何かが始まりそうなお話。
同日、放課後
雪で埋め尽くされたグラウンドを、3階の窓から見下ろす。少しでも土の感覚を求めてなのだろうか、陸上部がひたすらに雪掻きをしていた。放課後、5時を過ぎた教室には誰の姿もなく、暖房のほこりだけが忙しなく漂っていた。
開けっ放しになっていた扉を、見られているわけでもないのに丁寧に閉めて、自分の席に座る。しばらくの間、何もする気が起きなかったので、ノートを出して広げたまま、黙ってぼんやりとしていた。
こうしていると、この教室は金魚鉢のように狭く感じられた。その一方で、宇宙のようにも感じられる、気がした。
「あれ、春。まだ残ってたんだ」
締め切った教室は解放され、呼吸を取り戻したようだった。
「うん、迎えがまだ来なくて。航くんは、部活だったの?」
サッカー部に所属している彼は、練習着のままだった。冬場、外が使えなくなると、することといえば校内を走ることぐらい。たまに、隣町の体育館でフットサルはするけど、と前に教えてもらったことを思い出す。
「そ。といっても走るだけだし、全然楽しくないよ」
そう言って、彼は席につく。わたしから見て、右隣の列の3個前の席。
「せめてリフティングぐらいさせてくれればいいのにな。この学校、古いからボール使わせてもらえないんだ」
独り言のように、しかしこちらを向いて彼は話した。わたしは、うん、うん、と頷きながら、静かに返事をした。
「でも航くん、何事にも熱心だから。憧れる」
「いやいやいや、そんなことないよ」
謙虚な彼は、いつだって褒め言葉を否定する。そこが少し、気になってしまうのだけど。
他愛ない話を、インクを垂らすように、静かな教室に花が咲くように、ぽつりぽつりとしていた。
彼とわたしの関係は、何か特別なわけでもなく、同じクラスということぐらいだ。しいて言うならば、進級してクラス替えがされて、その時の出席番号の席順が隣だった、ということ。他に、特筆すべきことは無い、と思う。
「航!先生に呼ばれてたの忘れたのかよ」
急に教室に響いた、高めの声。サッカー部の人だろうか、彼を呼びに来たようだった。
「ごめん、いまいく」
慌てた様子で、彼は席を立つ。わたしに、じゃあまたね、と言い残して教室を出ていった。
さっきまで騒がしかった教室は、一瞬にして静寂を取り戻してしまった。外にはもうとっくに夜が我が物顔で寝転んでいた。
目を閉じれば、眠ってしまいそうな心地良さ。かと思えば、そのまま目覚めることを忘れそうな、恐怖。このふたつが入り交じった気持ちに、名前をつけることはそう安易ではないだろう。
時計を見上げる。6時になるところだった。そろそろお母さんが迎えに来てくれるはず。こっそり携帯の通知を確認する。着くのは15分ごろかも、というメッセージを見て、手持ち無沙汰になってしまった。
今から勉強を始めても、中途半端になってしまう。かといって、駐車場に出るのも早すぎる。外は寒いし、できるなら出たくないぐらいだ。そんなことを悩んでいるうちに、時間は過ぎるだろう、と思われた。
その時。再び切り裂かれた静けさは、代わりに扉の大きな音を立てた。
「花岡、まだ残ってたのか」
どうして今日は、こんなにも縁があるのだろう。七瀬先生が立っていた。
「まだ迎えが来なくて」
まあ、これは本当のことだ。
「そうかそうか」
なるほど、というように、先生はいくつか頷いた。
「で、それはなんだ」
何を言っているんだろう、と思い、指さされた先を見る。真っ直ぐわたしの机の上を示していて、そこには携帯が置きっぱなしにされていた。
「ええとですね」
必死に言い訳を考える。校則で、携帯電話の使用は生徒昇降口付近以外では認められていない。その他の場所での使用が先生に発見された場合、没収された上に反省文を書かせられる。まずい。それだけは避けなければ。
「まあ、いい。今後は気をつけるようにな」
寒さだろうか、少しぎこちない笑顔をこちらに向けて、先生は教室から出ていった。帰る時も気をつけてな、と付け加えて。
助かった、と思った。今日だけは、七瀬先生を好きだって思っても、いいかもしれない。
そんな浮き足立った気持ちで、荷物をまとめる。電気を消して、扉を閉めて、真っ暗になった廊下を歩く。既に校内の電気はほとんど消されており、所々の残っている光を頼りに進んでゆく。
ああ、このまま。ここに永久に迷ってしまっても、面白いかもしれない。くだらないことを考えながら、階段を降りる。その一歩一歩が、何かが起こりそうな予兆を表しているかのように、暗闇に響いた。
その予兆の音色は、いつまでも、古びた真っ暗な校舎の中を駆け巡っていたように思えた。
雪の花 芽吹 新菜 @M--mmo0
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