第4話
「ねえ、夕べはどこに行ってたのさ?」
けだるい躰に鞭打って、朝食の席に着いていた薫の隣に優香がやって来た。
「ん……ちょっと」
「あっ、秘密ってか? なに何ズルい、楽しそう」
何故かアンニュイな風情の薫が気になって仕方が無い優香である。かといって嫌がる従妹に無理強いはしたくない。しかし、エチケットとして小声で忠告をしてやらねばならない事もあるわけで……薫の耳の裏の柔らかい箇所が赤く染まっているのはもしや???
「薫、髪下ろしな。首の後ろ側にマーキングされてるから」
「まあきんぐ?」
ぼんやりと復唱したところで、薫の顔がパァァ……と真っ赤になった。すかさずゴムを外して俯く。
下ろした髪の毛の間から覗く耳の先っぽまで真っ赤だぁと、優香は面白くて仕方が無い。
薫の相手に見当はついている。誰にもチクったりはしないが、成り行きには非常に興味がある。以前から雰囲気が妙だった二人のなれそめも、実はメチャ知りたいし、なにより親族に手を出した雅彦が、今度どう出るかに興味深々なのだ。
『ムフフ……あのむっつりスケベめ――薫に手を出すなんてイイ趣味してるじゃないの』
薫に懸想をしている弟には、この際身を引いて貰おう。実は、昨夜も薫が居なくなった事に気が付いてギャーギャーと煩かった。叔母さんにバレやしないかとヒヤヒヤものだったのだ。
食欲無さそうに卵焼きを突っつく薫に、お粥が有ったよと声を掛ける。そこに薫の母が何やら忙しそうにやって来た。
「あ、薫居たのね? 私昼に松山に帰るから。今お父さんから電話で、仕事中に骨折したって。入院はしなくて良いそうなんだけど、マンションに一人は可哀想だからね」
「え? 骨折!? お父さん何してたの?」
「階段を踏みはずして小指を骨折したんだって、ほら――事務所でスリッパに履き替えたりするから」
「……」
「あんたどうするの? 一緒に帰る?」
どうしようどうしようどうしよう。お父さんは心配だけど、今ここを離れたくない。ピンチの薫は固まってしまった。
「叔母ちゃん、私が帰る時に薫を松山で落とすから」
「あ、そう? 薫、もう2~3日ここに居る?」
「あ、う、うん」
サンキュと、目で従姉に目で合図をして薫はホッと一息をついた。
母親を見送った後、優香に海中公園の遊覧船に乗らないかと誘われたが、薫は断った。
「しゃ――ないな」と、優香はあっさりとあきらめた。その後、仲の良い優香たち家族は4人で出かけて行った。
父親を見舞うでもなく、従姉の誘いに乗るわけでもなく、薫が行きたい場所は丘の上で、その人は明け方になってようやく薫を離してくれたのだった。
東の空が明るくなる頃、網戸にしていた部屋の窓から忍び込んだ薫にしてみれば、昨夜の事はカナリの冒険だ。
恥ずかしい事に……人には言えないが、身体の違和感はハンパ無い。始めてでは無かったのだが、なにせ淡白な大学生活だった上に、3年以上誰とも交際していないのだから当然か。
ぶっちゃけ、ヒリヒリするが、また雅彦に触って欲しいと思う。全身が敏感になって色々な場所がずきずきと疼く(痛いとかじゃなくて)
そうして、白レースのキャミワンピにカーディガンを羽織った薫は、日傘を手に急ぎ足で丘の本家に向かった。
「ごめんください」
なんとなく普通に挨拶をして玄関を開けると、家の中はシン……と静まり返っていた。そう言えばドイツの高級車が無かったと気が付く、買い物にでも行っているのかもしれない。
「明日も会えるか?」
別れる際にそう言っていたから、家で待っていてくれてても良いのにと思う。仕方ない、自分が待てば良いのだ。そう判断した薫は、居間で雅彦を待つ事にした。
昨夜シャワーを借りる際に家の中は案内してもらっている。その時に、『いつ来ても良い、好き勝手に過ごせ』とも言っていたが、今思えば随分と乱暴な言い方にも聞こえる。まぁそれが雅彦なんだが。
居間のソファーは仕事部屋のとは違い、少し固めの仕様だ。ちょこんと腰を掛け、スマホを操作して時間をつぶす。水が欲しいなぁと思ったが、人ん家の冷蔵庫を断りも無しに開ける事は出来ない。
その内に、「こんにちわぁ――」と、なにやら色っぽい声が玄関に響いた。恐るおそる出てみると、40過ぎの女性が野菜を手に立っていた。
「いらっしゃいませ、雅彦さんは留守をしております。あの……どなたでしょうか?」
年齢にしては若作りな赤いミュールと、カットソー&ジーンズのミニスカ姿に違和感を感じながらも、薫は愛想良く応対した。
「あなた誰?」
客に誰かと尋ねられるとは思っていなかったが、丁寧に答えた。
「分家の海野の姪でございます。あの失礼ですが……」
貴方も名乗ってよね? と言う訳だ。対応に間違いはないはず……しかし相手の険(けん)の有る視線に怯んでしまいそうだ。
「砂田よ、野菜が沢山採れたからおすそ分け……私が来てたって言っといて」
随分とぞんざいな口調だったが、漁師町だからこんなものかと薫はあまり気にしなかった。それよりも、砂田と言えば、魚屋のアノ『砂田の奥さん』だという事に気ををとられていた。13年前、本家の倉庫で雅彦の名を呼んで探して居た若奥さんでは無いか!
