にはいて、研究対象としては非常に面白い。

 ただ気を付けて欲しいのは、一読して終わらないこと。読解力という言葉があるように、一通り理解したと思っても、まだ手元に魔術書が存在するのならば、必ず折を見て読むこと。それ自体が、魔術書からの、理解していないというメッセージだと思ってもらいたい。

 そして、いつの間にか魔術書が手元から消えていた時、役目を終えたと思おう。

 ただ、魔術師として成長した先に、再会する可能性もある。その時に読めばまた、違う発見が必ずあるはずだ。



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