第4話 誓約
ジャンヌが家へ帰るのを確認し、メアリーも家に戻った。ひとまずたき火用にと小枝を拾いながら。
父は荒れ果てた家の端々を直す作業をし、母は落ちているものを片付けたり、掃除をしたりしていた。弟はその母の背中にいた。
弟のおんぶを代わり、メアリーもその作業に加わった。どこに行っていたのか、とは言われなかった。それがメアリーを信頼していたからなのかは知らないが、そんなことよりもまずは元の暮らしを取り戻すことがより重要だった。
数日後、メアリーは久々にヴォージュの森へと出向いた。メアリーがそこへ行くことは今のところ誰にもバレてはいなかった。……ジャンヌを除いて。
ジャンヌは嘘を吐かず、正しいと思ったことをしっかりと言う。それはメアリーがジャンヌに寄り添う白い人影を見たあの日から、ますます精錬されていったように思う。ジャンヌは人と話すのが少しずつ上手になっていった。本当はひどく内気で、男と話すのさえ戸惑ってしまっていた彼女は、少しずつ苦手を克服しようとしているように見えた。
「ウィヴル」
メアリーが名前を呼ぶと、ウィヴルは《妖精たちの樹》の後ろから顔を出した。
『よお。久しぶりだな。どうだった、盗賊の襲来は』
「最悪よ」
『だろうな。ここにも来たぜ。泉の水じゃなく酒を飲んで歌って踊っていた。見苦しいもんだ。どうして盗賊には若い娘がいないのかね。そっちの方が断然良いのにな』
「うるさいわよ。それよりあんた、その体、どうしたのよ」
ウィヴルの濃い緑だった鱗は青みがかり、表面で波打つ光の全てがウィヴルを取り巻いるように見えた。
『オレだって着飾るときぐらいあるさ』
「それは着飾る内に入るの? というか、あんた今まで一歩も樹の傍から歩けなかったじゃない」
『歩けたさ。疲れるから歩かなかっただけで』
「今は疲れないってわけ?」
『さあ。どうだろうな』
ククク、とまたウィヴルは不気味な笑い声を立てた。
『それよりも、お前まさかオレの安否確認のためだけにここに来たわけじゃあるまい』
「そうよ。わたし、ジャンヌの秘密が分かったの。だから一応答え合わせしておこうと思ってね」
『ほう。言ってみろ』
ウィヴルの琥珀色の目がギラリと挑むような光を宿す。メアリーもそれに負けないように精一杯ウィヴルを見つめ返した。
「ジャンヌは、神にフランスの王太子を……つまりフランスを救えと言われたのね。それが原因で、一九歳で死んじゃうんじゃないの?」
『――御名答。ついでに言うと、この樹は霊気を宿している。オレがいることもあってそれは強い。天使どもはたびたびこの樹を地上へと降りるための良い着地場所として使って、ジャンヌに啓示をした。嫌みにも、このオレ様の目の前でな。ほら、だからお前がここに初めて来た日にジャンヌは血相を変えて走ってったろ?』
樹の裏から出て来たウィヴルは、その短い尻尾の先がかろうじて樹の肌に離れないところまでメアリーの傍へ近付いた。
『やっぱまだここまでだな』
「まだ、封印は解けていないようね」
『時間の問題だ。あと二、三年ぐらいで解けるさ』
「司祭様を呼んできましょうか」
『無駄だ。盗賊どもは下品で気分が悪くなるばかりだったが、あちこち荒らしてくれたからな。おかげでここらの空気も良くなった。そう簡単に以前と同じには戻るまい。お前ら人にとっちゃ悪い空気なんだろうがな。そこでお前に提案だ』
すっ、とメアリーは目をすがめた。
この妖精が人間にとって悪いものであることはすでに理解している。だけどメアリーにとっては、すでに悪友のような感覚さえあった。きっとろくでもない提案だろうが、聞いてやらないでもない。
『オレの封印が解けたあかつきには、ジャンヌをあの憎き神から奪わないか? でないとこのオレはまた目的もなく無差別に人を襲う化け物に戻っちまうぜ? あんな娘を神の国へくれてやるなんてもったいねえ。オレのものにしなきゃな』
「奇遇ね。確かに神にあの子を渡すのはもったいないわ」
『ハッ、分かってるじゃねえか。ああ、良いことを教えてやる。ジャンヌは一六歳になったらこの村を出て伯父と一緒にヴォークルールの守備隊長、ボードリクールの元へ行く。何をしに、なんて分かるよな?』
メアリーはフン、と鼻を鳴らした。
