第3話
一瞬にして、13年前の夏から現在に戻った薫は、煙りに少しむせながら答えた。
「海に……行きたいって言ったら、一緒に行ってくれるんですか?」
「行くよ」
その答えだけで満足した薫は、相手に見えないだろうとは思ったが笑顔を返した。
「やっぱり止めときます。お盆の夜に海になんて行ったら、死人の魂に引きずり込まれるかもしれないし」
「ふふ……」
よく聞く怪談を笑った男は、煙草を足でもみ消すと薫に近づいた。そして囁いた。
「薫、あの時の続きをしよう。ぜひとも今夜」
ゆっくりと顔を上げて片眉を上げた薫に、男は珍しく笑顔を見せた。
「真夜中においで、鍵は開けておく」
是非とも今夜。なんて、何なのその言い草は。商談か? 以前にも増して言葉に情緒を無くした再従兄弟(またいとこ)を薫は見上げた。
首が痛くなるくらい見上げなければいけない身長差は、身体的に脅威を感じる。
「何センチです……か?」
「180いくつか忘れた、計測する度に変るから。薫はあまり伸びなかったな」
そう言って勝手に薫の栗毛(ポニーテール)を軽く引っ張る。そのうちに結び目が解かれ、髪の毛がハラリと肩に落ちた。
「あっ」
「これはもらっておく」
薫お気に入りのビジューの付いたゴムを奪い、人差し指でクルクルと回しながら雅彦は闇に消えた。
広間では、良い具合に酔っぱらった親族が楽しそうに語らっていた。スマホを操作している優香の隣に戻った薫は、ぬるいビールを一気に飲み干した。
「ふ――っつ」
外から戻って来たと思ったら、妙なテンションになっている薫に従姉の優香は胡乱(うろん)な目を向ける。
「ゴムは? ね――、顔赤いけど、どしたの?」
「ななな、なんでもない」
「いや、『な』は一つで良いよ……まぁ落ち着け」
キョドる従妹を穴の空くほど見つめながら、水滴の付いた冷たい瓶を傾けた。
「ほら、飲めば」
言われるがまま、薫はビールをクイと飲み干すした。
頭に浮かぶのは雅彦の事で……十数年ぶりに言葉を交わしたと言うのに、まるであの日からさして時間が経っていないかの様な口ぶりで誘うってどうなの!? と、杯を重ねる毎になぜか怒りがこみ上げて来る。
苦しくて、切なくて、甘酸っぱくて、思い出すたびに躰の一部がキュンと震えるあの夏の出来事は、薫にとってまさに『事件』で、ちょいと昨日の続きをしようよ、などと軽く誘って欲しくないものなのだ。
注がれるがまま、ビール瓶1本を飲み干した薫は、しばしの間テーブルに突っ伏した。
周りが心配そうな、少し笑いを含んだ調子で声を掛けてくる。
「薫ちゃんかぁ? ずいぶん飲んだな」
「んまぁ薫ったら、恥かしい。ねぇ優香ちゃんこの子どれだけ飲んだの?」
遠縁のオジサンやら、母親やらを眠ったふりでやり過ごす。
……しばらくすると、周りの声が止んで来た。臥せたまま小声で尋ねる。
「優香、お母さん居る?」
「ううん、台所に行ったよ。残ってるのはオジサン連中」
「そっか」
のそり……と、薫は両手を握り締めて立ち上がった。
「ちょっと行ってくる。お母さんに聞かれたら、酔った薫は部屋で寝てるから起こすなって言っといて」
「ちょ、ちょっと薫、どこに行くのさ?」
「……聞かないで。決着を付けて来る」
心配する優香を置き去りに、薫はサンダルを引っかけて外に出て行った。
相変らず躰に纏わりつくような熱風に足をとられる様に、すこしふらつきながら……それでも向かう場所はちゃんと判っている。
鈴虫の音色に見送られ、なだらかな昇り道をゆらゆらと進む。オレンジ色の柔らかい灯りがもれる古民家の玄関に手を添えると、滑る様に開いたドアに簡単に迎い入れられた。
間接照明が照らす廊下を進むと、突き当りのドアから光が漏れているのが分った。目指す相手はここに居ると見当を付けた薫は、ドアノブをゆっくりと回した。
居た。