「それはご丁寧にありがとうございます。帰ってまいりましたら雅彦さんに伝えます」
玄関の磨き上げられた板の間に正座して礼を言う薫を、睨みつける様に見下ろす『砂田の若奥さん』の表情はやはり怖い。
出て行く姿を見送りながら、既に薫の脳内では色々な妄想が渦巻いていた。妄想している間に段々腹が立ってくるから不思議だ。
雅彦が悪さをしていた証拠なんて何もないのに、ずいぶんと自分は酷いなぁと思ったりもする。しかし……とにかく本人に関係を聞いてみなければ! と、薫は鼻息を荒くした。
昼近くになり、そろそろお腹も空いて来た。一旦分家に戻って出直そうか? そう思案をはじめたその時、砂利を走るタイヤの音が聞こえて来た。窓を開けると、丁度車から降りた雅彦が顔を上げた。
驚きもせず「おう」と声を掛ける。ちょっぴりむくれていた薫は、素っ気なく頷いて窓をピシャリと閉めた。
その内、買い物を冷蔵庫に片付けた雅彦がリビングに入って来た。
「玄関の野菜は何だ?」
「砂田の奥さんが持って来たの」
「砂田? あぁ魚屋の砂田か」
腰を掛けた雅彦は、薫の顔を覗き込んだ。
「で?」
「で。って、何が?」
「どうして薫はふくれっ面をしているんだ?」
寂しかったのか? と髪を撫でられたが薫は完全無視をした。まだ妄想の名残りでムカムカしているのだ。
一方、雅彦の方では……薫の不機嫌の理由には何件か心当たりがある。首の後ろにつけた赤い印の事か? それとも、膝の後ろにつけた……いやちがうな、と雅彦は思い至った。
ポツンと玄関に置き去りにされた野菜、そうか砂田の嫁が来た事が気に入らない訳か。
「ふ――ん」
不機嫌の理由に思い当った雅彦のニヤニヤ顔が、ますます薫の気に障る。
「砂田の嫁に何か言われたのか?」
「ううん、言われて無いけど」
「けど、何だ?」
薫はスマホをテーブルに置くと、雅彦に体を向けた。
昨日はワイルドな感じのすり切れたTシャツとジーンズが素敵だった。今日はきちんとした白いシャツとチノパンツが書生風でこれまた素敵だ。涼し気な目元と色白の肌と言う上品な顔立ちをしているから、こういう服装がとても似合う。しばし見とれた後、薫はブンブンと頭を振った。
「雅彦さんっ、あの、あの時、どうして砂田の奥さんは倉庫に来たのかしら?」
「ほぅ」
何が『ほぅ』だ、歯ぎしりしそうになるのを薫はグッと堪えた。
「よく覚えていたな。あの頃俺、砂田の嫁に狙われて、逃げるのに苦労してたんだわ」
「ねらわれて……って、何? まさか……」
「そのまさかだよ。昼寝ついでに網の山に隠れてたら、薫が登って来たからビックリしたって訳、懐かしいな」
「懐かしいって言うかなぁ」
「言うよ。野菜に罪は無いけど返しに行こうか?」
「う……」
目的が何であれ、せっかく持って来てくれたものを突っ返すのも悪い気がする。でも、自分の居ない間に、これからも度々来られるのも嫌だ。心が狭いと自分でも思うが、嫌なものは嫌なのだ。
「夕方、散歩がてら返しに行こう」
「うん」
躰を許すという事は、気も許す……と言うことなのだろう、昨夜は他人行儀な物言いが目立っていた薫が、今日はすっかり慣れ切った物言いになっている。それを指摘すればまた元に戻りそうなので、雅彦は黙っておいた。内心では嬉しくて仕方が無い。
「薫、腹減った?」
「減った……かな」
お腹がすいた。そう言ったはずだが、雅彦は動かない。と言うか、さっきから薫の二の腕を撫でて、だんだんと身を寄せてくる。
「まっ、雅彦さん?」
「ん?」
既に、薫の下半身は雅彦の腿によってソファーに釘付けだ。リビングのカーテンは開け放たれ、外から丸見えなのだが、まさかここで至そうと言うのか? 青くなった薫は、雅彦の腕を掴んだ。
「外から丸見え……ですっ」
