第2話

 代々海野家は大網の綱元を営んでいたが、一族の総領は年をとると漁には出ず、公僕の道を選らぶ者が多かった。町議や町長と言った地域の為に働く役目だ。最近では、分家である薫の伯父が町長を務めていた。

 薫が地方公務員の道を選んだのも、一族の血のなせるわざかもしれない。その中にあって、本家のたった一人の生き残りで有るにも関わらず、公僕の道を選ばなかった海野雅彦は、一族の間では変わり者と思われているはずだ。


 しかし、薫達世代から見れば、人気のオンラインゲームのキャライラストで名を上げた雅彦は成功者だった。それまでもイラストレーターとして知名度は高かったが、手掛けたゲームが爆発的にヒットした今では、彼が創り出したキャラは世界中で愛されてているのだから。



 さて……あてがわれた部屋に落ち着いた薫は、荷物を置くと西側の窓を開いた。伯父の家は、田舎の家だけあって部屋数が多い。薫の部屋は西側の4畳間だ。以前は子供部屋だったらしく、アニメキャラクターのシールが柱に貼られていた。開けた窓から涼しい西風が通る。レースのカーテンだけ閉めてノースリーブのワンピースに着替えた。今年はレトロなデザインのワンピースが豊富で、そういうデザインが好きな薫はバーゲンセールに走ったのだった。今来ているワンピはバーゲンでは無いが、お気に入りのブランドのもので、ブルー系の小花柄と薄手のコットンが涼しげで大のお気に入りだ。


 着替えた後、窓枠にもたれて暮れかかる西の空をぼんやりと眺めていた。薫の視線の先には夕焼けを背景に黒いシルエットを浮かべる総本家の荘厳な建物があった。柔らかな明かりが所々から洩れて、とても綺麗だ。


 ふと、暗闇がゆらりと動いた気がして目を凝らす。よく見ると、本家から続く道に人影が有った。


 まただ……

 ゴムでくくった首筋の産毛が逆立つのを感じる、こう言う風になる理由を薫は知っていた。あの人影は雅彦だ、何年振りだろうか? 最後にチラッと見かけてからもう6~7年か? 相変らず背が高くスマートだ。ヒョロリとした快人とは違って、筋肉のしっかりある大人の歩き方。


 昔から大人っぽい人だった。無口で何を考えているのか分からない人、そして何をするか分からない人だった。

『私の恐怖の対象』と、薫は一人ごちる。そしてこうも思うのだ、

『私が女である事を教えてくれた人』と。



「薫――っ、お食事よ、いらっしゃい」

 廊下から母の声が響いた。網戸のまま電気を消して廊下に出ると、洗面所の鏡に顔を映す。乱れてもいない髪の毛を撫で、大きな息を吐いた。


「薫、ここ!」

 仏壇のある15畳ほどの続き部屋に宴会の支度が整い、十数人の親戚が座っていた。『お客』だ。従姉の優香がポンポンと叩いた座布団に腰を下ろした薫は、辺りをきょろきょろと見渡した。優香が怪訝そうにこちらを見る。

「何探してんの?」

「あ、いや。そう言えばお線香をまだあげてなかったな……と思って」

「あらやだ、婆ちゃん化けて出て来るかもよ。ほら上げておいで」


 本当は雅彦を探していた、でも居なかった。

 窓から見たと思ったのは幻だったかもしれない。仏壇へ向かうと、ご先祖に手を合わせ線香を立てた。お鈴をチ――ンと鳴らし、手を会わせていると背中に熱を感じた。ゆっくりと振り向くと、雅彦がすぐ後ろに座っていた。