薄いブルーに塗られた壁の前、真っ白な机に向かってペンを走らせている男は、来訪者に気が付いているのに振り向かない。
足を踏みだそうか? どうしようか? と、薫が身じろいだその時、いきなり声が掛けられた。
「早かったな」
「え?」
そう言えば、真夜中においでと言っていたっけ。今何時だろうと、薫はポケットのスマホを手に取った。
10時ちょっと過ぎ……真夜中には全然足りない時間だ。
「終わるまで座って待っていてくれないか」
そう言われて部屋を見渡すと、座り心地の良さそうなソファーが有った。言われるがまま腰を掛けると、マフっと体が沈み込む。
「おぉ」
ソファーの上でモゾモゾと動き、しばし心地よさを満喫した薫は、背中を向けている男をおもむろに見つめた。後姿ならいくらでも見つめて居られるのが嬉しい。
真剣に手を動かしているのは、仕事をしているのだろう。多分ノッているのだと思われる。カツカツと音がするのは多分タブレットペンで書いている所為だろうが、音は別に気にならない。それよりも……エアコンが程よくきいた室内が心地よく、一気に流し込んだビールの酔いも手伝って、薫の瞼はゆっくりと閉じられていった。
夢の中で薫は船に乗っていた。
カクン……と、船がゆれて身体が傾き……そのままパチリと目が覚めた。ソファーのアームにもたれ掛かる自分の隣に温かい体が有るのが分かる。頭を廻らすと、薄茶色の瞳がこちらをジッと見つめていた。
まただ。この人の視線は、薫の心をいつも心もとなくさせる。
「どうして、そんな目で」
寝起きの薫は、ずっと気になっていた事をスルリと口にしていた。
「どんな目?」
自分で分からないなら、教えてあげない。そう思って黙り込む。そのくせ、雅彦の視線にさらされて、薫の躰は情けない事に震えているのだが。
決着をつけるには不利な状態かもしれない。
捕える気満々の男を前に、こんな自分など無力だ。情けない事だが、男女の駆け引きなどレベルの高い交渉ことは苦手で、そういう意味では12歳の頃からあまり成長していない気がする。
サンダル用の透明なカバーソックスを履いた足は、雅彦の膝の上にある。その足首が持ち上げられたと思ったら、薫の躰はいとも簡単に組敷かれていた。
落ちてきた唇の柔らかさは意外で、これが彼との初めてのキスだと気が付いた。それだけで、じんわりと躰の中心が蕩けそうになる。
自分はおかしいのだろうか? 勝手なキスを許して、おまけにキスだけでこんなに潤うなんて……侵入して来た舌に直ぐに絡めとられる舌。経験値の低い薫は深まるキスについて行けそうにない。
よくもこんな男と対決をしようなどと思ったものだ。
しかし、どうしても聞きたい事がある。返事を聞かなければ前には進めない。薫はキスを深める男の頬を両手で捉えると小声で懇願した。
「まさひ……こさ、ね、ききたいことがあるの」
動きを止めた男の顔を、間近で見つめる。その薄茶色の瞳は、自分との濃い血を象徴するものだ。だからこそ聞いておきたい。
「ね、どうして? あの時……始めて、急に止めたりしたの? 私ずっと、ずっと知りたかったの」
幼かった私は、ただの慰み者でしたか? 味見をしてつまらなかったですか? それとも……
薫の髪の毛に鼻先を押し付けた男は、逸らした目を、また合わせて言った。
「衝動の理由は、惹かれたから。薫は12歳だったけど、俺には女に見えた」
そう言うと、また薫の唇を食んだ。
「薫は受け入れてくれたと感じた……けど、」
「けど?」
「涙を見て、判断を間違ったと思った。でも……ずっと忘れられなかった」
「忘れられなかった? 私を?」
「うん」
足らなすぎる言葉の割には、思いが直ぐに伝わるのは何故なんだろう? 薫の頬は、喜びでバラ色に染まった。
雅彦の舌が柔らかい口腔を好き勝手に動くから、薫は息を継ぐ暇もない。粘膜がこすれ合い、互いの唾液が混ざり合う音がビチャピチャと淫靡に響く。その唾液は甘い。