「じゃ、寝室に行くか」
いや、そうじゃ無くて。そうしたいのは山々だが、まだヒリヒリしているのも確かで……それに後で魚屋まで野菜を返しに外出するわけで……
「そんな急に」
「急って……そうでも無いぞ。第一そんなレースのノースリーブなんか着て来る薫が悪い」
「服っ?」
「清楚でエロい。胸の下の切り替えとリボンがイヤラシイ」
そうなのか? ただ可愛いだけの服が、意外にも雅彦の性欲スイッチに火をつけるとは思っても居なかった。しばしその事に思いを馳せている間に、薫の胸元のリボンは解かれ、手早い雅彦によってワンピースはサッサと脱がされてしまった……
ミンミンミンミン――
日が高くなり、裏山のセミの合唱は大音響で薫の耳に迫ってくる。
「あ、あれっ?」
気が付くと、薫はタオルケットを賭けられソファーに横たわっていた。床には、脱ぎ捨てられた衣類などなど……が転がっている。シツコイ攻めを繰り返す雅彦に翻弄されて、コトの終わった後まま寝落ちしたと思われる。
裸のままでソファーに腰かけた雅彦に気が付いた薫は、キョトキョトと目を泳がしはじめた。
「今更」
何を恥ずかしがるのかと、雅彦が笑う。
「だって……」
「薫、噛まれるの好きか?」
「しらない!」
終わった後でそういうことを聞くのは反則な気がするが、どうなのだろうか? 完全に面白がっている男を軽く睨んだ。
「甘噛みくらいなら……いいよ」
「良いよ、じゃないだろ。俺の身にもなれ、跡が付くからって我慢してるってのに、噛んで吸ってって、なぁ、明日首を隠す服を買いに行こう」
「行こうって……服は普段松山で買ってるし、ここに洋服屋は無いです……よ?」
「親父さん骨折したんだろ? 明日送るから一緒に帰ろう」
「え、もう私帰るの? 雅彦さんは松山に用事?」
「うん、用事。大事な」
「そうなの?」
「今夜はここに泊まれ」
「……分家の伯父さんに叱られない?」
「大丈夫」
雅彦が大丈夫と言うなら、きっと問題無いのだろう。全面的に雅彦を信じきっている薫はコクンと頷いた。
……出かけるから用意をしておいでと言われシャワーを浴びた後、薫は洗面室の鏡に映った自分の首を見て息を呑んだ。
「あ、痕がついてる……」
……これでは雅彦が服を買えと言うはずだ。カワイイ下着は洗濯機に投入した。未使用のボクサーパンツを『ほい』と出されて素直に借りた。
遅い昼食は雅彦作の冷麺だ。意外にも料理上手な男は、褒められて満更でも無さそうだ。ワンピを着た薫は、雅彦の麻のストールを借り首に巻いた。
「さて」
野菜を手に、もう片方の手はしっかりと薫の手を握る雅彦。二人は港までの散歩を開始した。絶好調の太陽は、今日もジリジリとアスファルトを焼いている。
日傘の下でも、容赦なく肌を焦がす太陽が憎い。
魚屋を訪ねると、あの女性は店の奥に居た。手を繋いだ二人を見て、目を丸くして店先に出てきた。
「あら、まぁ」
よっぽど驚いたのか、擬音しか発せない様だ。
「野菜を頂いた様で、申し訳ないが留守をするので腐らすといけないと思い返しに来ました」
もっともな理由だ。
「あら、良いのに」
ねばりつくような視線を向けられても、雅彦は平然としている。隣で薫は緊張気味だ。
「いや。俺が嫌なので、これからは一切ウチに寄り付かないで頂きたい」
言葉の意味が脳に辿り着くのに時間がかかったのだろう、しばらくして相手は形相を変えた。
「なっ、失礼なっ!」
「……でも無いだろう? 15~6の頃からあんたに追いまくられて散々迷惑かけられたからな。他にも迷惑な思いをしたヤツしってるぜ、旦那に言おうか?」
手を握られたままの薫は、雅彦のセリフに青くなった。本気になるとこの男、案外怖い。薫よりも色を失ったのは当の女で、思いっきり首を振ると言葉を絞り出した。