「あ……」

 ポカンと口を空けたまま動かない薫に、雅彦は頷くと微かに表情を崩した。本当に微かに……だ。すこしだけ口角を上げたまま、低い声でこう言った。


「薫……ちゃん、久しぶりだね」

 ひさしぶりだね……そういわれて三秒、呼吸を止めていた薫は息を吹き返した。ピョコンと仏壇前の座布団から降りると、三つ指を着いて頭を下げていた。


「雅彦さん、お久しぶりです。あっ、どうぞお線香あげて下さい。お邪魔をしてゴメンナサイ」

「あ、いや……」

 薫が顔を上げた時には、伸ばされていた手は引っ込められ、その手の持ち主は仏壇に向かっていた。

 線香を持つ雅彦の長い指に一瞬見とれた後、薫は優香の元に戻って行った。


「雅彦さんと何話してたん?」

 早速の詮索だ、優香はそこんとこ抜かりはしない。


「ん、久しぶりですねって」

「それだけ?」

「それだけだよ? ほかに何を話すって言うのよ、あんな短時間で」

「ふ――ん。薫、ほっぺ赤いよ」

「あっ、赤くなんかないもん。何言ってんの優香ってば」

「あ、イヤ、赤いなんてもんじゃ無いわ。真っ赤っかだわ(笑)」

「なっ!」

 二人がギャーギャー言っている間に、とっとと宴会は始まっていた。快人が正面に座りオレンジジュースに手を伸ばしながら声を掛けて来る。

「お二人さん、ジュース飲む?」

「「ビール!!」」

 二人でハモりながらバヤリースと書かれた小さなコップを手に泡の飲み物を所望する。

「え――っ、ジュースにすれば?」

「やだよ。快人ってば自分が飲めないからって、私らにまでジュースを勧めないでよね」

「やだ、快人くん。やっぱりお酒ダメな口?」

 子供の頃、お客でコッソリとビールを飲んだ三人の中で唯一、熱を出して倒れた快人の体内には、やはりアルコールを分解する酵素が無いらしい。

「大変でしょ、大学でお酒が飲めないと」

「うん。下戸だって浸透してきたから最近は問題無いよ、僕飲んでなくても楽しいクチだからね」

「そうなの?」

 やっぱり快人は可愛い。目を細める薫に、優香はまた釘を刺す。

「快人、ぶりっ子するんじゃ無いわよ。合コンでは自分一人シラフだから、酔った女の子を車で送って、マンションまでお持ち帰りするんじゃなかったっけ?」

「優香姉ってば、何て事言うのさ! まるで僕が鬼畜みたいに」

「え、鬼畜だろ?」


 延々と続く仲良し姉弟の喧嘩に少々飽きた薫は、酔いを醒ます為に庭に出た。席を離れる際に見渡したが、すでに雅彦の姿は無かった。家に帰ったのかもしれないと、ため息を付く。

 彼がいない事で安堵を感じる反面、残念だと思う心にはさっさと蓋をすべきだ。


 外の生ぬるい風は、エアコンで冷えた指先を解凍してくれる。ビールを飲んだにも関わらず体が冷えるのは年の所為か? いやまだ25歳なのだからホルモン障害などは無いだろう……などとぶつぶつ言いながら庭を散策する。

 虫の鳴き声、裏山の笹が風になびく音、そして南から聞こえる波の打ち寄せる音……暑さは別として、楽園にいるみたいだ。

「海に行きたいなぁ……っと」

 独り言をブツブツと言いながら庭のベンチを探すが、暗くて見当たらない。


 仕方なく、庭に配した冷たい岩の上に腰を落として目を閉じる。このまま眠ってしまうと気持ち良さそうだ。

 と、その時、煙草の匂いが鼻先をかすめた。

 匂いのする方向へ目を凝らすと、ポツンとタバコの火が見えた。そして細長いシルエット。


「海に行きたいのか?」


 仏壇の前とは違う、少し乱暴な口調を意外とも思わない。もともとこういう人だった。

 あのときだって、12歳の私を好き勝手にしたのだから。最後まではしてくれなかったけれど……と薫は思う。


 そう……あの頃は、夏休みになると毎年母親の実家にイトコ達が集まっていた。あいにく優香が熱中症で寝込んだ為、その日薫は一人で海に遊びに行ったのだ。貝殻を集めて満足した後、網元の倉庫の陰で、お婆ちゃんから持たされた水筒から水を飲んでいた。

 収集した貝は、桜貝やヒオウギ貝など美しいもので、これでランプシェードを作って小学校最後の夏休みの工作として提出するつもりだった。

 日陰の外は、じりじりと太陽が焼き付けている。もう少し休んで帰ろう、そう思って倉庫の中を覗き込んだ。盆休みで作業をする人の居ない倉庫は静かだった。

 眼が慣れてくると、入り口にま新しいMTB (マウンテンバイク)が立てかけてあった。

 すぐに本家の雅彦の物だと判った。


 東京から両親と帰省している本家の跡取り息子は、見栄えが良く成績も優秀らしい。優香が『カッコイイなぁ』と言っていた。

 薫は無口な雅彦が少し怖かった。目を合わすとジッと見つめて来る視線に落ち着かなくなるし、何を考えているのか分からない、その大人な雰囲気が薫を臆病にさせるのだ。

 なのに、何故か惹きつけられる。その理由はまだ幼い薫には分からなかった。

 

 物音がしなかったから誰もいないのだと判断した薫は、ひんやりとした倉庫に足を踏み入れた。中には漁に使う網が山と積まれていて、それは天井に届くほどだ。

 天井近くには小部屋が有る。その小部屋は遠くの海の天気を見る為に作られているが、子供たちの秘密基地でもある。そこまで登るには長い階段を使うのだが、網を伝って登った方が楽しそうだ。