「ふっ……はぁ」
声を漏らした途端、離れる躰。熱源を失った薫は一瞬、パニックに襲われた。
「やっ、やだっ」
あの時もそうだった。愛撫の途中で急に立ちあがった雅彦は、青ざめた顔で薫に服を投げてよこしたのだ。
自分の何がいけなかったのか分からずに、辛かった。幼かった薫は、嫌われてしまったと思い混乱した。そして雅彦を避けたのだ。
……でも、もう大丈夫。
立ちあがった雅彦に、薫は両手を伸ばした。
「まさひこさん」
伸ばしたその手は直ぐに熱い腕に引き寄せられた。薫を抱き上げた雅彦は、薄暗い廊下を進む。南側のドアを開けたそこは寝室だった。
広いベッドに薫は優しく下ろされた。
「薫、戸締りをするから」
言わずに出て行けば、また泣くと判っているのだ。
薫の心の一部はまだ12歳のままで、誤解が言葉で解けても尚、あの時のショックに今だ囚われている。
ぼんやりと見送る薫を雅彦は振り返って見つめた。
半開きになったバラ色の唇と同じ色の頬、クシャクシャになったワンピースの胸元は開(はだ)けてクリームの様な白い肌が興奮の名残りに染まっている。
堪らなくそそる構図だ。しかし今は絵描きの欲はまた今度、と雅彦は思う。今ここでスケッチをとりだしたら、薫は怒りだすに違いない。今夜そちらは封印だ、その方が身のためだ。
玄関を施錠しながら雅彦は、薫の事を考えていた。
あれから、ずっと長い間、薫の事は人知れず見てきた。
年に一度顔を合わせれば幸運だと思えるほど、会う機会の減ったマタイトコは、最初の頃は会うたびに顔を強張らせ、泣きそうな表情で自分を避けた。それを憎しみの所為だと感じ、身が凍る思いと後悔の念に苛まれたが、いつまで経っても薫本人や薫の両親から非難の言葉は聞かれなかった。
忘れてしまおう、そうしないと自分はヤバい男になりそうだ。本気で自分の性癖を疑った。それでも、あの日の薫の記憶は消えることなく、年を追うごとに甘美な思い出と化していった。
どんな女と情を交わしても、ふと浮かぶのは薫の泣き顔。自分はロリコンかと恐るおそるそれなりの映像を試したが、気持ち悪いだけで何も感じない。
薫が18歳になった夏、その年の夏も本家に戻った雅彦は、宴会の席ですっかり大人になった薫と再会した。再会とは言っても、座敷の上座から、食事を運ぶ姿をチラ見しただけだが……。
目が離せずにジッと見つめていると、ギクシャクとした動きで盆を落としそうになって逃げる。頬を染めて目を伏せた薫が、一瞬だけ顔を上げて自分を見た。
……と思ったが、すぐに逸らされた。宴会の間中そんな事が何度も繰り返され、雅彦に希望の灯がともった。
その夜、希望を確信に変えるべく、薫の視線を背中に感じながら雅彦は外に出た。そして、薫が自分を追って出てくるのを待ったが、空振りに終わった。
こんなにものんびりと待つつもりは無かったのだが、強引に動けば薫は逃げる気がした。だから待ったのだ。翌年も空振りに終わり、その次の年から故郷の盆休みに薫の姿は無かった。
今年も薫が帰郷しなければ、どうにかして再会を果たそうと思っていた。読みを間違えて玉砕するのも良いではないかとさえ思うようになっていたのだ。
そして今夜、何年もかけて張った網(あみ)に、ようやく薫が掛かったのだ。もう離さない。
寝室に戻ると、薫はリネンのシーツを巻きつけて横になっていた。まだアルコールが抜けきらないからダルイのだろう。Tシャツとジーンズ姿で雅彦は薫の隣に横たわった。
ベッドに広がる絹糸の様な髪の毛を手に取り鼻を近づけると、シャンプーの香りに交じって汗の匂いがした。その匂いが、あの夏の思い出を呼び覚ます。
それにしても、これから自分を抱こうとしている男の寝室で熟睡とは良い度胸をしている。ついさっきは取りすがって泣いていたのに、だ。
ふるふると小刻みに揺れる睫毛にキスをした。目頭と唇の両端にもキスを落とす。
「ぅむ……」