「よっ、寄り付きませんともっ!」
そう言うと、脱兎のごとく店の奥に逃げて行った。
「手荒だったか?」
野菜を店のレジ横に置いた雅彦は薫の顔色を覗く。
「ううん……でもちょっと怖かった」
「ワルイ」
まだ手を握ったままで港の辺りをブラブラと歩く。
「暑いな?」
「うん」
雅彦の首すじが汗で濡れているのが何とも色っぽくて、薫は見とれてしまう。そういう薫の頬にも汗が流れている。小さな商店の前に立ち止まった雅彦は、薫を木陰のベンチに座らせると店に入って行った。
ベンチはバスの停留所と井戸端会議所を兼ねていて、夕方になると近所のおばさん達が涼みにやってくる。
少し汗が引いた薫は、ぼんやりと海を眺めていた。戻って来た雅彦の手には、ラムネのビンが二つ。
「わっ、懐かしい」
あの時、飲みそこなったラムネ。また雅彦から貰えるなんて……嬉しい。
「ほら」
あの時と同じように、ビー玉を落としこんだラムネを薫は受け取った。今度は落とさない様にと、用心して。
一口飲むと、強めの炭酸が喉をヒリヒリと刺激する。
「美味しい」
雅彦を見上げると、目を細めてコチラを見下ろしている。
『幸せだ』
開放感と安堵感がごちゃ混ぜだけど、凄く幸せだ、と薫は思った。真っ青な海と空、水平線の上には、超巨大なソフトクリーム型の入道雲がむくむくと成長を続けている。この風景はいつも、ここにある。
「入道雲の下でラムネ飲むのって、気持ち良いね」
そう言ってまたラムネを傾けるとビー玉がコロンと音を立てる。隣で雅彦がムセた。
「大丈夫?」
何故かムセながら笑っているが、薫はあまり気にならない。いまはこの風景とラムネを堪能するのだ。
薫よ、入道雲の真下は悠長にラムネを飲める場所では無いぞ。暴風雨や雹、または雷が直撃する可能性大の危険な場所だ。と、雅彦は思う。
薫の発想が可笑しくて仕方がないが、言いたい内容は何となく理解出来るので野暮なことは言わない事にしている。しかし、薫は頭が良い割には細かい事は気にしないし、肝心な所でボケている。
それにだ、親父さんの怪我を何故自分が知っているのか、不思議にも思わない所とかツッコミどころ満載だ。
雅彦が薫の父親の怪我の情報をいち早く知った訳、それは……午前中にかかって来た電話による。
『雅彦さん? 居たのね、良かったわ――いま私、駅前の喫茶店に居るの。ちょっと出てこれないかしら。あ、私薫の母親よ』
『はい、洋子さん(承知しておりますとも)。直ぐに伺います』
薫を網にかけたと思っていた雅彦だったが、それを上回る大網をかけていたのが薫の母、洋子だったとは……自分は長年洋子に見張られていたのだと気が付いたのは、駅前のレトロな喫茶店でコーヒーを一口飲んだ直後で、その千里眼に舌を巻いた。
『薫をどうするつもり?』
『嫁にします』
直球には直球で返すのが筋だ、と雅彦は思っている。まぁコーヒーを吹きそうにはなったが。
『主人がね、骨折してこれから松山に帰るんだけど、薫をウチに送ってね? その時に詳しいお話をしましょう』
『はい、明日伺います』
『ま、判断が早いのね、そう言う人好きだわ。じゃぁ宜しくね』
時計を確認してさっさと出て行く洋子を見送った雅彦は、大きな息を吐いた。柄にもなく緊張していたのだと、その時気が付いた。
その後は買い物をして、役所で届を貰った。婚姻届けだ、善は急げと言うでは無いか。
「薫」
ラムネを飲み切ってカラカラと瓶を揺らす可愛い女(ひと)に声を掛けた。
「ん?」
子供の様な笑顔で自分を見上げる薫が愛おしい。自然と手を握り締めると、一言告げた。
「な、結婚しよう」
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