 暗闇の中を網の山を登る。楽しくなった薫は、短時間で小部屋までたどり着いた。やった! とガッツポーズをしたその時、左手から声がした。


「誰?」


 どどど、どうしよう……心臓がドキドキして声が出ない。

 すると、さらにもう一度、少し怒った様な声が響いた。


「誰だ?」


「ごっ……ごめんなさい。薫です」

「……あぁ」

 ムクリと声の主が起き上った、本家の雅彦だった

「ま、雅彦さん。すみません、直ぐに下ります」

「薫ちゃん、何しに来たの? ここ危ないだろう」

「そ、その……小部屋まで登ろうと思って」

「え? あぁあそこか」


 ……なぜこんな事になってしまったのか? 薫は今、小部屋に雅彦と一緒に居る。窓を開けてくれたから涼しい風が入って来てホッと息を付いたのも束の間、女の人の声が下から響いた。


「雅彦く――ん、居ないのぉ?」

 誰だろう? 暗闇から目を凝らして見下ろすと魚屋さんの若奥さんが居た。


 身を乗り出した薫の躰を、強い腕が引き寄せた。そのまま抱きすくめられて口を手で覆われた。

『ごめん、声を出さないで。見つかるとヤバいんだ』

 小声で指示をされたので小さく頷いた。

 下ではまだ、魚屋の若奥さんが倉庫の中を覗き込んで雅彦の名を呼んでいたが、返事が無い為に諦めて帰って行ったのが気配で分かった。

 それでもしばらくの間、二人はピッタリと躰を重ねたままジッとしていた。やがて雅彦が腕の力を緩め躰が離れた。


「やっと諦めたか、ごめんよ薫ちゃん」

 薫から躰を離した雅彦は、小部屋に置いてある冷蔵庫からラムネを取り出した。

「ラムネ飲む?」

 コクンと頷いた薫の為に、ビー玉を落とし込むと、『ほら』とラムネを差し出した。それを受け取ろうとした薫の手が滑り、ラムネのビンは落下した。

 ビー玉を落とし込んでいた為、運悪く中身のほとんどが薫のワンピースにぶちまけられた。

「きゃ!」

 思わず後ずさりした薫は、後頭部を窓にぶつけた。

「大丈夫か?」

 ふんだりけったりだ。泣きそうな薫を抱き寄せた雅彦は、薫の頭を触り打撲を確かめた。

「コブは出来て無いか……大丈夫みたいだね」

 頷いた薫は、まだ泣きそうだ。

「ワンピース、汚れちゃった」

 それを聞いた雅彦は、薫に万歳をさせると迷いなく濡れたワンピースを脱がせた。そのまま流しでじゃぶじゃぶと洗うと、窓の枠に掛けた。そのテキパキとした動きを薫はポカンと口を空けて見ていた。その間、ほんの数分の出来事だった……


「この風だとすぐに乾くよ」


 そう言って振り返った雅彦の笑顔を目にした薫は、自分が下着姿である事に気が付いて、急に恥ずかしくなった。そんな薫に気が付いて、オヤと言う顔になる雅彦。

 薫にしてみれば、木綿のキャミソールとパンティーと言う姿を年上のお兄さんの前に晒していると言う事実に焦り、どうして良いか分からず顔が真っ赤になってくる。

 マタイトコとは言え、男の人に服を脱がされたのもショックで、気も動揺した。

 小さく震える薫に気が付いた雅彦は、自分のTシャツを脱ぐと薫に差し出した。


「寒いのか?」

「ううん、寒くない……です」

「え? でも、震えてる」

「寒く無いです……ってか熱い。なんでだろ」


 瞳を潤ませて自分を見上げる薫に、なぜか目が釘ずけになる。気が付くと雅彦の指は薫の髪を撫でていた。絹の様な手触りが心地いい。その手は肩から肘へ優しく移動する。

 互いの体温が感じられるほど近づいた二人は、もう少しでピッタリとくっつきそうだ。つい10分前にも、雅彦を呼ぶ女性から隠れる為に体をくっ付けていた。その時にはこんなに熱くはならなかったのに。やがて……雅彦の指は薫が存在さえ知らなかった場所に伸び、薫を未知の世界へ導き始めた。

 

 あの時、12歳の自分は愛撫の意味を確実に理解していたと思う。そしてそれを受け入れる事に何の躊躇も無かった。と薫は回想した。


 だから、雅彦が突然躰を離しワンピースを投げてよこした時、何が起こったのか直ぐには理解出来なかった。

 『ごめん』と謝られた時に初めて、雅彦の気が変わった事を知ったのだ。失望と羞恥で混乱したまま、急いでワンピースを頭から被ると、居たたまれずに小部屋を飛び出し鉄製の階段を一目散に駆け降りたのだった。


 12歳の少女には過酷な経験だろうか? いや、薫はそうは思わなかった。あれは二人の秘密だと、雅彦に言われなくても分かっていた。そして自分が、この事をずっと忘れやしないという事も。


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