雪の花
芽吹 新菜
すべてが始まる前のお話。
渡り廊下は凍ってしまったかのように静かだった。冬、この古い校舎はどこも風がないだけで、外と変わらないような寒さになる。そのせいだろう。昼休みだというのに、生徒達は暖房のつく教室の中に吸い込まれてしまって、誰ひとりとして姿が見えない。まるで、世界がわたしを残して息を止めてしまったような、そんな感覚になる。
では、なぜわたしが渡り廊下にいるかといえば、化学の七瀬先生に呼び出されたからだ。教室棟から理科棟は、渡り廊下で繋がっている。それゆえ、わたしはここを歩いている。
「遅い、1時10分と伝えただろう」
化学準備室の扉をノックして開けた瞬間に、声が響く。世界が息を吹き返したみたいに。
「申し訳ないです、少し、考え事をしていて」
当たり障りのない返事をして、促されて席に着く。真正面に、先生が座った。
暫し沈黙が流れて、緊張したわたしは、スカートを握った。
「なんでしょうか」
取りあえず要件を聞くのか先決だと思い、尋ねてみる。
「この前の課題のレポート、花岡のが非常に良かったから、コピーして他の生徒に配ろうと思うんだ。いいか」
「は、はい、大丈夫です」
なんだ、そんな話か。安堵して、少し頬が緩む。
「文系だけじゃなく、理系にも配っていいか?」
「え、あ、はい」
わたしは文系、よってこの前のレポートの内容も、化学基礎レベルのものだ。理系に比べたら豆粒ぐらいの出来だと思うんだけれど。先生は一体何を考えているのだろう。
「…やっぱり、花岡は文系なのか」
文理選択の希望調査が終わったのは、もう一年前のことだ。
「今回のもそうだが、1年の時の自由課題研究の化学に関するレポート。あれも素晴らしかった。今からならまだ間に合う。理系に、変更しないか」
思えば、先生は去年もわたしに同じようなことを言っていた。お前の才能があれば理系でもやっていける、文系に行ってしまうのは惜しい、と。
「そうおっしゃってくれるのは嬉しいです。でも、わたしは化学を職業にしたくない、それだけです」
理科や数学、けして苦手な科目ではなかった。とりわけ化学は、非常に興味深かったので、様々な本を読んでいた。そうしたら、自然とテストでも点数が取れて、でも別に、学びたいわけではないのだ。
「なら仕方ない、か…」
先生は、露骨に残念そうな声を出す。仮にも、生徒達の間で人気が高いというのに。ひとりの生徒にこうも執着するのは、禁止事項ではないのだろうか。
なぜか世間話のような、どうでもいい話を先生はし始めたので、受け答えしつつ、改めて、まじまじと先生を見つめてみることにした。
年は確か、二十代半ば。前髪を右に流して、今どきの若者のように、軽くセットしてある。服は白衣、その下には白いYシャツ、渋い赤色のネクタイ、紺のセーター。長い睫毛。整った顔。眼鏡に隠された、瞳は、黒ではなく少し茶色がかっていた。まあ、人気が高いのもわからなくはない。頭の涼しそうなおじさん先生や、絶対に左の薬指には指輪のつかない女の先生の中にいたら、みんな好きになるだろうな、と思った。
適当に会話を続けていると、目覚まし時計のように、大きなチャイムの音が鳴り響く。次の授業の10分前の合図だ。
「七瀬先生、そろそろ」
「ああ、引き止めて悪かったね」
決まりの悪そうな顔で、先生はそう言った。
「では失礼しました」
挨拶をして、化学準備室を後にする。そして渡り廊下に差し掛かる。遠くで突き当たる廊下を、歯磨きしている生徒達が通っていく。世界はもうすっかり、ざわめきでいっぱいだった。
ふと、左側の窓に目をやった。そこには裏庭に続く道があり、夏には鬱蒼とした木々が暑苦しそうに茂っている。だが今の季節は冬。この時期の風景は、見たことがなかった。
それは、白い花が満開に咲いたように、とても、言葉にならない感情をあえて近しい下位互換の言葉で言い表せば、美しかった。木々にくっついて、その枝を埋め尽くすかの如く、雪が、積もっていた。
雪は、花ではない。でもどうしても、そうとしか思えないのだ。この変化は、どのように生じたのだろう。
理科棟に移動してきた、理系クラスの女子3人組の会話が、耳に入ってきた。
「最近、彼氏がなんか様子おかしくてさあ」
「浮気じゃない?やだ、怖い怖い」
「確かに。『恋すれば変わる』って言うもんね」
あ。
それだ。きっと、そうだ。
雪はきっと恋をしてしまった。木立に触れることで、恋に、落ちたのだろう。だから、変わった。真っ白な花びらに。
1人で頷きながら、教室に戻る。すると、隣の席の女の子が急に話しかけてきた。
「ねえねえ、七瀬先生ってさ、彼女とかっているのかな。花岡さん、何か知らない?」
この子もファンなのか、と思いつつ、知らないという旨の返事をする。
残念がった様子を見せると、もうわたしには興味を失ったように、次の授業の準備を始めた。
授業が始まって、退屈しのぎにと窓の外に目を向けた時。ふと、七瀬先生が恋したらどうなるのだろうと考えた。思いついたフレーズを、ノートの端にメモする。
『恋すればあなたも変わってしまうのか』
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