「ジャンヌのことなら、もう大体分かるのよ、わたし」
言いつつ、持ってきていた荷物の中から殻をとったクルミとパンを包んだ手ぬぐいを取り出して、ウィヴルの前へそっと置いた。
「じゃあね。わたしそろそろ家へ帰るわ」
『次は?』
「あんたがわたしのところまで来なさいよ」
『上等』
こみ上げる笑みを押し殺しながら、メアリーは森を出た。
ずっと遠くに、ジャンヌの家が見えた。メアリーにとっては立派な石造りの家であり、このドンレミ村に来て初めて眠った場所だった。
ジャンヌがいるべき家だった。
――三年経った。
ジャンヌは以前よりもまたさらに素晴らしい娘へと成長した。
人と話すことに誰よりも優れ、自身の神への情熱を余すことなく他人へと伝えることができる、敬虔な信徒となった。
他人に対しての愛情は人一倍深くなり、前よりも既然とした態度で人と関わるようになった。ドンレミ村の教会をよく鳴らし忘れていた見習い小僧なら、鐘を鳴らし忘れるたびに受けたジャンヌの叱責が、日増しに精度が上がっていったことがよく分かることであろう。
ある日ジャンヌはメアリーの家まで訪ねてきて、人気のない場所で話をした。予想した通り、それはジャンヌの秘密についてだった。
フランスを救えという神様の声を聞きずっと迷っていたが、やっと外へ行く覚悟が出来たこと。これから伯父にも秘密を話し、村を出る手伝いをしてくれるよう説得しようと考えていること。ジャンヌが話した内容についてはまだメアリー以外には知らず、ずっと小さいときから一緒にいたオメットとは会わずに村を出ようと思っていて、もし塞ぎこむようなことがあったら元気づけてやって欲しいということ。
それら全てをメアリーは腕を組んだまま表情を変えずに聞いた。それでもジャンヌは臆さなかった。自信に満ちた態度だった。
ジャンヌは伯父と話がついたなら早々に村を発つようにするという。それを聞いて、メアリーは最後に一つだけジャンヌに聞いた。
「ジャンヌ、神がフランス王国を救うと決められたのなら、あなたは何もしなくても大丈夫なんじゃない?」
ジャンヌは驚いた顔をしたが、すぐに自信に満ちた顔になった。
「それは違うわ。わたしが行動を起こすからこそ、神様はわたしを導いてフランスを救う活路を開いてくださるのよ」
そう言うと、ジャンヌは一度考えるように視線を泳がせてから、少しはにかみながら言った。
「メアリー、わたしが戻ってきたら、今度こそみんなでヴォージュの森へ遠足に行きましょう?」
そんなことを言われ、少しどう答えたものか迷ったものの、メアリーは今度こそ嫌味などなしに「ええ」と言えた。
途端にジャンヌはメアリーの体を抱きしめた。ぎゅっ、と離れがたそうに抱きしめられ、その体温に安心した。ああ、この子はやはりどこにでもいる優しくて素朴なただの村娘なのだ。
ジャンヌがその場を後にしたあと、物影から出てきた妖精を見つけてメアリーはひねくれた笑みを浮かべた。
「ウィヴル。ぎりぎりね」
『丁度いいだろ』
ウィヴルの姿は随分と様変わりしていた。鱗は完全にサファイアと同じ輝きを宿し、内から淡い光を発しているようだった。そして七色の光を反射させる額の石はもう疑いようもない。それはまさしくダイヤモンドと呼ばれる宝石だった。
まじまじと見ていると、ウィヴルは偉そうに胸を張るような仕草をした。
『当分はこのオレの姿を眺めてため息を吐くがいい』
「何を言っているのよ」
ついつい笑ってしまう。この妖精は悪い妖精であるはずなのに、もうメアリーにとっては心強い仲間だ。いつ裏切るか分からない危なっかしいものではあるが、ジャンヌを神から奪い、自分のものにするまではメアリーに協力するだろう。それは言える。
けれど言っておかなければならないことがある。
『あ? 今なんか言ったか』
「ええ言ったわ。聞こえないフリなんかしないでよ」
昔の弱いわたしにはできなかった。
そうよ。絶対、絶対よ。
他の誰にも、ウィヴルあんたにも奪わせない。
わたしは今度こそ、大切な友達を助けに行くの。
異端者のオンゲージモン 白樺セツ @sirakabasetu
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