ゴロンと背中を向けた体を持ち上げた雅彦は坐位になった。薫の髪の毛を左に流すと晒した首すじに舌を這わせ、そして……赤い痕を付けた。くすぐったいのか肩をすくめる。
首すじに鼻先を埋めて犬みたいに押し付けた。
「あ……」
目を覚ました薫が雅彦の髪の毛に手を差し入れた。
「まさひこさん、なにしてるの?」
少し舌足らずなのが可愛い。
「キスをしていた」
「脱がせていいか?」
軽い躊躇の後、コクリと頷いたその背中のジッパーを下げた。むき出しになった肩と腕は白く滑らかだ。肩から肘にかけて掌で撫でると、薫がブルッと震えた。クスリと笑った雅彦の気配で分かったのか直ぐに言い訳をする。
「違うの、寒く無いし。ちょと……その」
「感じた?」
「う、はい」
「良いよ、普通に話して」
耳の後ろを探索すると、ピクッと反応して声が漏れる。
「はぁ……っ。 会話はね……」
何故か冷静に話を続けようとする努力が可笑しくて可愛くて、つい相手をしてしまう。俺に集中しろよ、とは言えやしない雅彦だ。
「会話がどうした?」
「……っと、私の好きにさせて、ください、ね。今ちょっと模索中なので」
「ふふ……模索してるんだ?」
「ん」
薫が会話が出来たのはそこまでで、あとはもう息をするだけでやっとだったのだが……手早く薫の衣類を剥ぎ取った雅彦は、何故か両手で顔を隠している薫の背後で自分も同じ姿になった。ベッドの下には衣類の山だ。
後ろから腕を伸ばすと、体格にしては重量のある胸が、戒めを解かれて揺れた。大きな掌で包み込むが、手に余るサイズなのが嬉しい誤算だ。やわやわと愛撫を繰り返すと薫の肌が汗ばんで来た。
薫はすでに一杯一杯だ、何も考えられない。ただ長い指がもたらす快感に夢中になって行き、その内に甘い声が漏れ始める。雅彦の両方の指は、今日一番の仕事をしているのかもしれない。薫はそれが自分の体に触れる度にピクピクと痙攣し、甘い汁を滴らす。
甘いのはそれだけでは無い。薫の啼き声は、どんな女の声よりも、雅彦の耳に甘く響いた。
やがて……快感に溺れた薫の後頭部がガクンと雅彦の肩に落ちた。左手で支えてシーツの上に横たえると、ピンク色に染まった躰が無防備に晒される。最高の眺めだと記憶に焼き付ける所が色々な意味でイヤラシイが、それはそれで大人の事情ってもんだ。
雅彦が満を持して横たわった躰にのしかかると、嬉しそうに腕を伸ばして来る。なんて可愛いんだと体中にキスを落とし足の指まで舐め上げた(きたないから止めてと拒否る薫を押さえつけての強行だったが)
『最終的には気に入ってた様だけど』そう言うと、『知らない』と拗ねた。
息も絶え絶えの所で膝を曲げてのしかかると、柔らかい躰は簡単に男を受け入れる。
「薫」
少しづつ自分の中に入って来る感覚にたまらなく安堵してしまう薫、ただ雅彦の呟きだけを耳が拾う。
「キツ……」
至近距離にあるその表情を残らず憶えておきたいと薫は思う。顰めた眉も、男のくせにすこし赤い唇も、半分だけ閉じられたセクシーな瞼も全部。
好き。
お腹の奥がキュンと震えるのは心がキュンとなるからだ(と思う)
「薫、大丈夫か?」
「ん、お腹何か変。きつくて……っあ……」
ゆっくりとだが深い動きが薫の未知な快感を徐々に誘っていく、もう雅彦の表情を見つめる余裕も無い。ただ相手の動きに反応するのみで、湧き出る快感に夢中になっていた。
「くっ、薫、煽る」
単語だけが変、などと突っ込む余裕はさらさら無い。自分こそ擬音のみなのだから。躰に響く衝撃はやがてうねりに変る、それが甘いのか辛いのかさえ分からない程の快感に、薫は満たされていった。雅彦に唇を食まれて必死に受け止める。熱い肌や、粘膜や、すべてが快感を誘うから気が狂いそうになる。こんなの知らない。知らなかった……
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